どこかに行きたい

 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を読んだ。読書会の課題本であり、かつ私はこの本を三年ほど前にも一度読んでいたので、普段よりかは些細な点にも気を払ったり、あるいは文章から何かを読み取ろうという意識を強く持って読んでいたはずなのに、いざ感想を書こうと思うと上手い具合に筆が乗らなかった。数百文字を書いたところで、自分が一体何を考えていたのか、書きたかったのか、そういったことが分からなくなる。

 文章を書くというのは、自らの思考の不徹底を突き付けられる過程だ。だから、書こうと思ったものが文章として完成することは滅多にない。たいていは下書きのまま埋もれていく。それを解決する手段としては、もちろん書くのに不自由しないほどに思索を徹底するのが理想だが、実際にはそんなことは不可能に近いだろう。せいぜい取れる対策は、むしろ書く前に自らの思考を限定しておくことではないかと思う。つまり、あらかじめ「わかっている」領域だけを意識して、そうでない思考を一旦頭から追いだすことだ。機会があれば実践したいところだが、どうせ私のことだからその段になっても「自分がわかっていることがわからない」という悩みに襲われるのは目に見えている。

 外出を最低限に留める生活が続いている。別に自粛などといった殊勝な心持があるのではなく、単にどの店も閉まっていて行き場所を失っているだけだ。見慣れた風景だけで構成される生活は精神を摩耗させる。そのせいか、「今は我慢のとき」だとか「みんなで家にいよう」なんて文字列を見るたびにうんざりしてしまう。こっちは粛々と暮らしているのだから、そちらも黙っていてほしい。

 自粛によって普段の生活が失われていることは紛れもなく悪いことなのに、「家にいる」ことをまるで良いことのようなニュアンスを含めて表現するのは欺瞞の押し付けにしか感じられない。「外に出られないなりに楽しくやっていこう」という風潮は好ましいが、それと外に出ないこと自体を良しとみなすのはまるで違う話だ。

 事態が終息したら、旅に出たいと切に思う。知らない街のホテルに宿泊して、そこで知らない映画を鑑賞したい。ここしばらくで猛烈に高まる「どこかに行きたい」という欲求は、そうした行為によってしか解消されないような気がしている。

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