国立西洋美術館に行く 2020.10.11
来週を過ぎたら、長い休館期間に入ってしまう国立西洋美術館へ。
企画展の『ロンドンナショナルギャラリー展』の本日のチケットは売り切れなので、大人しく常設展に行く事にする。結構と上野に来ている割には中まで入るのは久しぶりな気がする。ちなみに建物はコルビジェ設計、世界遺産で国の重要文化財。館内の鑑賞ルートは案外歩きやすさがあるのに分かりにくいので来る度に迷ってしまう。
常設展はルネサンス期から近代までかなりの数が展示されているので見応えはあり。言っても西洋美術は全然詳しくはないが美術館として癖のないセレクションで誰でも楽しめる展示だと思う。個人的に洋画はゴリゴリのルネサンスのイカつい絵が好みで、額のドラマチックも含めてキンキラの絵を見ると単純に大喜び。凄いね!飛び出す立体額、額縁展をやって欲しい。しかしエル・グレコのドラマチックさよ。
いかにもって感じの肖像画もあるが、久しぶりに見て、昔は全然興味の無かった静物画を好んで見ている己の心境の変化に気がつく。果物が並んだような応接間的な美味しそうな絵を飾りたくなるのは歳を取ったからなのか。
展示されたヨーロッパの風景画の暮らしには結構犬が描かれる事が多くてどこを見てもワンちゃんカーニバル。猫は意外に見当たらない。野良猫っていないの?家の中なんだろうか?罠にかかった絵の中のキツネはずっと痛がって可哀想なので、助かったアンサー絵画があってもいい。
個人的洋画の好みとしては、もっとヒエロニムス・ボスとかの奇天烈な画風や北方ルネッサンスのロヒール・ファンデル・ウェイデンが好きなので、西洋奇想絵画部屋とかゴシック様式美部屋とか作って頂きたいものです。癖のある洋画好きな傾向が強い。
藤田嗣治は、先週見た国立近代美術館の戦争画でない方のたおやかな柔らかい絵。日本画と洋画の中間みたいな色味で、戦争画の荒々しさと別物で、ひとりの画家から全く違う絵が現れる人間の意識の深さ恐ろしさを目の当たりにする。ここら辺はどうしてそんなに変化したのかの事前勉強がないと理解が難しい。
ゴッホのバラはひまわりに比べて主張は控えめ。そしてセザンヌの風景画は何となく岸田劉生に近しい雰囲気もある。やっぱり影響を受けているのだなあと感じる。
久しぶり過ぎて知らなかったが、少ないが宝飾品の展示もあった。急にダイヤモンドの輝きで眼を洗う必要性を感じたので凝視する。単眼鏡を持ち歩けば良かったと心から思ったので今度こそ本当に買おう。指輪の近代の精巧すぎる作りも良いが、古代のシンプルな宝飾デザインもかえってミニマムな今的でグッとくるものがある。エメラルドもサファイアもとても美しい。
今回の目当てとしては『内藤コレクション展 写本彩飾の精華』が見たかった。チラシで見るより小さくて(文字が)どうにも緻密で凄い。やはり単眼鏡が必要(二度目)。
文字の流れは分かるが、聖歌隊の楽譜みたいなの独特で初めて見る。アルファベットの中に人物を描くというのは何でなのかと思う。日本じゃ漢字の中に人は描かないよ。字に対する装飾の感覚が違うのね。
日本の中世だと写経など、文字自体の美しさがバランスをとっているので、これでは読みにくいんじゃあ、、という気持ちは度外視、装飾ファースト。写本だから写した人によって描くものは変わるのだろうか?どうなんだろう。楽しそうに描いているのが伺える。こういう仕事してみたいものです。
展示のひとつに『貴族身分証明書』というのがあった。郷土の爵位の無い貴族の為の身分証明だそうだが、どういう事なのか貴族の基準が、今ひとつ分からない。ヒプノセラピー(前世療法)で『あなたの前世はフランスの貴族です、でも爵位はありません』とかいうメンドクサイ状態だったら持ち歩いていた前世の記憶がある人でもいるのであろうか。しかし何でも残っているね。どちらかと云うと博物館的コレクション。《カスティーリャ王国の貴族身分証明》というだけで漫画みたい。
美術館にはロダンが、中にも外にも。『地獄の門』はレプリカではなく世界の12個のうちのひとつで本物。国内にはもう一つ静岡県立美術館に『地獄の門』がある。静岡県立美術館はロダン館があるくらいで唸るぐらいロダン(+カミーユ)が見れる。考える人はすっかりNOVAのCMでおなじみかつ定着して誰でも知ってる有名彫刻。門の装飾の方が先だよね確か。しかし地獄の扉の重厚感よ、本当に開いたらドロドロした異界に連れて行かれそう。そんな事を考えてしまう。
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