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多声性の構造(五)――脱中心化と自己コントロール 心理的距離

 (引用省略 ジョイス「若い芸術家の肖像」冒頭箇所)

 語弊まみれの雑駁さでまとめると、子供の意識の水面に浮かび上がる言葉を拾い上げ、意識の流れをテクストと眼前する今ここ、読み手がテクストを開き活字と向き合うその一瞬に生成される現象として書き出したことにジョイスの成果はある。と同時にこのテクストはたしかに現象だけの記述によって成り立ちながらも――というよりは成り立つがゆえに、明確に二重化された文章なのである。ジョイスはこのように書きながら、しかしこのように書くジョイスはこのような意識状態でいるわけではない。意識の推移の単線性が現象としてのテクストを生成させ、今ここに起こっていることである臨場感が賦活される「これ」は、ならばそのままエクムネジー―過去の偽現在化の擬似的表象であると言ってよいのだ。
 つまりバルザックの「ゴリオ爺さん」の何十ページにもわたるヴォケー館の描写に触れながら、私たちはそれをリアリズムの表現であると感じたりくどくどしいいつものバルザックが始まった、というふうに感じるが、いかに綿密に館に至るまでの道がどうなっていて館の内部がどうなっているのか、書き起こされようとも一件の下宿小屋をめぐる「臨場感」を感じることはない。むしろ冗長さが極まれば極まるほどに、館の外部にあるナラティヴのあり方なりバルザックの文体論なりへと突き放され、遠のかされる。バルザック自身は熱にかられて書いていようが読者のほうはそうはいかず、テクストに描かれる情景との間の読み手の心理的距離はどんどん遠ざかり、ガラス越しにパノラマを俯瞰するような視点へと追いやられるわけである。
 エクムネジーを成立させる要因のひとつは、それと対照を成す対象との「心理的距離」の近さである。今ここにそれが起こっている、というかたちで過去と現在とが混交する、現在の地点において過去が体験される、そしてそれは「心理的距離」の近さゆえというわけだ。理論的にはそういうことになるし直観的にも得心がつきやすい。十九世紀の文学は空想親和性―フィクション(フィクション制作)への没入の深度は、このような心理的距離を、(ボードレール的な)言語的実践ではなく物語そのものへの「近さ」へと連綴していた。
 文学作法上のフラッシュバック、ディケンズが発明したとされる「回想シーン」(現在のシーンが続き、「―数年前―」と数年前のシーンが始まる。これは当時画期的なものであった)とは(本当にディケンズであったか否か正確を期していないので注意されたい)、時制上の「現在」のシーンがあった上でここから先が「過去」として書かれ、読まれるのであったのだったから、時間の連続性自体は保たれている、つまり過去が本当に過去となっているわけではないのである。歴史学のいう平叙法的記述によって「回想」が成されている、そういってもいい。しかしジョイスの小説を開く時、そこには「今ここ」がある、読み手のもとに時間の不連続性が起こるのである。登場人物への同化や読書への没入度は問題ではない。紙を開いた途端に前回までたどった「今ここ」の途中がまたふたたび「今ここ」にあるものとして、開示される。
 テクスト上に「今ここ」があることの無茶さ、型破れさ、あるいは「今ここ」がむき出しにされていることそのものに私たちはユーモアを覚え、あるいは驚きを覚える。二十世紀の文学に現代の読者たちは驚き続けているのだ。しかしそれはただジョイスの発明であっただろうか。または私たちはジョイスの小説をユーモアとともに読むが、そのユーモアとは一体なにであったのか。ごろりと現象が転がっている場違いさが、その成分のひとつであると私は読む。テクストとは本来的にいって現象を記述する形式ではない、その不可能性を約束された形式なのだ。その破壊のダイナミズムがここにはある。
 そしてジョイスの達成はあくまでもそのダイナミズムを内的独白、意識の流れに集約させ、囲い込み確かにさせることにあった。そのダイナミズム自体、キック感自体は十九世紀のテクストたちの「なか」にもすでにみられたものであったのではなかったか。私が拘泥するのは「そこになにかがいる」という「キック感」、直截性のことである。テクスト中に開かれる、不連続的に現われた「破壊的なダイナミズム」とは、テクスト内の他性たりうる、と私は考える。例を引こう。

「おいお延」
 彼は襖越しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙を開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢の傍に坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯の点いた室を覗いた彼の眼にそれが常よりも際立って華麗に見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出やかな模様とを等分に見較べた。
「今時分そんなものを出してどうするんだい」
 お延は檜扇模様の丸帯の端を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。
「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締めた事がないんですもの」
「それで今度その服装で芝居に出かけようと云うのかね」
 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何にも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉をぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作は時として変に津田の心を唆かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。
   漱石「明暗」

 七節部分、冒頭にすぐさま現われる非常にひりひりとした場面である。
 漱石のこの描写は圧倒的である。物語開幕、このシークエンスによって私たちは日本の多声小説を目撃するのである。私だけではないのだ。江藤淳は例外的にではあるが「西欧の伝統的な近代小説」(引用不正確。「夏目漱石」)を「明暗」にみているし、実作者である横光利一も同様のことを言っている。じじつモダニズム小説の視覚的効果がはなばなしく先取りをしている場面なのであったから、それも無理からぬ話だっただろう。ここにあるのはフラッシュバック的というよりも、トラウマ体験そのものといってもいい生な強度であり、そしてそれはまた他者の強度でもあるのだ。強い個人主義を体得している漱石には、それが書けてしまう。痛々しい視覚的イメージ、直接的な感覚、それが他者がそこ―テクスト内にいるという感覚、キック感そのものなのである。ここに至るまでの場面のシンプルながらも効果的な経緯があいまって、他者が他者であるしかない痛いような感覚とともに、多声の舞台がここから広がり始める。
 さらに「パルムの僧院」のワーテルローの描写をみれば、「心理的距離」の操作がテクスト中に他声性を現すための重要な因子となっていることを、容易に読むことができよう。

 (引用省略 「パルムの僧院」のワーテルローの描写)

 三人称でありながら一人称的な、顛倒した叙述の成り立ち。戦争に参加しながら戦争の全容などみえはしない生身のファブリスを描き出しては、書き言葉はすっとそこから引いた視点となって、「白痴」のようなだれかとだれかの対話や食い違いによってではなく、ファブリスそのものが「一人の他者」として読者の前に、立ち現われているのである。
 テクスト内の他性はそのような技巧的操作によっても描き出すことができるわけだが、漱石にせよスタンダールにせよ私の云う「他性」にある程度は、狙いをつけてこうしたシークエンスを書いている。その時の他性とは「近代的個人」という確固とした視座を書き手が獲得しているがゆえに、描き出された「他性」であるといえよう。

静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。