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とうもろこし

とうもろこしを綺麗に食べるのが得意だ。
半時計周りに1列ずつ崩していくスタイルを幼稚園児だったころから貫いている。

屋台で食べる焼きとうもろこしが美味しいことは言うまでもない。「できたよ」の掛け声とともに夏の夜のリビングでほじくる茹でとうもろこしも、また格別である。一人暮らしで迎えた初めての夏だった去年は、とうもろこしご飯の魅力に取り憑かれ、夜な夜なとうもろこしを茹でたものだった。

一年に一度、お祭りの日の特別な夜に出会うはずだったとうもろこしは、ここ近年、私の日常に限りなく迫ってきた。

今年もまた、とうもろこしの旬を迎えている。

ところで、とうもろこしをスーパーで購入する時、付近には必ず屑籠がある。もちろん、毎年この時期には皆さんもよく目にされているだろう。

そこには「皮をむいて中身を確認してください」という心遣いだという説と、葉物野菜と同じように1番外側の葉は捨てるものだという説が存在しているのだそうだ。しかしその構造上、とうもろこしの葉だけを捨てることは難しくはないだろうか。

そう、あのヒゲがあるからだ。

この6月、屑籠を覗くと、無数の白い糸がふわふわと打ち捨てられていることに、どうしようもなく心惹かれた。普段なら目もくれない屑籠の中身に、こころの番犬のリードを引かれた。
 
恥ずかしながらとうもろこしについての知識は「単子葉類」「平行脈」で止まっている。『世界のことをまた一つ知って、お利口になるチャンスだ!』くらいに思って、つい出来心で調べてしまい、あまりに衝撃的だった。

とうもろこしのヒゲの本数と実の数は必ず同じなのだ。

実際にメンデルやダーウィンが数えたのだろうか(ちがう)。とうもろこしの栽培を世界に広めたのはコロンブスだという。しかしながら、とうもろこしの全ゲノム解明は2009年のことだ。
 
人類史上およそ500年もの間、わたしたち人間はとうもろこし相手にふんふん唸ってきたというのだという。なんという植物、なんという食物。恐るべし。とうもろこしが古来からそうであったように、2021年、わたしのこころをも掴んで離さない。

このことを知った刹那、わたしのこころのノートには「人生」という言葉があった。

人の世においては、「やってみたけど無駄だった」「努力したが何も変わらなかった」が常だ。あまりにありふれている。行為の先にある不変を意識したとき、人は次の挑戦への意志をほんの少し削がれる。意志という雲母のような塊の表面が、一層だけ崩れていく。そのぱりぱりと乾いた音が聞こえる気がする。

頑張っても叶わないことがある。努力が報われるとは限らない。それに気づきながらも、頑張るしか生きる道はない。頑張らなければ何も変わらない。頑張らないで生きていくことの方が難しいのだ。この世界はとても息苦しい。

とうもろこしは良い。ひとつの行為がひとつの結果に、もれなく直結する。例外は無い。それが約束された世界は、とてもシンプルで幸福だ。ひとつずつ生まれた結果がやがて積み重なり、鰯の群れのように形を成す。私たちが手にするとうもろこしの、つぶつぶぽこぽことした手応えを作る。

人の世も同じ理のもとで過ぎて行かないだろうか。

 いま、このちいさな踏ん張りが、いつか、ちいさな変化を必ず連れて来る。ひとつの今日が、ひとつの明日と赤い糸で結ばれている。例外は無い。それは紙で切った指先から血が滲むことのように、今日の次には明日が来ることのように、当たり前のこと。いつしかそれが結晶となり、80年後には「人生」としてそこに姿を現す。

そんな世界ならば、生きていけると思う。

わたしはとうもろこしが心の底からうらやましいのだ。無意味かもしれないふんばりを手探りで続けることも、自分が生きた証になにかをのこすことも、わたしにはとても難しい。これからも難しいだろうし、なにかをのこせるとしても一朝一夕に成るものではないだろう。

とはいえいくら羨んだところで、世界はそう簡単には変わらない。それがわかるくらいには大人になったと思う。いまわたしにできることは、その嫉妬や歯痒さも熱に変えて、今年の夏も奴を焼くなり煮るなりしてやることくらいだろう。

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