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20240207の日記

私は今までの人生で、決定をしたことがないのだと思う。
決定とは、根拠をもって判断を下すということであり、たとえばYouTubeで何か動画を見たときに「その動画の何が面白くて高評価/低評価を押したのか?」「何故このチャンネルを登録していて、何を期待しているのか?」など考える前にクリックしてしまう。本来なら無意識的に行っている推論を、出来るだけ意識的にそれをおこない、言語化できるようにすることが、物事を分析的に捉え、それを言語化することの第一歩だと思う。というか、いつか読んだ本にそう書いてあったはず。
以前からYouTubeでショート動画は見ていたが、最近TikTokを見始めて、今まで癖付けていたはずの習慣がまたゼロに戻り始めている。だから、本当は様々な動画が流れ込んでくる形式のショート動画の形式はとても脳に負担がかかっているはずなのだ。負担というより活性化されているというべきかもしれないが。しかしそれが言語活動(なんだそれ)の妨げになっているのではないか、と最近思うようになった。そもそもTikTokを見始めた当初の目的と、今レコメンドで流れてくる動画のタイプがまるで違う。まるで自分ですら本能的に考えていないような内容の動画が流れてくる。知らず知らずのうちに足を引っ張ってきて、引きずり戻されるような感覚だったと後で気付く。

年が明けて、大学の課題に追われていたら気づいたら1ヶ月経っていた。本当は就活しなくてはいけないのに、証明写真すら準備していない。この長い髪を切ることが本当にストレスで、そんな言い訳が今の私の怠惰をアシストしている。
東京に雪が降った。本当は久々に雪を見てはしゃぎたかったのだが、運が良いのか悪いのか、ちょうど1週間前に柄に合わずにスキーに行ってしまったため感動が薄れてしまった。それはそうと、約4年ぶりにスキーをしたのだが、思っていたよりも滑れたのと共に、単純にスキーの楽しさとは何なのか考えていた。決まったコースを、初心者から中級者向けのコースをザーっと滑ることより、たとえばちょっと背伸びして舗装されていない上級者コースを滑ってみるとか、ちょっとコースから外れてみて新雪に突っ込んでみたりとか、そういう開拓して進む楽しみがある。というか開拓する楽しみはすべての事に共通して言えることで、スキーにおいて開拓することとはそういうことなのだと再確認した。だから、もう何十回も訪れたスキー場で滑ってもあまり楽しくないし、やはり開拓・ディグなのだとおもった。
最近幼稚園以来長い付き合いのあった友人から久々に連絡があった。どうやら幼稚園の周年記念の行事への参加の是非についての内容だったのだが、返信が面倒でもう5日ほどスルーしている。6月の行事へのモチベーションなど今の時点では到底想像も出来ないし、正式な参加の可否についての回答期限はおそらく2ヶ月ほどあるのにそんなことを聞いてくるのもどうなのかと思ったが、今この文章を書いていて、もしかしたら会話の口実だったのかもしれないとちょっと反省した。それならそうと言ってくれればいいだろという話になってしまうが、近いうちに返信しましょう。
最近は寒くてコップによそった温かい飲み物の冷めるスピードがとてつもなくはやい。
なんか近頃人と会話していて相手の声の聞き取りがうまくいかないことが増えた。聴語力とでもいうべきだろうか。原因が何か考えてみたけど、相手がマスクしている場合が多いというのもあるが、それ以上に自分の耳が劣化しているのだと思う。耳自体の問題というか、脳の処理的な方の問題なのかもしれない。ここ数年で人と会話することが激減してしまい、聞き取る力が弱くなってしまったのだろう。たとえば電車の中で会話していて、走行音が騒がしい時に、普通ならある程度は聞き取って会話を成立させることができるのだろうが、私はその背景音と声を分離させる能力が劣化した。あと単純に声も小さくなっているので、こちらの声が相手に届かない場合が増えた。ショック。

レコメンドに頼り切ってしまうことは明らかに思考を鈍らせてしまうとは思うが、絶対にそのほうが効率がいいし、当人がそれを念頭において生きていれば被害はかなり抑えられるのと、出来るだけ最新のテクノロジーには適応できるような人間でありたい。やっぱり母親とかをみていても、そのテクノロジーを把握しているからといって、いざ実際に自分が手を出そうとすると意外とやり方が分からなかったりして、やらないと出来ないはほぼ同義なのだと感じる。

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