日記0431あるいは麻美と水槽と赤いランプ
目的地に付く前に、男は必ず僕を見つけ挨拶もなしに本題、あるいは、一聞しただけでは真意をつかめない話をし始める。
「遊びの語源は麻美(あさび)、要するにタイマですよ」
男のタトゥーは顔にまで及んでいた。痩せこけた頬には脚の本数が三本余計な蜘蛛が彫られている。
「こんな人混みでクスリの話なんかするな」
「タイマはクスリじゃないですよ、草です、ハッパです」
「まあ、そうかな」
人が人を避けたり、避けきれずにぶつかったり、諦めて座り込んだりしている。誰もがどこかを目指すか、迷っているのだろう。
点字ブロックの上に写真が落ちていた。
「で、久々に話って?」
「口説き落としてほしい人がいるんですよ、山本さんに」
「口説けるわけないだろ、おれを何だと思ってるんだ」
「いや、いけますよ。というのもですね、もうボクが山本さんをその女に魅力的にアピール済みでしてね。会ってくれるだけでイチコロです」
「お前は何を言ってるんだ?」
「あ、来ました来ました」
人混みの中、誰もが道をその女に譲った。
「はじめまして、それとも、お久しぶり?」
「はじめましてだと思いますけど」
「夢で会ったことあるでしょう?」
気が狂っている。そう思った。
「いや、夢だろうと会ったことはないと思いますけど」
「夢日記、つけているんでしょう?」
「よくご存知で」
「持ち歩いているわよね?」
「……よくご存知で」
「2月10日」
「はい?」
「開いてみて」
僕はバッグから夢日記をしぶしぶ取り出し、言われた日付のページを開く。
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【2月10日】
飼育している熱帯魚(グッピーともネオンテトラとも形容しがたい、毒々しいほど鮮やかな魚)が次々と子どもを産む。
「魚は歪んだ空の夢を見るのよ」
水槽越しに、ひどく美しい女がそう言った。歪んで映っているはずなのに、水槽の厚みが女の美を歪ませることはなかった。女はパラパラと水槽に乾いたエサを入れ、それから、僕の方へ回ってきた。
「麻美よ、はじめまして」
女の首には鰓によく似た、三本の傷痕があった。
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「麻美よ、思い出したかしら?」
「すべての夢を思い出せるわけじゃないんですよ、残念ながら……」
「私が聞いているのは、私と居た夢を思い出せたかどうか、よ」
僕はチラリと友人の顔を覗き見る。瞳が録画中のランプのように赤い。
「……思い出せます、覚えてますよ」
女は口をぽっかりと開いた。小さな魚がウジャウジャと蠢いている。
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