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50歳にして大反省、おそるべきは「中島みゆき」。まだ間に合うか?「ファイ…トッ!」

「ファイ…トッ!」
その声が、誰かへの声援だとすれば
恐らく届かないほど、小さすぎる。

「ファイ…トッ!」
強大な敵を前にして、
自分を追い込み、相手を威嚇する声だとすれば
そのトーンは軽すぎる

初めてその曲を聞いたのは、
手あたり次第にレンタルレコードを
カセットテープにダビングしていた学生時代だった。

LP盤のB面、最後の曲だ。
とにかく暗い、口ずさむことさえ
はばかられるような、そんな歌詞。

社会に出た、結婚した、親となって子育ても一段落。
この歌と出会った年齢に、息子が成長した頃、
初めて、本当にその歌と正対してしまった。

実に四半世紀もの時間をかけなければ
歌の意味すら、読み取れないのかと自分に恥じ入った。
長い年月、ただ巡り来る「喜怒哀楽」の川の流れ、
その浅瀬を選んで泳いでいただけの人生なのかと、
誰かに暴かれたような気持ちになった。その歌。

中島みゆき 『ファイト!』

自分の夢や理想を達成するために、頑張っている
「ファイター」への応援歌だと思い込み、
カラオケやラジオで耳にするたび、
ただ漫然と、そう漫然と合いの手を打っていた。

吉田拓郎が歌う、『イメージのうた』の一節、
~闘い続ける人の心を 誰もがわかっているなら
  闘い続ける人の心は あんなには燃えないだろう~
世の中は、闘う者と闘わない者に二分されているという
ステレオタイプが自分を占領していた。

中島みゆきも一見、同じように歌う
~闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう~
「闘う人」は勇気ある者、
一方、その姿を冷笑する傍観者として
存在する「闘わない奴等」

あえて、サビの部分にはさまれたフレーズ
「ファイ…トッ!(闘え!)」という
小さな声は、恐らく主人公がつぶやく、心の声だろう。
けれど、聞きようによっては
もう一人の隠蔽された存在を意識させる、
トリックともいえるのだ。

その存在こそ、無意識の応援者。
「闘う人」に自分を投影して、応援することで、
自分の臆病さをごまかしている
「闘 ”えない” 奴等」が、思わず漏らした
「ファイト!(闘え!)」というフレーズ。

だれもが多少は感じている、社会の理不尽性、
積極的でなくても、その渦に巻き込まれたり
どうにもならない宿命的環境に出会った時。

宿命と割り切り ”あきらめ” を、受け入れるという選択
あえて望むわけではないけれど、やむを得ず
傷つく覚悟で "闘い” を受け入れるという選択
どちらも選ぶことなく、安全エリアを確保し
応援することで、自分をごまかすという選択
すべては、自分自身の ”心” が決める。

後に吉田拓郎は言ったという。
「俺は、どうしてこの歌を作れなかったのか」と。
彼は、中島みゆきのトリックの深さに嫉妬したのだろう。

歌詞中の「ファイト!」のフレーズを、
たからかに声援口調で漫然と合唱していた自分。
四半世紀を費やして、この歌の真意に気づいた今、
傍観者という立場を決め込んでいる時間はない。

ならば、自らに問え。
「ファイ…トッ!(闘え!)」と。
あの小魚たちでさえ、身をふるわせて枷を解き
大海に挑んでいる。

その力は、まだ残っているはずだ
自分自身を促しつづけよう。
小さな声で、「闘え!」と。

鮮やかに、自分を生き切る為に。







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