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正しさについて

中学国語の小論文みたいだけど笑正しさについて感じる違和感について、書いてみたいとしばらく前から思っていた。

テーマが哲学に関わり、サンデル先生クラスでないと魅力的に語ることは難しそうだ。トンビくらいの半径でしか屁理屈ですから展開しませんし、ライフハック的なお役立ち感もないことをあらかじめお断りして、つらつら紀貫之書いてみる。

若い頃はまたは、幼い頃は、自分の正しさに根拠のない自信があったし、正当性を振りかざして誰かを論破したり、自分の意見の正しさで相手をねじ伏せることで、優越感や満足感を覚えたものだった。

正しいと間違い。白と黒の世界観。

しかしながら少しものを知れば、今自分の主張した正しさなんて、この文脈で、このテクスチャにおいて正しいに過ぎず、文化が変われば、時代が変われば、コペルニクス的な転回の例を引くまでもなく、正しさなんてものに、絶対的なものはないし、それでも声高に主張すると決めたなら、正しさで盲目的になってはいないかという謙虚さや躊躇いや振り返りに裏打ちされていた方がよいと思うようになる。

白と黒の間に無限に広がるグレーのグラデーション。

こうかくと、じゃあ、もう、私は何にも言えなくなってしまう。という方もおられるかもしれない。ナイスパス。待ってました。それこそ、言うと言えないの二項対立の世界観です。

勿論正しいことはあります。間違っていることもあると思います。ただ、それは正しさではなく、正しいと思う意見であり、自らが正しさの権化になり、誰かの過ちと引き換えに自分の正しさを証明しようとすることは、ちと何か違うのではないかと思うのです。

誰かの正しさは誰かの間違いで、パレスチナは占領なのか、メキシコの壁は国境なのか、ウクライナ東部は独立なのか、正しさと間違いの間の気の遠くなるようなグラデーションの違いを互いに言語化可視化していくプロセスが、コミニケーションであり、民主主義なんじゃないかと思うのです。大風呂敷広げました汗。仕舞おうかな。

途中から文体がですます調になっていることに気づき苦笑してしまうけど、ヒートアップし易いテーマを選んでいる自覚があるので、そんな時には拳は絶対挙げちゃいけないと思っている。

やはり、サンデル先生に任せておけばよかったと、堂々巡りループ沼にはまる自分の限界を感じる。正しいことは陶酔をもたらす劇薬で惹かれやすい。歴史をみても、なんでこんな馬鹿げた妄想と思うようなイデオロギーに、正しさの錦の御旗が与えられたときに、妄想は暴走している。だから、私は正しさを扱うときは、慎重でありたいし、自分に疑り深く、果たしてそうなのかしらと、短く言えば謙虚であろうと思っている。

あ、くれぐれも重ねて申し上げますが、私は謙虚ですと言っているのではありません笑。逆です。私は決めつけて自分の正しさに酔いやすいので(下戸だから)謙虚であろうとしていると、それが正しさの諸刃の剣から自分と、対話する大切な人を守るんじゃないかと思っています。

今日は、真面目の極みのオバサンで攻めてみました。私の中の真面目が溜飲を下げているのを感じます。自画自賛笑 世話ねーや。

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