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2006年の週刊文春 エース記者の卒業 (週刊誌という世界 #番外編)

週刊文春(10月14日号)の右トップ記事「岸田政権を壊す男 甘利明のウソ」という記事を読んだ。この記事は週刊文春では稀とされる所属記者の署名記事であり、甚野博則+小誌取材班というクレジットが掲載されていた。

2006年移籍組

甚野記者は年内で週刊文春を卒業しフリーランスになるという。青春時代が終わろうとしているんだな、僕はそう感じながら記事を読み終えた。

甚野記者と知り合ったのは2006年のことだった。当連載「週刊誌という世界」でこれから書く予定である、僕が週刊文春に移籍した年が2006年である。新参者同士として僕たちは知り合った。

2006年に週刊文春に参画した記者は8人いた。通常、週刊誌記者は欠員補充程度の採用しか行わないので稀に見る大量移籍だったといえるだろう。

移籍者は年長者組が3名、中堅若手組が5名という構成だった。

僕は当時35歳、年長者組として週刊文春に参画していた。同年齢の週刊ポストのエース記者西崎氏、フラッシュのジャーナリズム大賞受賞記者である名和氏と僕の3人が年長者組だった。つまりキャリア組として採用され、僕自身は自信のないままにキャリア採用されビビッていたことは前回書いた通りだ。

中堅若手組が元大手電力メーカー出身という異色の経歴を持つ甚野記者、「週刊女性」の高橋記者、業界紙出身の伊藤記者(現・福島民友)、業界メディア出身田中記者、噂の真相カメラマンの菱木記者の5名だった。

カキとアシ

思えば週刊文春が8名という大量採用を行った理由も、何らかの世代交代だったのかもしれない。僕たち8名は週刊文春で名前を上げて行くことを目指し、切磋琢磨していくことになった。

週刊文春は移籍者といえどもアシをさせられる。取材班では「カキ」と「アシ」というポジションがある。カキは新聞記者で言うところのキャップであり、原稿を執筆する記者のことである。アシは文字通り「足」(アシスタントという説も)であり、聞き込みや取材に走り回る歩兵記者のことである。

当時の週刊誌は事件取材が花形だった。2006年、僕たち8名は全国を飛び回り事件取材に奔走する日々を送ることになったのだ。

やがて同期の中でも、より親しくなってくるメンバーがいた。それが名和記者であり、甚野記者であり、高橋記者だった。名和記者は敏腕記者とは思えないような温厚な人物で、人を集める魅力があった。密かに名和記者をライバル視(同じ年だったので)すると同時にリスペクトもしていた僕や、先輩と慕っていた甚野記者や高橋記者が、彼の周囲に集うことになった。通称・名和グループという、ゆるやかな集まりが2006年移籍組のなかで出来ていた。

自由な記者グループ

名和グループのなかで、いちばん最初に文春を卒業したのもリーダーだった名和記者だった。2014年に文春を卒業。彼はその後、世界を旅してまわる人生(現在まで旅を続けている)を送るという異例の決断をしていた。

次に文春を卒業したのが僕で2018年にフリーとなった。そして2021年に甚野記者がフリーとなるという決断をした。名和グループの中で現役文春記者は末弟キャラの高橋記者だけとなった。

名和グループのなかでも、メンバーそれぞれの距離感があった。名和記者は温厚な人物であるが、僕にとっては格上のライバルであるという意識が文春時代に消えることはなかった。フラッシュ時代に雑誌ジャーナリズム賞(新聞で言うところの新聞協会賞)を取っているだけに、無名記者という自覚があった僕としては追いつかないといけない存在だったのだ。名和さんがスクープを取れば祝福をしながらも、俺もやらなきゃと臍を噛む。ただプライベートでは本当に優しい人で、楽しく飲み明かした。

甚野記者は年齢は3つ下だが、空気感としては同年齢の友達という関係だった。僕はかつて結婚していた時代(後に離婚)があるのだが、結婚当時いちばん夕飯を一緒に食べていたのが甚野記者であり、もっとも電話で会話をしていたのが甚野記者という間柄だった。話の内容は取材、記事、人間分析など仕事に纏わることが主で、たまにプライベートの相談などだった。

7歳下の高橋記者はまさに末弟というキャラだが、こちらも意識としては一歳下のタメ口をきいてくる後輩という雰囲気。もちろんそれを咎めたりすることはなく、むしろ僕たちが「どうする?」と高橋記者に聞いて、彼がいちばん自由にやりたいように振舞うというのが僕たちの中での定番のやりとりだった。

とにかく名和グループは、年齢とか実績による上下関係を持たないという「自由な関係」が特徴だった。こうした集まりは僕のこれまでの人生ではあまりない経験であり、同調圧力や縦社会を苦手としていた僕たちにとっては居心地がよい空間だったといえよう。でも不思議なことに名和グループが”ぬるま湯”や”傷を舐めあう関係”になることはなく、その後、僕、甚野記者、高橋記者は全て雑誌ジャーナリズム賞を受賞することになるのだから、やはりリーダー名和さんは偉大だったと言える。(*西崎記者も当然のように受賞しており、他の記者もスクープをバシバシ書いており結論から言うと2006年組はみな敏腕だったといえよう)

救われた一言

サッカープレミアリーグ、リバプールの名将であるクロップ監督(チャンピオンズリーグ優勝監督)の名言「強者を近くに置くことができるのが、真の強者である」の通り、というと言い過ぎかもしれないが、相手の価値を認めるというのが名和さん流のリーダシップだったのだと思う。

話が脱線しまくってますが、甚野記者との思い出に戻ろう。

文春に入って10年。いろいろあり僕が離婚を決断したとき、真っ先に相談したのが甚野記者だった。

当時の僕は「カキ」の立場になっており、毎週のように難しいミッションを形にすることにアップアップしていた。何年もフルスロットルで働く日々にとにかく疲れていた。同時に家庭にも軋みが出るようになり別居という事態を招いていた。そのときに彼を夕食に呼び出しこう切り出した。

僕「離婚しようと思うんだよね。もう無理な気がする」

甚野「そんなこと言わないくださいよ。別れるなんて寂しいじゃないですか」

彼はそうヤンワリと反対した。僕は頭では離婚がベストな選択ではないことは理解していたが、当時は仕事が忙し過ぎて全てを丸くおさめることができるような精神状態ではなかった。そして残念ながら、結果として夫婦は別離の道を歩むことになってしまう。

僕「やっぱり駄目だった……。離婚することになった」

甚野記者にそう報告したら、彼はこう答えた。

「そうですか。しょうがないですよ。これから楽しみましょうよ!」

ド級スクープ記者

僕は「何やってるんですか」と苦言を呈されるのかと思った。

ところが甚野記者は、そんなことは一切言わなかったのだ。「楽しみましょう」、この一言に僕は凄く救われた。

離婚が駄目なことは自分自身がいちばんよくわかっていた。僕の離婚が家族や親戚など多くの人を傷つけたこともよく理解していた。特に元妻を泣かせてしまったことを自分で処理ができなかった。謝罪の言葉も元妻には送ったが、それが深い傷を埋めるものにはならないだろうとも理解していた。そんなことを反芻するばかりの自分がいた。

甚野記者も反対していたのは前述の通りだ。しかし苦渋の決断を彼は尊重してくれ、さらに元気づける言葉まで贈ってくれたのだ。

時に人は挫折してしまう。それでも人は新しい道を歩まないといけない。

甚野記者の言葉は柔らかなものだったが僕に再び歩き出す勇気をくれた。いつかはこの恩を返さないといけない、と僕は考えている。

甚野記者は紛れもない1流記者だ。週刊誌記者としてはド級スクープを連発し、人心を掌握する力と心理を読む技量は群を抜いている。甘利記事では、告発者にとってはリスクしかない中で口説き落とし、実名で告白記事に登場させたスキルは他人には真似出来ないものだ。他にラリってる清原を直撃し胸ぐらを掴まれICレコーダーをへし折られながら記事を書きあげた薬物疑惑スクープ、渡辺謙不倫など彼が手がけたスクープは数限りない。どこで何をしようと成功するタイプの「天才」が甚野記者だ。

古巣を離れることで感傷的になる気持ちはあると思うが、こんどは僕が「これから楽しみましょうよ!」とエールを送る番だと思う。

2006年から15年。僕たちの”週刊文春青春時代”は終わった。つぎはより自由な世界で青春を謳歌しようか!!



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