ペットという存在に救われた
親とお墓参りの打ち合わせをしている最中、訃報が飛び込んだ。人ではない、ペットなんだけどね。
姉の溺愛している犬が亡くなったとのことで、親づたいにそれを教えてもらった。姉はその犬を本当に本当に可愛がっていたので、今どんな様子なのか考えると胸が痛い。年をとっていたのもあるが脳に腫瘍ができ、認知症のように徘徊したり、てんかんを起こしたり、というのがここ最近の病状だったらしく、明け方ひっそりと亡くなってしまった。
私はというと子供の頃に犬を飼い始め、何かしらペットを飼い続けている人生なので、姉の気持ちがよく分かるし、それと同時に私はもうペットのいない人生なんて考えられないところまで達している。
「ペットはただのペットじゃない、家族です」なんていう人が増えた昨今だけども、私はこれまでの人生でどうペットと関わって生きていたのか、ふと考えたくなった。
最初のペット
最初にペットを飼い始めたのは小学生の頃、駅前ではしゃいでいた白い雑種の犬を拾って家に連れて帰ったのがきっかけだ。名前は【ロッキー】というありきたりな名前。
その頃の私は、表では陽気なヘラヘラした子供だったが、裏ではクヨクヨ悩んで毎日死にたくなっている子供だった。なぜそうだったのかというと、一部の男子からイジメにあっていたこと、家が教育至上主義で毎日習い事、ゲーム機を買うのはもってのほか、中学受験をするために塾に通うのは当たり前の日々だったのだ。
いま考えると、ものすごく息苦しかった。
現実世界はあまりに辛いことが多すぎる。習い事と勉強ばかりで、友達とそこまで遊ぶこともできない。かといって、家にゲーム機などの遊ぶものもない。私が【動物を飼いたい】という漠然とした願いをもったのは、そのためである。
ずっとペットを飼いたいと言っていたが飼ってもらえず、家族で買い物に行ってペットショップがあろうものなら、ずーーーーっと1時間くらい見てしまうような子供であった。
そして偶然にも、駅前でバスにひかれそうになりながらも、捨てられている白い子犬に出会った。周囲に群がる人々に聞くと、5匹くらいいたが可哀想に思った通りすがりの通行人が次々と子犬を引き取っていき、その子犬が残りの1匹だという。
これは運命だ!
私はいっしょにいた母に「連れて帰りたい、このコを飼いたい」と駄々をこねてお願いし、子犬を連れて帰った。
ふわふわでパーマみたいな髪質、白と茶のミックスカラー、たれ耳で目がつぶらで可愛い、元気な子犬だった。撫でるとお腹を見せてくれ、とにかく元気にはしゃぐ姿が可愛かった。
犬ってこんなにかわいいんだ…
もちろん最初は飼うのを渋っていた両親だったが、私がどうしてもとお願いしたこと、連れて帰ってきてしまったものは仕方ない、ということで飼い始めることとなった。
ただし、今ほどペットを大事大事する文化がなく昔の話、家の中はNGで外で飼うこととなった。近所で飼っている犬も、外で飼われているのが当たり前だった。犬が飼えることになった私はそれでも本当に嬉しかった。
ペットのために頑張れる
私はイジメがあろうが受験勉強に追われようが、とにかく【犬を飼えた】という事実で本当に心が救われた。
イジメられて石を投げられて帰ったら、泣きながらロッキーのそばにいってワンワン泣いた。そんな私にロッキーがそっとそばに寄り添って慰めてくれた。勉強に追われすぎて頭がパンクしそうなときは、とりあえずロッキーと散歩に出かけた。
私はそのあと、ハムスターも飼ったし、フェレットも飼ったことがある。現在は猫を2匹飼っている。最初のペットのロッキーを飼ってから、なにかと動物を飼い続けているのである。
私は昔からメンタルがお豆腐のようにヤワヤワなので、毎日死にたくなることが多かった。でもギリギリのところで「死ぬわけにはいかない」という意識が合って、ペットを飼っていると「このコは私がいないと生きていけないよね」という精神でなんとか持ち直していたのだ。
餌代もかかるからそのためには働かなければならない。住む場所を提供しなければならない。怪我や病気にそなえて貯金をしなければならない。
ペットのために仕事をすること、それが私に生きる道を示してくれたのだ。
人間よりも動物のほうが信頼できる
思えば、風俗嬢や夜職の友達もペットを飼っているコが多かった気がする。金銭的余裕があるからかもしれないが、ナイトワークのコがペットを飼っているのは、人間関係に疲れているからだと思う。人間相手だと気を遣って喋らなければならないし、安らげないときもある。毎日たくさんの人間に会う接客業なのだから、人と喋りたくない日もある。
対して、ペットはいっしょにいてオナラをぶーぶーしても、素っ裸で走り回っても、黙っていても、ただ飼い主といっしょにいてくれるだけである。心から楽な気持ちだ。恋人よりも楽な気持ちでいられる、自分の分身のようなものなのだ。
私はよく映画で人間が死ぬシーンを見ても、わりと冷静に「フーン」という気持ちで見ていられるのだが、犬や馬が死ぬシーンがあると号泣してしまう。人間が死ぬよりも、私は動物が死ぬほうが耐えられないらしい。
それはきっと動物を、人間のような裏表がない生き物、純粋な生き物、保護しなければならない生き物、として見ているからだと思う。
だから私は彼らをそばに置いておきたいんだ。
それでもペットは先に逝く
最初に飼ったペットのロッキーは、私が結婚する頃にはよぼよぼのおじいちゃん犬になっていた。私はロッキーを連れて新居に住みたかったが、当時の夫が大のイヌ嫌いで(幼少の頃に噛まれたことがあるらしい)、連れていくことはできなかった。
月に1回は実家に寄ってロッキーの様子を見ていたが、日に日に老衰で弱っていく姿を見て、私は心のどこかで「もしかしたらもう長くないのかもしれない」とロッキーの最期を予感していた。
そして母からロッキーが亡くなったことを知らされ、覚悟はしていたことだけど、心にぽっかりと穴の空いたような喪失感におそわれた。涙より「もっとこうしていれば」という後悔のほうが大きかった。
今の私なら当時の夫に「うるせぇ!」とドロップキックをかましながら、自分の家でロッキーを看取る準備をしているだろう。
私はそのあと丁重にロッキーの遺体をくるみ、葬儀に出した。
どんなに可愛がっていても、動物は先に死んでしまう。
自分よりも長生きできるペットはいないのか探してみたときもある。
カメは100年、オウムは70年生きるらしく、少し魅力を感じたが、それはそれで残されたペットも可哀想なものがある。やはり飼った責任として、見送る側にいなければならないと私は思っている。
動物を飼うということは、最期のお見送りもセットでほぼ必ずあるということを忘れてはいけない。どんなに辛くても、悲しくてもだ。
遺してくれたもの
私はロッキーが亡くなったあと、仏壇で手を合わせるたびにいっしょに遊んだ記憶を思い出して、優しい気持ちになることがある。もちろん、病気で手術をしたこともあったし、じょじょに老衰で弱っていった悲しい記憶もあるが、手を合わせるときは極力楽しかったことを思い出して供養している。
ペットは家族です、なんていう人もいるが、家族にしては手もかかるしお世話も大変だ。それに私が倒れてもペットは私をお世話してくれないだろう。だけど、それでも【家族】という言い方を多くの人がするということは、それだけなくてはならない存在だからということだ。
私はペットを飼っていなければ、自分より弱い生き物を守ること、仕事をして自立すること、優しい気持ちをもつことは学べなかったと思う。もちろんペットを飼っていない人を全否定するわけではない。私の場合の話である。
何より、きっとペットを飼っていなければいつ自殺してもおかしくない、危ういメンタルの時があったのだ。ペットは私の生きる理由になってくれた。
離婚をして2匹の猫を連れて家に出るときも、「この先何があっても、私はこの猫2匹だけは幸せにする」と決意して、某所にマンションを借りて狂ったように仕事をしていた。あのときの気迫は猫を飼っていなければ出なかったろうと思う。私はどのペットにもたくさんの勇気をもらった。本当に感謝している。
ある意味ではペットを飼うのは人間のエゴ、私のエゴともいえる。ペットを飼うのは人間の自己満足で、ペットになった動物はただそれに付き合わされているのかもしれない。本当に幸せだったのかどうか、定かではない。
だから私のエゴに付き合ってくれた動物たちには本当に「ありがとう」と伝えたい。
今日も仏壇に手を合わせて祈っている。
「ありがとう、またあそぼうね」
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