コーヒーを淹れない朝

コーヒー豆が切れたので近くのコンビニまでコーヒーを買いに行く。最近のコンビニの淹れたてコーヒーは美味しい。美味しいのだが自分で挽いて淹れて飲むコーヒーから感じるものとは別物だ。同じ「コーヒー」という名前で呼ばれ、味もどちらも美味しいが、感じる満足感(情報量?)は比べ物にならない。そしてこれはコーヒーだけではなく他の物事にも言えることではないだろうか。即席味噌汁と自分で出汁をとって作った味噌汁。ホームセンターで買った椅子と自分で木材を加工して作った椅子。スーパーで買った牛乳と自分の手で搾った牛乳。飛行機で行った沖縄とバイクで行った沖縄。名前にしてしまえば全く同じものだが私たちがそれを体験している時に感じる感覚では、同じ名前で呼ぶことも憚られるほどの隔たりがある。「意識」では同じだが「無意識」にとっては別のものなのだ。そして「名前(言葉、と言っても良い)」はそのような差異を全て無視して一括りにする力がある。そのようなことを考えていると、瞬間瞬間で別人のように違うはずの私が私のことを常に私だと思うのはこの「名前」があるからであるような気がしてきた。

脱線した。

人はその物事にかけた労力が大きいほど、その物事から多くのことを感じようとするのだろう。自分にとってポジティブな物事に対して時間と労力をかければかけるほど「楽」を感じるし、ネガティブなことに時間と労力を使えばそれだけ「苦」を感じる。ただ単純に何にでも時間と労力をかければ良いということではなく、それをしている時に得られる感情がどんなものか見極めて手間暇をかける。ということが大事なのだろう。なんだかものすごく当たり前のことを書くためにややこしい文章になってしまった。

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