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小説『死海(仮)』断片

薄暗い1Kの部屋に、乱れた呼吸の音だけが響いている。
「・・・ッハァ・・はぁぁ・・・ハッ・・・」
二、三歩後ろに下がって壁にもたれかかり、そのままズリズリと座り込む。呼吸を整えようとすると、耳元に懐かしい母の声が聞こえる。
「大丈夫。あなたが考えてることなんて、この海に比べたら小さなことよ。深刻に考えすぎるのはあなたの悪い癖。」
ケラケラと笑う母の横顔が、今は私のことをバカにしているように思える。私はブンブンと首を振ってその回想を吹き飛ばそうとした。でもそうやって考えていたことを吹き飛ばせたことは、一度もない。それどころか、母の顔は首を振るほど頭の中に強くこびりついていった。
些細な事。些細なことだ。でもそれが積み重なって、私を飲み込む海になるのだ。依然として整わない呼吸が苦しくて、酸素を求めて本能的に顔を上げる。すると、ダイキの声が頭の中に響く。
「美宇といるとあんまり楽しい感じがしないんだ。でもそれがいいんだよなぁ。」
画面を眺めながら、つまらなそうにつぶやく横顔。また横顔だ。耐えきれなくて、私は自分の両肩をギュッと抱きしめ、膝を丸めた。こうして身体を小さくしていると、小さな部屋の壁が私に向かって迫ってくる感覚になる。この世界にたったひとつの私の居場所がどんどん小さくなっていく気がする。身体に残る全ての酸素を使って頭だけが忙しなく動く。
なんでこんなことになってしまったのか。その答えを求めて、過去へ、過去へと遡っていく。
「美宇ちゃんが、千夜とは嫌だって言ったからじゃないの?」
小学校のクラスで課題に取り組むペアを決めていたときのことだ。私が、千夜と呼ばれた少女とペアになりたくないと言ったことは確かだった。当時、私も千夜もいじめられていた。私は千夜のことが嫌いだったのではなく、二人で何かをしているところを後ろ指刺されることが嫌だった。千夜も嫌がっていると思っていた。けれど、千夜は私の言葉を聞くや否や涙を流し始めたのだ。
うっうっと嗚咽をもらす千夜を囲んだ5、6人の女子が眉をひそめて私を見ている。皆、私より背が高い。千夜でさえもだ。何も持っていないのに、私の手に血にまみれた刃物があるかのような気持ちになる。殺したんだ。私が、千夜を。
世界がひっくり返る。私は首をガクッと落として、丸まった身体の中に埋めた。
気が付いたら、私の人生の中心は私ではなくなっていた。もうずっと前からそうなのだ。
私は誰かを傷つけることを恐れて、他ではない私を手放した。必死だった。
だから気が付かなかった。
「なにも感じない・・・」
傷つけられたはずの私の心は、私の身体の中にはなかった。私はその心を遠くから冷ややかな目で見ているだけなのだ。後に残った私を見てくれる人なんているはずがない。そんなものを見ても仕方がない。ひょっとして私はこの先もそうなのだろうか。この先も私が見るのは、横顔だけなのだろうか。
息がさらに上がって、目に涙が滲む。空っぽのくせに液体だけは出すことを厭わない自分の身体が憎くて、掴んでいた肩を殴った。
その夜はそのまま眠ってしまった気がする。その先の記憶が全くない。
毎日鳴るように設定しているアラームがけたたましい声を上げる前に、鳥の鳴き声で起きた。鳥をうらやましいと思ったことは、ない。


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