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他者の頭の良さの評価の仕方

 前回、自分自身の頭の良さに関してテキストを書いた。では他者の頭の良さ、つまり賢い人にお近づきたい場合どういう基準があるだろうか?これは私の私見であるが記述しておきたい。

 まずは、相手の『考える習慣』が付いているか?が最初の条件である。考える習慣がない人間はまず『思いつき』を思考の結果導き出された良解答だと思い混む傾向がある。こう書くと異常だが大抵の人間には『考える習慣』など無い。それどころかクソみたいなフラッシュアイディアを凄く大事にする傾向もあり、大抵組織がクソみたいな事をやるのはこれをそれなりの立場の人間がイエスとした場合である。

 何故考える習慣が他人には無いのか?それは凄く簡単で『思考する』というのは常人には苦痛なのである。スポーツする人ならこう言えば理解していただけると思うが、思考とは呼吸を止めることに等しい。
 持久走などで序盤は調子よくてもいずれは息が上がる、息を吸っても吸い続けられないし、吐き続けても吐き続けられない

 だが、毎日のトレーニングで耐えれる運動量は劇的に増すだろう。そう思考も習慣付けていれば苦痛ではなくなる。この『思考』が瞬間から持続し続けられる人は相当考える人だろう。そうすれば思いつきは判断となりうる
 だが思いつき(大体は感情である)から判断(大体は客観的な視点)へと成長する人はあまり見たことがない。大体は判断から思いつきに堕落していくのを眺める羽目になる。そうなったと思ったらその人とは離れたほうがいい。何故なら一度でも衰えた人間がまた思考のトレーニングしようとするのは大変難しいからだ。

 では判断の基準とはどれぐらい考える事だろうか?個人的には『同じテーマで30秒間考え続けられる』というのを最低単位としている。この長さだと無知な人間にはかなり困難である。何故なら知識のない人間にはインプットがないのでテーマに関するアプローチが足りなくなるのだ。同じことばかりを延々と考え続ける羽目になってこれが大変苦痛になる。下手な考え休むに似たりとはそういう事ではないか?と私は考えている。

 インプットされた知識があれば考えずともそれは既に解決済みの問題でありそれから知慧を得ることが出来るし、なんなら前提条件が変わり今では通用しないことまで分かって別解答に辿り着くまで出来てしまえる。もっともそういう人間に出会うことはないのでそういうのを探してはいけない。

 

この世界に怨念を振りまく(理想:現状は愚痴ってるだけ)悪霊。浄化されずこの世に留まっている(意訳:死んでない)