ムスカを待ちながら~ムスカとアシタカの「眼」から、ぼんやりと人生を考える
物語の世界に敵キャラは数多くいるけれど、ムスカ大佐が圧倒的に悪人であることは、おそらく誰にも異論はないだろう。その悪人性を象徴するのが、あまりにも有名な次の台詞だ。
確認しよう。驚くべきことに、ムスカには人がゴミのように見えるのである。
そもそも、悪人を悪人たらしめるものは何かといえば、それはきっと「世界の見え方」だ。海賊だから悪人なのではないし、人を殺したから悪人になるのでもない。世界をどのように眺め、どのような世界に生きるか。その世界観こそが、悪人を悪人たらしめるのである。
そして、人がゴミのように見えるというムスカの世界観は、その意味で、彼の悪人性を端的に明かしている。
物語論の古典によれば、物語の登場人物が見せる振る舞いは、その人物の思想(と性格)を観客に示す機能をもつのだという(アリストテレス『詩学』より)。だとすれば、軍隊の人々を海に落とすという残虐行為も、シータのおさげを一本ずつピストルで打ち抜くという謎じらしも、その振る舞いはすべて、人がゴミのように見えるというムスカの思想(と、その悪人的性格)をこそ明かすものであると言えるだろう。
さらに、そう考えると、ムスカが最期に視力を失うというのも示唆的である。悪人性の根拠は世界の見え方にある。だからこそあのクライマックスでは、世界を眺めるための眼球を潰され、もはやムスカは何ものも見えなくなるのだ。
光がムスカの眼を潰すというのは、すなわち、「正義(を体現する少年少女)が悪の根源を打ち破る」ということだったのである。
ところで、同じ宮崎作品で言えば、「人がゴミのように見える」でおなじみのムスカ大佐と対比すべきキャラクターに、「ミスター曇りなき眼」(自称)ことアシタカがいる。
悪の権現たるムスカの対極にある、「正義の使者」アシタカ。お互いの「眼」に注目すれば、さしあたりそのように言ってよいだろう。
しかし、作中のアシタカの振る舞いを思い返すに、彼を「正義の使者」と呼ぶべきか、甚だ心もとなく感じられるのも事実だ。
というのも、アシタカが実際にしたことといえば、争いに際して「静まれー!」とか「やめろー!」とか叫んで全員に無視されるか、そうでなければ無視されることにキレて暴力に訴えるかの2つしかなく、その有様は、さながら無力な学級委員のようですらあるからである。
なぜ、「曇りなき眼」(自称)を持つはずのアシタカが、無力な学級委員にしかなれなかったのか。
その理由を、私は、『もののけ姫』の世界にムスカがいなかったからではないかと考えている。
絶対的な悪人がいなければ、その反対につくことで、正義が強い輝きをみせることもない。そして、あの『もののけ姫』の世界には、正義を輝かせられるだけの絶対的な悪人がいない。
だから、アシタカの正義は輝かなかったのである。
実を言えば、他の宮崎作品において、敵対すべき悪人がいなくても、『魔女宅』であるとか『千尋』であるとか、一生懸命に頑張る少女の成長物語は十分成立している。
けれどもその場合、躍動する少女を尻目に、男はひたすら日陰に追いやられる。トンボもハクも救出されるべき弱者であるし、ハウルはヘタレでポルコは豚だ。『ポニョ』の宗助は大活躍を見せるが、まだ物語がはじまる前の子供にすぎない。
要するに、「男の子」的な冒険物語にはいつも悪人が必要なのだし、この世に悪人がいないのならば「男の子」は成長を望まないのだ。
パズーのように冒険したい気持ちはあるけれど、目立った敵がいなければそこに物語は起動しないし、戦いは常に目的なきレベル上げにしかならない。それならば、はじまりの町を出ないままに安穏と暮らしていた方が、どれほどマシか分からないだろう。
私がまだ子どもだったころ、大人たちはしきりに「勉強しろ」とか「外で遊べ」とか言って私たちをけしかけたけれど、その道の先に悪人が見当たらないからには、私はその方向に進む意味を見出せなかったし、むしろそうやって安楽な暮らしを脅かす大人たちを敵に見立てて、小さく抵抗を繰り返していた。
そうやって冒険も成長もしないまま、私は、気づけば大人になってしまった。
本当は、理由や意味なんてなんでもいいからどこか知らない土地へ行き、パン屋なり銭湯なりで一生懸命働いてしまうことができれば、きっと自然に人生は輝いていたのだろう。
誰かの善意だけではなく、ちょっとした悪意に触れたり(あたしこのパイ嫌いなのよね)、がんばったことが認められたり(よくやったね大もうけだよ)しながら、日常の中で人は成長する。それ自体は「女の子」か「男の子」かなんて関係ないはずだし、「敵」も「悪」も必要ない。むしろ、そのような日々のなかで、「敵」や「悪」なんてものは人生を輝かすための必要条件ではないと学んでいくことこそが、真の意味での成長であるはずだ。
今ならそれが分かるし、もしかしたら、もっと前から分かっていたことなのかもしれない。
しかし、子どもの頃の私はそれでも、はじまりの町で、きっとムスカを待ちわびていたのだ。
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