大学散歩

数年前に卒業した大学を訪れる機会が最近何度かあった。まだちゃんと身体は覚えていて、広い構内をボーっと歩いていても目的地に辿り着けるけど、確実に何かが変化している。大学側にも変化が色々ある。グリルチキンよりも白身魚のフライのほうが高くなったとか、芝生にテントが張られているとか。でもそれよりもやはり私自身の気持ちの変化のほうが大きい。

大学を歩いているとあの頃の記憶が淡く蘇ってきて、普段忘れそうになっているけど確かにここに通っていたのだな、と思い出す。それと同時に、もうあの日々は過去なのだと強く実感されて、大学内にいるのに大学を遠くに感じる。

大学に在籍していることによって、ある意味では強力に守られていて、ある意味で強烈に緊張に晒されていた。この大学に在籍しているということはある一定の水準をクリアしたということで、そのために相応の努力をしてきているということになる。全員に対してそれが言えるのをみんな分かっているから、お互いに対する無言の敬意がある。入学時点から年数が経つにつれ受験の記憶は風化するし、正直研究の素質に勉強の出来不出来は関係ないし、みんな謙虚だし素知らぬ顔をしているけど、やっぱりこの無条件で相手を認めている空気というのは確かにずっと存在していた。その空気感に私は今でもすごく安心を得られる。

一方で、その最低限をクリアした上でそれ以上のもの、プラスアルファ的な何かを求められるという緊張感が常にある。ここまでできてすごいですね、で、それ以上のリソースとして君は何を持っているの?というような。これは責めようとしているのではなく、純粋な興味や期待である。それに応えられるものを持っている人がたくさんいた。でも自分には何も無いような気がしていたからしんどかった。このしんどさが、大学を離れる決断をしてよかったと思える理由の一つだ。

社会に出てみたら逆だった。期待されない代わりに認めてもらうハードルが高かった。年齢や外見や話し方だけでなんとなく下に見られるところから始まる。私はこれだけのことを考えていますよという最低限のところを伝える努力をしないと始まらない。しかもその努力がいい方向に働くとは限らない難しさがある。舐められたくない気持ちが強いのに実際的には舐められやすいのが分かっているから、舐められないための警戒心と緊張感を常に持っている。

だから、属している世界の中で生き抜くための努力を数値で例えるなら、大学在籍時は0を1に近づけること、今はマイナスを0に近づけることだ。大学を離れて生きることの大変さももちろんあるけど、大学にいた頃だって十分闘っていたし努力していたのだから、もっと堂々と生きればよかったとも思う。

最近大学に何度か行ったのはいずれも、研究の話を聴くことが目的だった。答えのない問いに向き合って真っ暗をかき分けるようにゆっくりと前進し続けている人たちを見た。プラスアルファを求められる緊張感に潰されずに地道な闘いに挑み続け、それでなお笑顔でいる人たちの姿を見て改めて敬意が湧いてきた。

運営費交付金漸減や物価上昇で厳しい状況にあるのは大学も例外ではない。自由に研究できる環境は永久に続くものとは思えず、ここにも危機感がある。実利ばかり重視される世の中でも、アカデミックの砦として大学が機能し続けてくれるといいなと切実に思う。


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