イノセンス

 押井守の『イノセンス』を見た。映画を見ながら思い出す。そういえば私は幼い頃、ピエロを大の苦手としていた。いつからかその感情はどこかに消えていたが、当時はテレビの中であれ現実の物であれ、彼らの姿を目にする度に得体のしれない恐怖を感じて、両親のもとに駆け付けていた。

 顔を隠しているせいだ、と思う。同じように、能面やなまはげだって怖かった。幼い頃の私は、彼らが人間のかたちをしているのに、その中にはまるで別種の魂が入っているように思えて、それがひどく恐ろしかったのだ。あくまでひとが演じているだけだというのは分かっていた。けれど、ピエロやなまはげの仮面をかぶった途端、そこに元あった人の魂は消えて、「ピエロ」や「なまはげ」というのっぺりとした性格しか見えなくなってしまう。

 ピエロらしいピエロに人間味を感じることはとても難しかった。人間ではなくピエロなのだから当たり前だろうと突っ込まれるかもしれないが、彼らが何をしても、それは「ピエロ」という種が普遍的に持つ性質が表に出たようにしか感じられないのだ。彼らの行動のすべては、ピエロの世界の論理に収束してしまう。私が何より恐れたのは、その「ピエロの論理」に他ならない。

 ここで言ったようなことは犬や猫、魚といった各種動物にも当てはまることだが、前述したようにピエロの姿は人間のそれと全く同じだ。それにも拘わらず、人間ではない別の何かのコードに従って動く彼らの姿が、恐ろしくて仕方なかった。

 それに比べて、人形のことはさほど恐れていなかった。動かないからだ。人形にまつわる怪談などを聞いた日には人並みに恐怖を感じたものだが、それらの怪談では人形が意思を持って(いるかのように)動き出すというのが定番で、やはり私は人間の似姿が動くことに恐れを抱いていたように思う。


 歳を取るにつれて、そうした対象を怖がることはなくなっていた。大人になれば、人間としての倫理、人間としての行動、人間としての生を内面化していく。一度固着したそれは、滅多なことがない限り剥がれはしないだろう。対して子どもというのはそれが不十分だ。作中のハラウェイの言葉は非常に示唆に富んでいた。

「人間はなぜこうまでして自分の似姿を作りたがるのかしらね。(中略)子供は常に人間という規範から外れてきた。つまり確立した自我を持ち自らの意志にしたがって行動する者を人間と呼ぶならばね。では人間の前段階としてカオスの中に生きる子供とは何者なのか?明らかに中身は人間とは異なるが、人間の形はしている。女の子が子育てごっこに使う人形は実際の赤ん坊の代理や練習台ではない。女の子は決して育児の練習をしているのではなく、むしろ人形遊びと実際の育児が似たようなものなのかもしれない。つまり子育ては人造人間を作るという古来の夢を一番手っ取り早く実現する方法だった」

  子供は人間ではない。幼い頃の私もまた、その定義に従うならば人間ではなかった。私がピエロを恐れていたのは、それが「明らかに中身は人間と異なるが、人間の形をしている」からだった。つまるところ私は鏡を見て恐怖していたのだろう。生物学上の人間として生まれ、人間に育てられ、人間のルールを教わりながら生きている子供。しかしながら実態はせいぜいが人間もどきに過ぎず、ピエロになることも、なまはげになることもできる。したがって彼らは可能世界の存在であり、人間としての私の足場がどんなに危ういものかを突き付ける存在でもある。大人になった私が彼らを恐れないのは、私が人間になったからだろう。


 芥川龍之介の河童には、河童の親が腹の中にいる子供に、生まれたいか生まれたくないかを尋ねる場面がある。しかし、それに答えられる時点で河童は存在してしまっているのだ。私はその不可逆性にこそ出生の暴力性を感じる(だからといって反出生を主張するわけではないが)。バトーは「人形になりたくない」と言った少女に対して、「人形だって人間になんかなりたくなかっただろうよ」と返答する。一度人間になってしまえば、もう二度と人形に戻ることはできない。同じように、一度大人になってしまえば、もう二度と子供に戻ることはできないのだ。私はピエロにも、なまはげにだってなれたはずなのに、人間になった。


 ちょうど先日、上記のニュースを目にした。この人工皮膚があれば、人間と同じようにロボットが痛みを感じることができるらしい。ロボットに痛みを与えることが、人間と同じ感覚を与えることが、果たして正しいのだろうか? 一見して知能があるように見えるが、その実はテキストデータをシミュレートして会話が成り立っているように見せかけるプログラムは、俗に「人工無能」と呼ばれる。人間のように複雑な処理を経て会話をしているわけではないことから名付けられた名称だが、この単語にはまさに、人間と同じ感覚を持つことが善しとされる傲慢が潜んでいるのではないだろうか。

 人間が自分の似姿を作りたいと望むのは、自分に似せて人間を作った神への憧れが由来していると言えるだろう。そう表現するといかにも大層な欲求に見えるが、作中で引用された「個体が創りあげたものもまた、その個体同様に遺伝子の表現型」というリチャード・ドーキンスの言葉は、それが動物的な本能によるものでしかないと暴いているのではないだろうか。人間が創りあげた摩天楼は、ビーバーのダムやクモの巣と本質的に変わりがない。子供を大人に仕立て上げることも、人造人間を創りあげることも、やはりそれと同じことである。

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