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最新クレしん映画の豊かすぎるメッセージと自己批評性

『映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』(7月30日公開)を観ました。

その理由は、〈今年のしんちゃんは泣ける!〉〈遂に『オトナ帝国』『アッパレ戦国』を超える怪作が誕生!〉などという絶賛レビューがいくつか漏れ聞こえ、興味をもったからです。

特別泣きたい気分だったわけではありません。また、過去作『オトナ帝国』は奇跡が生んだ無二の作品だと思っているので、私の構えはあくまで半信半疑です。
「ここ数年離れていた『劇しん』、久しぶりにちょっと覗いてきますか…」というくらいの軽い気持ちで劇場に乗り込んだわけですが、結果としては、予想をはるかに上回る完成度に打ちのめされたうえ、これまで決して経験したことのない感情の高ぶりに、気づけば私は両目いっぱいの涙を浮かべ、単身、劇場をあとにしたのでした。

なぜ私はこんなに心をゆさぶられたのか。

その要因を明らかにし、どこかに記しておこう、ということで、以下に、文章をしたためました。
ネタバレを含みますので、映画未見の方は、とにかく一度観てみてください。そしてそのあと、お時間があれば、ともに心をゆさぶられた者として、文章を読んでいただければ幸いです。


ーーー以降ネタバレ含むーーー

物語にこめられた2つのメッセージと優しいまなざし

私が何より感心したのは、この物語のメッセージについてです。
この物語に込められたメッセージを要約すると、大きく次の2点に集約できると思います。

 ① ムダだと思うようなことこそ、大切である
 ② それぞれに大切だと思うことは違うし、違っていい

ここで強調したいのは、この①、②は互いに補いあうことで、そのメッセージをより繊細かつ豊かなものにしているということです。

仮に、①のメッセージを全面に押し出したかたちで、物語がまとめられたとしましょう。
実際、そのようなストーリーも可能だったはずですし、その方が分かりやすくもあります(合理性ばかり追求する悪のエリート養成学園に対抗して、かすかべ防衛隊がおバカの不合理パワーで勝利を収める…みたいな)。

しかし、そのようなかたちで「おバカ」が「エリート」に勝利する物語にした場合、そこに込められるメッセージは「エリートを目指すことは間違っている」という単純なものにしかなりません。
それでは、「エリートになりたい」と考えていた風間くんの夢は、否定されてしまう。
さらに言えば、観客のなかにもいるかもしれない「お受験」組の子供たちも、その人生が丸ごと否定されることにつながってしまいます。

だから、制作陣は②のメッセージをより強い仕方で埋め込んだのだと思います。

それぞれに大切だと思うこと(=青春)は、それぞれに違うし、違っていい。人それぞれに、それぞれの青春がある。
登場人物の誰もが自分の青春を力強く肯定するあの一連のシーンによって、「エリートを目指して勉強する」という風間君的な青春も、間接的に、しかし確かに、肯定されることになります。

「エリートこそ(のみ)が正義」と考える風間さんの振る舞いは、誤っている。
けれども、だからといって、「おバカこそ(のみ)が正義」というわけでもないから、エリートになりたいと本気で願う風間くんの生き方も、それはひとつの青春であり、決して間違いじゃないんだ。
みんなと一緒にいられなくなるのはさみしいけれども、みんなで歩調をあわせるよりも、みんながそれぞれ自分らしく生きることこそが、何よりも大切なんだよ――。

そんな制作陣の優しいまなざしが、やきそばパンをめぐる最後のレースでも、風間くんの背中をひと押ししていたように、私には思えます。
ただし、今を楽しくおバカに生きるしんのすけの方が、青春の本当に美味しいところは味わえるんだけどね…という、これまた優しい注釈がつくわけですが。

物語に込められた第3の重要なメッセージ

ところで、①(ムダだと思うようなことこそ、大切である)、②(それぞれに大切だと思うことは違うし、違っていい)からは、ナンチャッテ3段論法によって次の③のメッセージを引き出すことができます。
 
 ③ だから、何かに本気で頑張る人を、他人が笑うべきではない

この③のメッセージは、クライマックスで語られる①、②から導き出せるという意味で補足的な位置づけにあるようにも思えます。
しかし、私としては、この③こそが、物語上、そしてクレヨンしんちゃんという作品史上においても、ある意味最も重要なメッセージであると主張したです。
そして、さらに言えば、この③のメッセージについて、私は肯定的な評価を下してよいものか、ずっと悩んでいるのです。

どういうことでしょうか。
劇中、③のメッセージが浮き彫りになるのは、生徒会長・阿月チシオさんのエピソードにおいてです。
まずは確認しましょう。

マラソンが大好きで、実力もあったチシオさん。しかし、本気で走ったときの変顔を周囲に笑われることがコンプレックスとなり、走ることをやめてしまいます。
そんなチシオさんが再び走り出すための後押しをしたのは、みさえとひろしの次の言葉です。

「本気で何かに挑戦する人間を笑うやつは、ハゲタカに頭を食われればいい!」(うろ覚え)

この言葉に勇気づけられ、チシオさんは、かすかべ探偵クラブのメンバーとともに走ります。
精一杯の変顔で、精一杯自分を肯定しながら。

彼女の抱えるコンプレックスは、傍から聞けば「そんなことで」と片付けてしまいたくなるような話なのですが、それだけに、ひどくリアリティをもって胸に迫ります。

ただ、ここで注目したいのは、このエピソードが、単にリアルを切り取っているという以上に広い射程をもっているという点です。

なぜ変顔はおかしく、何が変顔をおかしくするのか

そもそも、「変顔」はなぜおかしいのでしょうか。

いくつか理由はあると思いますが、あえてその一つを断言すれば、それは、「変顔」が「おかしいもの」とされてきたからです。
「ハゲ」しかり、「デブ」しかり、「チビ」しかり。

いわゆる「普通」と違う状態を見つけて、それを「おかしいもの」と指し示すことによって嘲笑する。そうした振る舞いが繰り返されることによって、ふつうと違う顔は「変顔」となり、「おかしいもの」となって引きつがれるわけです。

では、そのようにして「おかしいもの」を指し示してきたのは誰なのか。
それは、言うまでもなく、メディアであり、TVです。
特に、幼少期の子どもに訴えかけるという意味では、「おかしいもの」を再生産する役割を筆頭で果たしてきたのは、間違いなく「幼児向けアニメ」でしょう。

そう、「デブ」「チビ」「ハゲ」そして「変顔」などを嘲る文化をつくったもののうち、その旗振り役となっていたのは、まさに『クレヨンしんちゃん』のようなテレビ番組であると、私は思うのです。

事実、過去作品の劇場版『クレヨンしんちゃん』には、いわゆる「オカマ」(と劇中で指し示される人々)や「変顔」など、見た目にフォーカスしておかしみをもよおさせるような場面が数多く登場します。
そうした暴力性を内包してきた『クレヨンしんちゃん』が、今回、「変顔を笑うな」と言うわけです。

この状況をどのように解釈してよいか、私はとまどってしまいます。

『天カス』の自己批評性をどう評価すべきか

これについて、結論は出ません。

制作陣が、これまでの『クレヨンしんちゃん』がはたしてきた暴力的な役割に無自覚で、だから自己批評性などとりたてて意識していなかった、という解釈も、もちろん可能です。

ただ、私はそれより、「変顔を笑うな」というメッセージには、やはり過去の『クレヨンしんちゃん』に対する自己批判が込められているような気がしています。
実際、かつての劇場版では定番だった「オカマ」(と劇中で指し示される人々)の登場回数は、初期作品以降急速に減少しています。『クレヨンしんちゃん』内の価値観もアップデートしているのです。

過去作品には不適切な笑いの表現があったかもしれないが、それに対する反省も踏まえて、今は「何かに本気で頑張る人を、他人が笑うべきではない」というメッセージを発信する。
また、そのことによって、今後はより正しい笑いを子どもたちにとどけようという決意表明とする。
そんな振る舞いにも感じられ、私はそこに心が震えたわけです。

ただ、そうだとすると、今後の『クレヨンしんちゃん』に許される笑いとは、何なのでしょうか。

たとえば、今作でも、冒頭の家族パートで、「みさえのおケツはでかい」からの「げんこつ」という定番のシークエンスがありました。
もしも「何かに本気で頑張る人を、他人が笑うべきではない」というメッセージに厳格であるなら、この「みさえのケツでか」についても、不適切な笑いと言って否定すべきだ、ということになるのではないでしょうか。

これについては、例えば次のような反論も可能です。
「本気で頑張っている」最中に起こるマラソン中の変顔とは違い、みさえのケツがでかいのは、むしろみさえが「本気で頑張っていない」からだ。そのため、みさえのでかいケツとチシオの変顔を同列に語るべきではなく、野暮なことを言う必要もない――など。
私もまずは、そう考えます。

ただ、例えばみさえのケツがでかい要因について深く考えたとして、それが二名の子供の相次ぐ出産による骨盤の変形がもとで、さらにその後の育児ストレスからやむを得ず間食を繰り返した結果としてたどり着いたものだとしたら、それを無邪気に笑うことはできるでしょうか。

本気で頑張って人生を歩んできた結果としての、ケツでか。

私にはもう、みさえのケツでかを笑うことはできません。
むしろ、天カス学園の生徒と一緒に、みんなでみさえを応援したい気分です。

話がずいぶんそれました。

はじめは、この映画がどれだけ素晴らしいか書くだけのつもりだったのですが、思いがけず「『クレヨンしんちゃん』と正しい笑いについて」という出口の見えない話になってしまいました。

とにかく、この作品は、子ども向けミステリーとして十分エンタメしているだけでなく、そのメッセージ性が深い感動を喚起すると同時に、自己批評性をも抱えているがゆえに、とにかくいろいろ語らずにはいられなくなる怪作だということです。

まとまりがなく、ノーエリートな文章ですが、まあ、それも青春だということで…。

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