人生ってなんだろう(26)

ルドルフ 信長辞世の句にIT革命を感じる

家康、秀吉の辞世の句について、我なりの解釈をご紹介いたしましたので、織田信長についてもお話いたします。
「本能寺の変」にて討たれた織田信長に、辞世の句は伝えられておりません。しかし彼の死生観を象徴するものとして、彼が好んだと言われている幸若舞「敦盛」の一節が、辞世の句として伝えられております。

信長辞世の句 幸若舞『敦盛』より

“人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか”

意訳:Web上では次のような意訳が書かれております。

「人間の一生は所詮50年にすきない。天上世界の時間の流れに比べたらはかない夢や幻のようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものだ」

「本能寺の変」については、明智光秀による謀反とされますが、動機、経緯について、いまだに議論を呼ぶところです。
私の感想を言えば、たとえ家臣としてもあの乱世の折に、市中の自分の宿泊施設の周囲を、大勢の兵士に取り囲まれるとは、少し無防備すぎるなあと思っております。なにしろ親兄弟でも争いごとの絶えない時代ですものね。以下信長が愛した幸若舞「敦盛」の一節を原文にて紹介いたします。この幸若舞は「平家物語」で語られる武人熊谷直実の出家に至る物語を題材にしたものであります。

幸若舞『敦盛』熊谷直実が出家する場面となります。

“思へばこの世は常の住み家にあらず 草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし 金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる 南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり 人間五十年、化天(下天)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ”

意訳:Web上では次のような意訳が書かれております。
「思えばこの世は無常である 草葉についた水滴や、水に映る月より儚いものだ 晋で栄華を極めた金谷園(きんこくえん)も風に散り 四川・南楼の月に興じる者も 変わりゆく雲に被われ姿を消した 人間界の50年など 下天での時の流れと比べれば 夢や幻も同然 ひとたび生まれて 滅びぬものなどあるはずがない これを悟りの境地と考えないのは 情けないことだ」

ここで気になるのは「下天」という言葉となりますが
下天とは、仏教の六道の最上階の世界である天道の中で、最も下の世界である四大王衆天を指しています。下天(四大王衆天)の一日は、人間界の50年に相当するとのことです。幸若舞『敦盛』の歌詞における「人間五十年」は、仏教思想の世界観において、下天と人間界の時間の異なりを指していて、「人間の寿命は50年」と言っているのではなく儚いものだと言っていると思えます。

さて解釈は平家物語に続きます。平家物語の「敦盛」の段となります。

「平家物語」「敦盛」の段

“熊谷、「あれは、大将軍とこそ 見まいらせ候え。まさのうも 敵に後ろを 見せさせたもうものかな。返させ給へ。」と、 扇を上げて招きければ、 招かれてとって返す。 みぎわに打ち上がらんと するところに、押し並べて、 むずと組んでどうど落ち、 とって押さへて、 首をかかんと、 かぶとを押しあおのけて見ければ、年、十六、七ばかりなるが、 薄化粧して、 かね黒なり。 我が子の小次郎がよはいほどにて、 容顔まことに美麗なりければ、 いずくに刀を立つべしともおぼえず。「そもそもいかなる人にて ましまし候うぞ。名乗らせ給え、助けまいらせん。」 と申せば、 「なんじは、たそ。」 と、問いたもう。
「ものその者で候わねども、 武蔵の国の住人、熊谷次郎直実。」と、名乗り申す。「さては、なんじにおうては名乗るまじいぞ。なんじがためには、よい敵ぞ。名乗らずとも、首をとって人に問え。見知ろうずるぞ。」とぞ、のたまいける。“

意訳:Web上では次のような意訳が書かれております。

「熊谷、「そこのあなたは、大将軍とお見受けします。みっともなくも、敵に背中をお見せになるものか。引き返しなされ。」と、直実は扇を上げて招くと、武者は招かれてサッと引き返す。
武者が波打ち際に上がろうとするところに、直実が馬を強引に並べて、むんずと組んでドウッと落ち、取り押さえて、武者の首を掻っ切ろうと、かぶとを仰向けにして(顔を)見てみると、年は、十六、十七くらいである人が、薄化粧をして、お歯黒をつけている。自分の子の、小次郎の年齢ぐらいで、顔立ちがとても美しかったので、直実はどこに刀を立てていいかもわからない。直実は、「一体(あなたは)どういう人でいらっしゃいますか。名乗ってください、お助けします。」と申すと、武者は「お前は誰だ。」と、お尋ねになった。「大した者ではございませんが、武蔵の国の住人で、熊谷次郎直実。」と名乗り申し上げた。
武者は「それでは、お前に向かっては(私は)名乗らないよ。お前にとっては、(私は)良い敵だ。(私が)名乗らなくても、(私の)首を取って人に聞いてみろ。見知っているだろうよ。」とおっしゃった。」

そして源氏の武将が見守る中、熊谷直実は、泣く泣く敦盛の首を切ることとなります。後でこの武者は、平経盛(平清盛の弟)の息子で、平敦盛だと分かりました。このことで、直実は武士を捨て、出家の気持ちが強くなったとされます。もともと関東一の武人と称される直実は、気性が荒い方の様で、源頼朝の命令を拒否して領地を没収され、領地問題の訴訟に際して、頼朝の目前で髪を落とし、出家をするという経緯を辿ります。
その後、法然に弟子入りし蓮生(れんせい)と名乗り、京都・東山で修行を重ね、各地に寺院を開基しているそうです。
また『法然上人行状図画』巻二十七によれば、建永元年(1206年)8月、翌年の2月8日に極楽浄土に生まれると予告する高札を武蔵村岡の市に立てた。その春の予告往生は果たせなかったが、再び高札を立て、建永2年9月4日(1207年9月27日)に実際に往生したと言われている。このような解説がWeb上で見ることができます。即身成仏を願うも、一度目は果たせずに、再度トライしたということでしょうね。かなり信仰心の厚い方だったと思います。

上記で信長の愛した幸若舞『敦盛』の一節、幸若舞の題材となった「平家物語」の「敦盛」の段の解説と繋がり、熊谷直実の顛末へとお話は至りました。

この関東一の武人が、息子と同年代の若者の首を取ることをきっかけに、争いごとに虚しさを感じ、出家に至る道筋を描いた『敦盛』、この『敦盛』を愛したと言われる織田信長。一般的なイメージでは才気にあふれ、一種の狂気をも感じさせる信長像ですが、果たして心の内はどうだったのでしょう。戦乱の世に、自らの虚像をあえて広めていたようにも思えます。

しかし、これだけの内容をWeb上で、瞬時に紐解けるとは、まさにIT革命ですね。以前であれば、資料を紐解くだけで、図書館や古書店へ日参しなければ出来ないことですからね。もちろん、その内容をどう咀嚼し考えるかが最も大切なことではありますが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?