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「20歳の自分に受けさせたい文章講義」の冒頭を読んで

第1章の前にあるガイダンスが印象に残った

この本を読み始めて、実際の文章講義に入る前に、ガイダンスが書かれていた。その内容は今すぐにでもアウトプットしたいと思えるほどに、自分にとって有益な情報だったのでここに記す。
ただ書くことが上手になるだけでなく、自分の人生の糧にもなるような考えであった。
また、私がなぜアウトプットするに至ったかもわかるはずだ。

書くとは自分の気持ちを翻訳することである

ぼくの結論はシンプルだ。書くことをやめて〝翻訳〟するのである。 
文章とは、つらつらと書くものではない。 
頭のなかの「ぐるぐる」を、伝わる言葉に〝翻訳〟したものが文章なのである。
20歳の自分に受けさせたい文章講義 古賀史健

頭の中にある思いや感想など、伝えたいことは沢山あるし、それを人に話すこともできるのに、なぜかうまく自分の気持ちを表現できない。これは、頭の中のぐるぐる、いわば思考を誤って翻訳して書いてしまっているからだと、筆者は説く。
この説は、当たり前のようで、私にとっては新しい考えだった。それに加えて、自分の気持ちを翻訳する、という考え方一つで、文章に対する誠実さのようなものが自然と生まれた気がする。なぜかというと、ただ美しい文章、読みやすい文章を書こうとするばかりだと、本当に伝えたいことを書くよりも、書き方の方に頭がいってしまって、最終的にモヤモヤした文章になりがちだったからだ。
私はこの説に出会ったことで、書くことは自分の気持ちを翻訳することである、という考え方を手にし、ゆっくり、丁寧に、自分の気持ちを探りながら、書くことができるようになった。

考えるために書く

われわれは、理解したから書くのではない。
理解できる頭を持った人だけが書けるのではない。
むしろ反対で、われわれは「書く」という再構築とアウトプットの作業を通じて、ようやく自分なりの「解」を摑んでいくのだ。
20歳の自分に受けさせたい文章講義 古賀史健

さらに、古賀さんはもう少し踏み込んだことを述べている。
書くことは考えることであり、書く力を身につけることは、考える力を身につけることである。書くというアウトプットの行為は、思考のメソッドなのである。だから、考えるために書き、その正しい方法を学ぶ必要がある、と。
以前の私は、何かを読んだり見たりしても、あまり理解できていないように思えて、書こうと思ってもなかなか筆が進まなかった。大学で提出の必要があったレポートなども、同様の理由で苦手意識があった。しかし、この説に出会ったことで、書くことに対するモチベーションが無限に湧いてくるようになった。確かに、何かを吸収しても、頭の中だけで考えるのには限界があるし、どこまで理解したかもわからなくなっていた。だからこそ、私たちは書くという行為を通して、自分の理解度を深め、さらなる思考展開をしていくのだ。
それは、人間の特質上仕方がないことなのかもしれない、とも私は考える。孤独になりたい時も多いけど、ヒトは本来社会性の高さで生き残ってきた生物だ。だから、何かを考えることは、誰かに伝えることで強化されるのだろう。
また、私自身の体験的にも納得させられた。実生活で自分の気持ちがモヤモヤした時にただただその気持ちを書く、という行為を続けていたのだが、思考の整理や理解度の向上という意味で似ていると思った。

まとめ

書くことは自分の気持ちを翻訳することである。
考えるために書く。
この二つの考え、ことばに出会えたことで、自分自身で考える力は飛躍すると思う。今書いていても、書くという行為はとても大変で、だからこそエキサイティングだ。そしてそれは、やはり書くこと自体が考えること、再構築すること、理解し直すことだからなのだろうと改めて感じる。

最後に

正解がどこにもない現代で生きていくために、自走力というのは本当に大事だと思うが、書くことはその助けになる1つの力だとも思った。

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