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〈現社会の子育て〉


三人の人の親になり、社会への貢献を考えるようになってきたここ数年。

人生で一番長いキャリアは服屋なもんだから、保育や育児の学びを少しでも吸収したくて、県主催の 子育て支援員研修 を受講している。1950分の講義を計6日間かけて行い、今日は2日目。


保育の現場に男手は必要無いのかもしれない。しかし次男の保育園に迎えに行くと、子どもたちはいつも髭面の私を熱烈に歓迎してくれる。囲まれて帰れなくなってしまうレベル。先生たちも笑ってそれを喜んでくれている様子なので、こういう現場に役に立つ存在なのかもしれない、と勝手に思っていた。(勘違いであればすみません。)


子育ては楽しさと我慢の表裏一体、子どもを親が育てているし、子どもから親が育てられている。それに気づいたときに、強く叱ってしまったことを反省する。親と子どもは主従関係では無いのである。そもそも法の下では人類皆平等なわけで、にも関わらず貴族ぶっている人種がいると、やはり本能的に拒否反応を起こしてしまう。


○子育て家庭の現状

人口減少の問題は、決して個人の問題だけではないのは明らかである。以前と比べ社会環境が著しく変容したからだ。

保育所を含む子育て支援の必要性は、この現社会において無くてはならないものだと思う。

東京では、4人に1人が赤ちゃんを抱いたことがない人が親になっているという。

また、江戸時代頃の子育ては父親が中心だった。(確かに剣術や弓術、乗馬は父の役目でありったイメージはある)

それが戦前には共同体による子育て、戦後は私的子育て。そして今後は、やはり社会的子育て や 性別によらない協働の子育て をしていく必要があるという。(ワンオペみたいな子育てでは、この多様でで体力のない時代には無理なのだと思う)


○保育の原理

保育は、養護(生命の維持、情緒の安定=常に「快」の状態でいれること)と教育 からなる。

また、遊び の中にもすべて意味があり、遊びを通して教育させる意識を常に働かせている。

幼児期は、知能(IQ)よりも、心の動き由来する能力(自信、忍耐、自制、協調など)の方が圧倒的に大事だという。能動的な自分にはしっくり来る言葉で嬉しかった(お前は幼児か!)


○子どもの家庭福祉

常々出された「子どもにとって最善の利益を優先」という言葉。

確かにこの言葉さえ意識していれば、選択のヒントとして最大の材料にざるのだろう。

また、福祉の観点から取り扱う問題に、最近は 学童保育所不足問題 も挙がってきた。


○対人援助の価値

保育や介護は、水道や電気、道路というインフラと同じようにインフラ化している。それは、物凄い高い価値のある存在なのである。保育や看護がなければ、働きに行くことさえ出来ないのだから。決して、子どもを面倒見てもらって当たり前、などと思ってはいけないはずだ。


○児童虐待と社会的養護

現代において、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(養育怠慢)、心理的虐待 の内、外傷が目に見える身体的虐待以外は発見し難いという。

両親のDVを目の当たりにしてしまい心理的にダメージを受けてしまう間接的虐待(煙草で例えると受動喫煙のようなものか) というのもあり、家族時間が増えたコロナ期にとても増えた。

また、乳幼児期や第一子目など、子育てに慣れていない時期に、弱い存在である子どもに対して、虐待をしてしまうというケースが多い。

子どもと接する機会が多ければ多いほど虐待のリスクは高くなり、以前は、母7:父3 の虐待割合だったのが今は、5:5になっている。これは育児をする父親が増えてきたことに起因する。

虐待は、子どもの脳を萎縮させてしまう。これは本能的に自己防衛として情報が入ってくることを遮断してしまうからだ=発達障害へ繋がってしまう



●研修を通じて、子育てを俯瞰して見ることが出来た。

帰ったあと、いつもより優しいしつけを出来ている自分がいた。いつも、アホで怖い親父みたいになっているから、子どもと一緒に成長していきたい。(いあや、子どもたちよ、俺の成長に付き合ってくれ)


まるでか細い3連のネックレスがぐちゃぐちゃに絡まってしまったような、多様で複雑な社会に単純な論理は通用しないから、せめて子育てだけは、まっすぐに、みんなで支えたいし、そういう世の中の雰囲気が醸成されて欲しい。

何度も何度も使われて削られきった言葉だけど、子どもはこの国の宝 なのである。

そんな宝を護っていけるように、命を使っていきたい。


続く

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