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【note限定エピソード】人類の、進歩と調和!-それぞれの「大阪万博」体験①

1970年。
終戦からわずか25年、持続的な経済成長により世界第二位の経済大国となった日本は、東京オリンピックの開催成功など、国際的な地位も確実に向上してきた時期でした。
そのような驚異的な復興と経済成長を象徴するようなイベントとして開催されたのが、日本万国博覧会、「大阪万博」。
約6か月の会期中に6400万人余りの来場者を集め、新居浜や西条からも多くの方が訪れました。ここでは、インタビューを行った皆さんの心に刻まれた、それぞれの「大阪万博」体験を紹介します。

万博は行きましたよ。だけど、主人に「万博行けるんは金持ちの象徴だ」と言われましたよ。私らは比較的、住んでる場所が大阪が近いじゃないですか。だから何も気にせず行ってたんだけど、主人からするとそうみたいで。主人は埼玉なんですけど。
はじめて飛行機乗ったのは、それでした。万博行くのに。松山空港から。

1970年の大阪万博は、海外からは77ヵ国・4国際機構(「国連館」など)・1政庁・6州2市が「パビリオン」を設置し、それぞれの国のことや国の抱く将来像を、当時の最新技術を駆使しながら紹介するものでした。
国内からも、地方公共団体や大企業、「電力館」「自動車館」など業種ごとに業界団体がパビリオンを設置するなど、「人類の進歩と調和」をテーマとして最新技術を披露し、希望あふれる「近未来」を感じさせるに十分な博覧会でした。
中でも人気だったのが、リニアモーターカーの模型展示を行った「日本館」、鋭い塔の先端から曲線的に伸びる屋根と、鮮やかな赤と白の配色が特徴的な「ソ連館」、アポロ計画の全容とともに、アポロが持ち帰った「月の石」が呼び物となった「アメリカ館」の3つ。とくに「月の石」は、1970年大阪万博の代名詞的な展示物として、人気が過熱しました。

人がとにかく多くて、並ばされて、もう拗ねて泣いて。帰りたかった。待てないの、人気のあるパビリオンは。「アメリカ館」とか。迷子になったりもしてね。
とにかく人が多かった。私は親戚が大阪にあったから、宿泊はそこだったけど、四国にいたらそんな人の多いの、経験ないでしょ。月の石を唯一、そこだけ並んで見たんですよ。アポロの。そこだけ見た。並んで。

1970年当時の日本の人口はおよそ1億人。大阪万博の来場者数は延べ6400万人余りですから、単純計算では半数以上の日本人が「大阪万博」を経験したことになります。
とはいえ、瀬戸大橋など陸路が開通するのは遥か先のことです。四国と本州をつなぐのは「宇高連絡船(香川県高松市・高松港と岡山県倉敷市・宇野港を片道1時間で結ぶ航路)」など海路か、1961年に松山空港と伊丹空港を結ぶ便が就航していた空路のみ。高度経済成長が地方にまで実感のあるものとして成果を挙げていた時代の中にあってもなお、万博のための大阪遠征は、なかなかの旅費となりそうです。宇高連絡船ではどうしても、船内でうどんを食べちゃいますもんね!
そんな庶民の強い味方が、「大阪に住む親戚」でした。

東京オリンピックを西条から見に行ったっていう人は、あんまり聞かんのよねえ。でも、こういうふうに、万博を見に行ったっていう人はたくさんいるの。だから、その間に高度成長の成果が、地方の市民にもひろく及んだのかなあ。
で、親戚の家に泊まるのも古い文化よねえ。我々の頃はそれが当たり前で、親戚でも普段会わないようなちょっと遠い親戚でも、平気で泊めてもらったりしよった。

一方で、大阪万博に行かなかった人・行けなかった人も、もちろんたくさんいました。その盛況ぶりがメディアで紹介され続けたであろう万博会期中に、万博に行かなかった・行けなかった彼らの思いはー

当時、ぼくは大学入ってすぐぐらいで、東京の親戚のところに下宿してて。
で、こっち帰ってくるときに「万博に行っときなさい」と言われたけど、ひねくれものだったから、行かなかったの。当時の学生は、ぼくみたいにちょっとひねくれてた人が多かったの。ああいうのは、最初っから嫌だ、というのがけっこうあったんですよ。メインストリームは行くまい、と。ひねくれというか、なんというか。だから、興味なかった。興味なかったんだけど、今考えると相当惜しいことしたよね。

このように、万博に行った人にも、行かなかった人にも、思い出として深く残っている「大阪万博」。

そこから55年を経た、来る2025年、再び大阪で万国博覧会が開催される予定です。「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマにした2025年「関西・大阪万博」では、どんな思い出が刻まれるのでしょうか。

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