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頭が良いという評価への再評価

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 僕はよく頭がいいと評される。なお付け加えておくと自慢ではない。自己賛美でもないし、生まれの良さを知らしめたいわけでもない。

 何故ならそれは全て『れっきとしたトレーニングによる結果』でしかない。貴方はスタミナを付ける為のトレーニングの結果を天性の才能だとか、親の資産であると評するだろうか?しないと思う。僕の場合、トレーニング前の地の脳みその程度を考えるとトレーニングの成果が90%位は有る、と言っていい。

 では、そのトレーニングを他者に評価されるだろうか?現実には無い。むしろその頭の良さを利用されるオチだろう。

 まず、大体は不条理で不合理な相手(わたし)の言い分を無条件に理解して賛成出来る事が(貴方の)頭の良さの証左だと言われることが圧倒的である。実際に私が相手の言い分を無条件に飲めたことなど一度もない。

 もちろん結果としては、表向きは私の頭の良さを褒めながら無理難題を私にふっかけ、当然私が突っぱねて、それを使えないと評し反しながら『頭が良いんだからここで妥協するのが一番賢いですよ?』と言いながら私がもっと良い手を思いついている事を認められず、その後私の行動に意表を突かれながら、苦し紛れに死ねだとか、罵詈雑言を私に吐いてみっともない断末魔を上げる。そんなのが世間の『頭の良い人間』への態度である。

 貴方が頭が悪いのならばそれは貴方の幸いである。相手の言い分に悩まなくて良いのだから。それで損をしてもただ貴方の運が悪かったりするんだし、他に悪い人間が居るのだと責任転嫁しながら気楽に生きていける

 貴方の頭が良い、すなわちトレーニング済みならご愁傷さまである。最後の最後まで煩わしいノイズに苛まされることは不幸である。だが無辜の人を恨まなくて良いのは保証できる。ようこそ我が地獄へ

この世界に怨念を振りまく(理想:現状は愚痴ってるだけ)悪霊。浄化されずこの世に留まっている(意訳:死んでない)