六月の魚

この日も雨だった。
私はコンビニで買ったビニール傘を差して、歩き慣れた道を歩いた。サンダルを履いていたせいで、足は雨で濡れていた。

駅に着いた瞬間、男と目が合った。男の目は弱々しいようで、でもどこか遠くを見つめているような、深みがあるような、どこか儚げな優しさのようなものを感じた。

私は違ったとも、合っていたとも思わなかった。私は誰かを探していたけど、それはこの人だったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

その男は傘を差していなかったから、自分の傘を傾けるか悩んだけれど、喫茶店はすぐそこだったから、私と男は少し離れて歩いていた。道路は雨に濡れて光っていた。

夜の喫茶店は人が少なかった。何度か来ているお店だったけど、暗い店内は全く別のお店のようだった。私はよく知らない洋楽に耳を傾ける。

私は下手くそな動作でタルトタタンをフォークで口に運んでいた。皿の端にたっぷりと生クリームが添えられている。柔らかくて、甘い林檎が口いっぱいに広がって、一口で満足してしまうほどだった。時折アイスコーヒーを飲みながら、私は男と話をしていた。どこを見たらいいかわからない私は、男の付けていたネックレスのトップのしずく型に埋め込まれたトルコ石を見つめていた。無個性な黒い服を着たその男の中で、なんだかそのトルコ石は異様に浮いていた。

「ここ、煙草吸えないの?」
男がそう言うので煙草が吸える店に移動した。雨はかなり強くなっていた。雷が鳴っている。大雨の中テラス席に座るのは、なかなか面白いような気がした。私は雨の音を聞きながら煙草を吸った。

男は旅が好きだと言っていた。私も何処かへ行きたいと思った。ここではない何処かへ行けたら、もっと遠くの、全然知らない所に行けたら、なんとなく、いつもなんとなくそんなことを考えていた。
「煙草、一本交換しませんか?」
そう言うと男は快く煙草を差し出してくれた。初めて吸う味だった。私は男と煙草を交換するために煙草を吸っているのかもしれない。

「家まで送って行きますよ」
そう言って男は立ち上がった。雨は弱まっていた。男は鞄から黒い折り畳み傘を取り出して、雨から逃れていた。私もビニール傘を開く。

よく通る帰り道なのに、なんだか懐かしいような気がした。夏だからだろうか。私はいつも夏に切望している。
「夏と冬どっちが好きですか?」
「夏かな」
「私も夏が好き」
夏の夜が好き。夏の夜の匂いが好き。夏の夜のあの日が好き。夏の夜のあの人が好きだった。

ずっと夏にいたい。ずっとあの夏にいられたらよかった。私はサンダルで湿った地面を強く踏む。

「送ってくれてありがとう」
お礼を言うと、男は微笑んだ。来た道を振り返って歩き出した男は、夜を泳ぐ魚のようだった。


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