2021年9月30日

 手が空いている人間がいなかったのでレジのフォローに入ると、どうやら店の前に客がいて、その人が呼んでいるという旨を別の客に伝えられた。俺が働いているバイト先は地下に店があるから、入店するには階段を降りなければならないのだが、何やらそのお婆さんは足が悪いようで、下まで降りてくることができないらしかった。

 なるほどと思い上まで階段を登り、注文を取る。するといきなり横柄な口調で、いま店内には何の在庫があるのか、と聞かれた。一旦店まで降り、どの種類の品が残っているのかを確認し、それを伝えると、何個残っているのかを教えろと怒鳴られた。それなら初めから種類と数をメモして渡せと指示してくれば良いのにと思いながら、残っているものを確認しに再び店まで戻る。曖昧な指示のためそのような往復を何度か繰り返し、分かりにくい注文ながらも、どうにかそれをまとめることができた。再び階下に降りて会計を打ち込み、上までお金を取りに行く。するとどうして品物を持って来ないのかとまたキレられてしまった。その他にも足が悪くて立っていられないだとか、タクシーを待たせているだとか文句を言われたが、それならもっとスムーズに注文と指示を出してほしいものだと思う。

 ともあれその場で代金を受け取り、急いで店に戻って品物を詰める。上までそれを渡しに行くと、少し悪びれたように「ごめんね」と謝られた。他人に怒りをぶつける人間というのは概ね勝手だから、自らが罪悪感から逃れるために、こうして最後に詫びをして見せるものだが、この人の場合も例に漏れなかった。

 問題を一つ処理して店内に戻り、いつもの作業を再開しながら考える。彼女のようなハンデを抱えた人間というのは、周りが自分に都合の良いように動いてくれるという前提で生きているから、あのように横柄に振る舞うのだろう。けれどもそれも仕方のないことに思えた。当人は他者の背負っていないハンデを抱えながらなんとか生きるのに必死なのだ。それくらいの配慮を周囲がしてくれるのは当然だと思うのも無理はない。俺だって大概似たようなことをよく考える。自分だけどうしてこんなハンデを背負って生きているのに、何の報いや手当もないのだろうと。そして当たり前のように普通の生活が享受できる人間に対して羨望と憎悪を抱く。俺があの婆さんのようにならずに済んでいるのは、偶々自分にはそれに見合うくらいの能力や金銭や承認などといった恵まれたものが与えられているおかげで、それがなければどうだったかは分からない。

 ただ一つだけハッキリとしているのは、誰かが理不尽に苦しめられているからといって、そいつが即ち正しいということにはならないということだ。苦しみや辛さは正しさの証明にはならない。ネットによくいるような反出生主義者やフェミニスト、メンヘラの類の人々はおそらくその点を勘違いしているのだろう。俺はそうなるのが嫌で、なんとか不条理を受け入れて生きているが、それだっていつまで続くかは分からない。苦しさが即ち正しさとならないのなら、その苦しみをどのように受け取るのが正解なのだろう?

 俺はあの婆さんを心から憐れだと思った。自らが生きるのに必死だからこそあのような態度しか取ることができず、それが原因でおそらく周囲からも疎まれて生きているのだろう。彼女はいったいどうすれば良いのだろう。一つ言えるのは周囲の優しさを当然と思わずに感謝を向けるべきということだが、そもそも周囲がいつだってそのように優しいとは限らなかった。もしかしたら自分もそうであったかもしれないあの存在を見て、心はすっかり悲しみに覆われてしまった。

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