人生ってなんだろう(63)

ルドルフ  我慢を知る

最近、テレビなどを見ることも少なく、外部情報からも遠ざかっているのですが、それでも押し入ってくる情報を見るにつけ、今の社会は病んでいるなあ、と思ってしまいます。なんでしょうね、少しずつ、人の神経を侵食しているウィルスでもいるのでしょうかね。昔はそれほど意識の無かったうつ病などは、今や心の風邪として、一般的な病気と認知されていますよね。どれもがそうとは言いませんが、フェイクや心理的誘導テクニックが氾濫しておりますので、感情の起伏で世の中が支配されていきそうな気がします。携帯が日常的になり、PCが普及し、インターネットにより生活の基盤が構築されつつある現在、その過程を過ごしてきた身からすれば、この変化は便利な事この上ないとも思いましたが、次から次へと変わっていくPC言語やスキームに付いていくのは大変でした。うーんこの変化に振り回されている自分を意識してしまいましたね。

50代の時に、ある経営者と話していた折、なぜ今の人達は古典的な教養を積まないのだろう、まったく嘆かわしい世の中だ、人生を歩むという原点から言えば、時代の変化など関係ないのだがという意見で合致はいたしましたが、その際、勉強したくても時間が無いのかもしれませんね、今IT化の進む中、その操作を覚えるだけで、かなりの時間を取られますからね。便利さを享受する代償として、自分自身を考える余裕を失っているのかもしれませんよ。などと話したことを覚えております。

私自身、一太郎、ロータス123からはじまりMSオフィス、アクセスなどのDBソフト、さらにネットワーク、通信と進む中での、インターネットのインフラ普及。もういい加減この辺でいいんじゃないっていう気がしましたね。ただ便利なので、あるとありがたいですけどね。

相田みつを
“金が人生の全てではないが 有れば便利 無いと不便です 便利のほうがいいなぁ”
ちょっと相田さんを挟んでしまいました。

まあ、環境変化と共に、ここのまま社会意識が一つの方向へ向かい始めると、病んでいるのは私の方だとなりそうな気がしてきましたね。以前、人生ってなんだろう(43)で参考として提示させていただいた「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」のフレーズ、まあ悪とまではいいませんが、無自覚に世の動きに追随するのは、危険なことだと思いますよ。

人生ってなんだろう(43)
https://note.com/akahananotonakai

グダグダと愚痴っぽい話をしておりますが、そんな中、一説の文章を読み、“ああそんな意味だったのね”と知ったことがありましたので、参考までに下記に記します。

「我慢について」

「我慢」が、今の世に生まれ出てくる多くの痛みや不和、障害を生み出しているかもしれないというご意見です。

現代社会を生きる人々は、スマートフォンや SNS 、変化の激しい社会環境に、半ば拘束されているような生活をしています。この生活の中では以前よりも「小さな我慢の連続」のようなことになっているのではないか。と指摘されていました。

そして、この「我慢」は、現在では美徳的な概念としてとらえられていますが、その語意を辿ると、
我慢とは、「私が慢心する」ことを現したもので、仏教においては煩悩の一つとして、戒められているものでした。

Wikipediaより
我慢(がまん)とは、仏教の煩悩の一つ。強い自己意識から起こす慢心のこと。
四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。仏教では人間を固定的な実体として捉え、自己に執着(しゅうじゃく)することを我執(がしゅう)といい、その我執から、自分を高く見て他人を軽視する心をいった。
現在、一般的に自分自身を抑制し、また耐えるという「忍耐」の意味あいで用いられる「我慢する」は、もともと「我意を張る」などという強情な心意を介した転用で、近世後期から言われるようになったとされている。

変化の過程で言えば、“他人をあなどること”“うぬぼれ”の意味から始まり、“強情であること”“弱さを見せまいとする姿”へ意味が移り、やがて“じっと耐え忍ぶこと”“辛抱すること”へと変化していきます。そして辛抱する意味が主流となり、「忍耐」の意味で美徳へと変化したようですね。

この「自分を高く見て他人を軽視する心」というのは、「あいつがやったことか、言っても仕方ないから、我慢しておこう」
「あいつは、何言っても判らないから、我慢するしかないか」「くだらないルールだけど、嫌味を言われるのもイヤだし、我慢するか」などなど、本来自分の方が正しく、上から物を見ているのだけど、真面目に付き合うと面倒だから仕方ないなという、実は他者を低く見る態度となり、そもそもの語源にある慢心となってしまいます。
全てが慢心に通じるとは申しませんが、こんな気持ちが日常的に多く表れている気はしますね。

自戒するところは、多々ありますが、まあ思い当たるところが多すぎて、一つ一つ対応するのは難しいですね。
せめて、自分の行動・言動が、慢心にあたるのかを振り返るくらいですかね、そして他者に我慢をさせない配慮でしょうか。

これからの社会生活に小さな「我慢」の機会がどんどん増えていくことでしょう。この小さな積み重ねが、痛みや不和、障害として出てこないように自分を管理することが大切ということでしょうか。
それにしても煩悩の一つが美徳を表す言葉として、使われているって不思議ですね、ある意味“同調性バイアス”なんでしょうかね。

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