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私の日常と

好きそうな展示をやるからと
年末は久しぶりにバータイムも開くから
フラあっと顔を見せに来てねと
イマジナリーシスターに
FBMessengerからお声がけいただいて

FBは事実上凍結していて
発信もアクションもしていないのだけど

MessengerでFBでだけ繋がっている人がいるので
時折スクロールする

お坊さんの知人が映画のレビューを上げていてふと目に留まる
あああ、相模原津久井やまゆり園の事件だ

評論家やアーティストの感想を読んで
あれと違和感があったのは

エグラれるとか
目を背けたくなる見たくない現実とか
もう逃げられないとか
生々しい苛烈で誠実な表現とか
口を揃えてトーンも揃っているのだけど

予告編見る限りの
施設で描かれる障害のある人の姿も
職員の戸惑いも、家族の引き裂かれるような揺れる繩をナウヨウな気持ちも

あくまで仕事マターで勤務時間という期間限定だけど
この20年の私の日常で

コメントを発した人たちにとっては非日常の世界の近くで
20年仕事でだけど暮らしが近くあるものとしては

これが普通
これが現実
いつだって視界の中にある景色だった
障害のある人のいない世界に住んだと思ったことがないし
それは施設という狭い箱を出たって
街を歩けば必ずすれ違う人たちで

私の暮らしてきた世界というのは
普通じゃなかったのかしら
そこに何もできやしないのに居続けている自分は
映画の中ではこの現実の中で狂わない方が狂ってる
狂う方が普通だって叫ぶようなセリフがあって刺さったけど

ああ私が頭オカシイ方なんだなあ
普通じゃない世界が普通だと思って普通に暮らしているんだからって

それが日常であると
まるで他の人にもそうなのだと
無意識思っていることに気付かされて
ああ私の世界の日常は誰かの日常ではないんだと妙に納得してしまったのだけど

やっぱりそうなのかなと思って
最近一般企業から転職されてきた同僚に
カクカクシカジカと説明して質問したら

ええ、そうだと思いますよ
僕は東京で働く前は横浜で働いていましたけど
東京という街はいかに儲けるかに特化した場所ですから
日本の稼ぎ頭ですしね
東京で儲けて日本で分配して生きてるようなものですから
そこに働く人にとって気になることは
自分が他人からどう映るか、所謂映えとかで
文学なんか何になるの、本なんか読んでバカじゃないってよく言われましたよ、僕。

稼がない生産性がない人を人として認知しないってメタは
程度問題こそあれ
東京では広く普く浸透してるんじゃないですかねと

朝から赤毛の空気を読まない質問にマジレスで答えてくれた

そうなんですよね
この映画がスゴイ、エグルって評されれば評されるほど
ああ、これが極々日常の景色だよって
障害を持った人も持たない人も
言葉のある人もない人もいて
それぞれの思いが交差する場って
ないんだ、普通はって思ってしまって
そこじゃないよって言われそうだけど刺さってしまいまして

と慌てて時間になったので朝礼に踵を返して向かうけど

この違和感はなんだろう
その後も小骨のようにのどに刺さり続けていて

長く働いてきて自分では正気を保っているつもりだし
でもやっぱり相当偏ってるんだろうなと
だからこそ人と生産性と価値みたいな議論に
石を投げ込むとしたらそんくらいのデカい石じゃないと
均衡を崩せないよなと思ったりして

なぜ狂気の側に答えを見つけた人がいて
何が自分と違ったのかいや違わないのか

映画を見なくてはと
新宿へと向かう日曜日に


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