自己肯定感で自分を守る

自分の人生を自分で失敗と銘打ったら誰が自分を認めてくれるだろう?


他人の発言はいつも無責任で、褒めるにせよ貶すにせよ、自分が優れているとか劣っているとかを他人のものさしで勝手に測って評価しているだけである。


この無責任な他人のものさしは、いつでも私たちを刺そうとそこら中に漂っている。時には誰のものさしかわからない、無記名のものさしが刺さって抜けないようなことがある。ひどいし、むごいし、でもよくある。でも、そんな時、自分を守ることが出来れば無責任なものさしに必要以上に一喜一憂する必要が無くなる。この一つの防衛装備が、昨今よく耳にするようになった自己肯定感と言うものだと思う。


自己肯定感はしばしば、高いとか低いとか個人によって含有量が違うように語られているが、私はそうは思わない。防衛装備をタイミングよく使えているか、そうでないかの違いのように思う。自己肯定感が低いと括られる人の中には、防衛装備を使うことをタブー視している人がいるのではないか。「嫌なことがあった時、都合よく考えるのはずるい」「自分の事を好きでもないのに、自分を守る必要なんてない」どちらも全く違う考え方だが、防衛装備を使わない結論は一緒だ。結果、無責任なものさしを正面からじっくりと見て、何センチか記録して、自分のものさしとの差に動揺して、自分のものさしで測った結果を書き換えようとする。


でも、書き換えたその記録に違和感を感じ続ける。「本当は違うのにわかってもらえない」「納得がいかなくて腹が立つ、悲しい」など。この積み重ねによって自分のものさしが示す数字と、自分が導き出したはずの数字がずれていき、自分が何者なのか、何を考えているのか分からなくなって、人生が他人の無責任なものさし次第でぶれていく。


他人の無責任なものさしを受けて、自分のものさしの結果を上手く修正して、納得できる人もいる。「そういう人もいるんだ」「そういう考え方もあるんだ」「必要そうなとこだけメモしとこ」これが、防衛装備のひとつになる。これを「都合のいいやつ」と捉える人もいるだろうがその考え自体が他人の無責任なものさしなのだ。要は自分がどんなに神経質に考えても他人の無責任なものさしを「必要なとこだけメモ」する人にとってはメモするかどうか検討されるひとつの材料でしかない。


また、検討するまでもなく自分を傷つけそうな尖ったものさしは、初めから拒否できる人もいる。「役に立ちそうにないからまともに聞くのをやめよう」「この人はこう言ってるけど私は違うのでさようなら」文章だけ読むと、人の話を聞かない頑固者のように見えるかもしれないが、これはあくまで考え方の話だと考えれば、なんと考えていようが相手にはわからない。自分の考え方もまた、他人にとっての無責任なものさしであり、取るに足らないかもしれないひとつの材料でしかない。(目の前で放たれる暴言や、暴力といったものは、物理的に拒否できないので、もはや無責任なものさしと言うべきでないかもしれない。自分の受け取り方次第ではこの人はいい人などと思わずどうにかして逃げ出して欲しいと私は思う)


こういう防衛装備の使い方は、上手くできなければ練習するのがいいと思う。不意に刺さったものさしは抜けづらいし、自分の線をどんどんずらしていく。時間がかかってもいいから、真正面から見ないように工夫していく。ずるはないと思う。防衛装備を使いこなせるようになれば、何もかも受け取らないのではなく、必要なところだけメモすることができるようになる。メモするものと、メモしないもの、目にもしないものを選別することが、自分を認めていく力、自己肯定感のひとつの姿なのだと思う。


と、言ってね、

そんなに簡単じゃないんだよね。出来ない人にとっては。そりゃあ他人の言ったことひとつに振り回されたくなんかないんだよこっちだって。忘却ボタンとか売ってくんねえかって思ってんだよマジで。自分でも馬鹿らしくなるんだよ、「どうしてあんなやつの言うことをいつまでもいつまでも忘れずに反芻してるんだ」ってね。しかもいつの間にか自分が悪いみたいな考え方になって落ち込んでいる。誰か無条件に私を愛して褒めて認めてくれ!!!でも気づいたけどそれができるのは家族と自分だけなんだよね。無償の愛と言うやつ。家族の愛が手に入るかどうかは人によるじゃんか。生まれる家は選べないし、暴力振るったり無視したりしてくる家で愛されたいなんて言えなくなっちゃうじゃん。まじで家族ガチャはシビアだし。自己愛は誰にでも手にすることが出来る唯一の武器であり防具なんだよね。誰に頭おかしいじゃんこいつって笑われてもごめん自分大好きなんだわ、自分大切だし偉いし頑張ってる。自分の人生本当によく頑張ってると思う!!ここまで大袈裟に自分を評価できるのは自分だけだから申し訳ないけど誰も褒めてくんないし誰に褒められたくて生きるつもりもないから自分で言うけど!!!!I  love me!! とここまで叫んでもさ、誰かに言われた「すごい」とか「こういうところがすごく好き」とか、「ブス」とか、そういうあらゆる言葉の方が影響が大きくて嫌になる。

教育の場だとか職場でも、勉強や仕事が「出来る」のは、誰のためなのかがさ、めちゃくちゃずれて育ったなと思う。親に褒められたいから、先生に褒められたいから、上司に怒られたくないから、そんな感じでやってきたら、突然虚無になったよ。親も先生も上司も、私が上手くやったからって別の人間だから。感動しなくなった。褒められるとか認められるとかよりも、勉強することで自分が楽しいとか、点数は悪くても色んなことが知れてよかったとか、仕事できねえって陰口叩かれてるけどこの仕事好きでやってるから!っていう、人生の重心が自分にある方が感動する。

自分が感動できる人生をあゆみたいよ、できるだけ。一緒に感動できる人がいたらどれだけいいかな。生きてるだけでお金がかかるし、いつ死ぬかわかんないし、最後の瞬間まで感動するには何を選択していけばいいんだろう。生きるの難しいよ、まじで。


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