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あたまのたいそう1220~わたしを助けてくれるのは私だけ

久々に大寝坊をした。今日は講義内で発表を行わなければいけない日で、その発表に出席しないと単位が出ない。遅刻したら発表はさせてもらえないということで、何がなんでも送れず出席しなくてはいけないのだ。
昨日の夜に徹夜で作業するために、スタバでカフェラテのベンティを買ったのだが、どうやらカフェインが効いてくるタイミングと効き目が切れるタイミングがぴったりと重なった結果、爆音のアラームに気づくことなく寝入ってしまったのだろう。
私は楽観主義の人間なので、今回のやらかしは別に誰にも迷惑はかけていないし完全に自業自得だし、誠心誠意謝ればなんとかなるだろう、と思っていたし実際ちょっとの減点で済んだ。普段から真面目に振る舞っていれば基本的に一回のやらかしくらいでとやかく言われることは無いことは、21年生きてきた人生の経験上からもよくわかっている。ここ数年はもう誰かに怒られる経験など無くなったのだが、それは私が生きる術を身につけたからなのか、はなから周りの人々に期待されていないから失敗しても咎められないのか、怒りづらい雰囲気を醸し出しているからなのか、一回注意すれば改善してくれると期待されているからなのか。理由はよく分からないけど、バイト先でも怒られたことがない。
でも1番の理由は、普段から真面目に一生懸命物事に取り組んでいると思われるように振る舞っていることに、ある種騙されているからなのかもしれない。私は自分の自然体がどんな振る舞いなのか自分でも分からないくらい人によって態度を変えるし、本心を曝け出して人と交流することなど人生で一度もしたことがない。だからこそ常に自然体でいる人のことはそれだけで魅力的に見えるし、自然体でいることが許される人にとても惹かれる。
私は自分が人と比べて、他人からの目線に敏感であるとは思わないが、おそらく他人からの視点を自分の頭に吸収した時に考えることが人よりも多いのだろう。
よく「神様が助けてくれた」みたいなことを言う人がいるが、私はそうは思わない。今回の遅刻を助けてくれたのは、普段から真面目に振る舞っていた自分の貯蓄であり、それを切り崩すことでなんとか生活を保つことができた。切り崩すことに臆病になってはいけないと思った。その貯蓄は使うためにあるのだから。その貯蓄は対峙する相手ごとに、ゼロから貯め直さなければいけない。どうせ授業で一緒になる人などせいぜい長くても半年もない程度の付き合いで、これからの人生で関わることなどそうそうないのだから、積極的に貯蓄を使わなければ勿体無い、と思った。
私はこうやって、人生で失敗をした時の予防線を貼っているのだと思う。なんとなく160円のジュースを買うことは、1番もったいない行為なのだろう。160円にありがたみを感じないのなら買うべきではないし、その160円が未来永劫同じ価値で存在するとは限らない。
中高時代とか、あいつは性格が悪いだのなんだのそう言う話はよく聞くことはあったけど、別に性格が悪いことの何がいけないのだろうか。策略的であるとがイコールで性格が悪いとは言えないだろう。そもそも性格を良し悪しで判断するべきではない。極めて主観的な情報で形成された認知を、良い悪いという簡単な言葉に乗せて、他者に押し付けることの方が何倍も性格が悪いのではないだろうか。結局人の価値判断は、その人にしかできないわけで、そうなると最終的には事実のみを列挙することが1番相手を思い遣っているのではないか、と考えてしまうことがよくある。自分の認知を相手に伝えるとしても、それを相手自身が思考するプロセスが生まれるように接しなければいけない。だから言語化して表出させる行為が必要なのだ。





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