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春に思うこと

人混みは苦手なので、週末は近所の公園や商店街、図書館をパトロールしたり、神保町の古書店をウロウロしたり、ひっそり谷根千を散歩するのが好きだ。歩いて見えるスピードで街や人を見るのが好きだ。乗り物に乗ると通り過ぎてしまうから。

10日間ほどの入院生活を経て改めて街を歩いてみると(リハビリを兼ねて笑)見慣れた景色にも、まるで初めて見たかのような新鮮な感情が湧いて、恋をして世界が総天然色に見えるのに似た、しかしながらそれよりずっと深いところから湧き上がり、且つドッシリとした思いに包まれる。

再び、春の訪れを沈丁花の香りから感じることのできることに。芽吹く柔らかな柳の緑をみることができることに。争うように狂ったように我れ先と咲き誇る花々を見ることができることに。うららかな春の光が差し込む窓辺にまた立っていることに。

陳腐なようだけど苦笑

生まれて初めてそれを経験するような、新鮮な感情に自分でも驚く。もう何十回も春を迎えているけど、今年の春は特別だ。

初笑い。初荷。初セリ。初詣。初鰹。ハツハツハツハツ。寺山修司のお母さんはハツさん。関係ないけど笑。毎年恒例の何度も繰り返していることでも、その年の最初のことには、「初」と特別な意味を込めていたのは、新年=NEW LIFE、またはREBORN、新たな1年、新しい生を生きる気持ちを込めたんだと思う。換言すれば、死ぬかもしれない、新しい年を迎えられないかもしれないと思うからこそ湧き上がる新年への喜びなんじゃないか。今夜生きていることに感謝の祈りなしに、死ぬかもしれない明日を前に夜にひとり目を瞑ることはできない。

生まれて7日目を祝うお七夜。お宮参り、お食い初め、と結構短い間隔で誕生を祝う行事が目白押しで、その後は七五三くらいの間隔が空くけれど、それはその期間の子供がまだ神の内で、簡単に向こう側に召される小さく弱く儚い命であることを物語っている。

終わり。つまり死を意識して初めて、始まり、生についても輪郭が際立ってくるんだと思う。片方では成り立たない。君と僕。SとM。昼と夜。天と地。ケインとアベル。ジギルとハイド。今まで知りたいと思って知識としては仕入れていても、どうもイマイチしっくり肌になじまなかったことに、ああ、もしかしたら、こういうことなのかもしれないという小さな感触が宿る。勿論まだまだ、ちーとも分かってなんていない笑。そんな分かったなんて、もう仏様だから笑。

ああ、そういうことだったのかと腹落ちするというか、それまでは知識や情報だったことが、血肉通う姿形を表すのに、私はとても時間がかかる方みたいで、こんなことがあって、こう思ったんだなんて友人に話すと、優しく短く、そうだねと相槌を打ってくれて、ああ、もうわかっていて、私が気づくまで待っていてくれたのかと申し訳なくありがたく思うことが多い。

花冷えというのか。気温差激しい頃。みなさまお身体はくれぐれもご自愛くださいませ。



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