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【note限定エピソード】「一曲、お願いできますか。」―昭和、ダンスホールの思い出あれこれ。

戦後、テレビもまだまだ普及途上の1950年代や1960年代。
戦災からの復興と経済成長の中で、余暇にもお金や時間をかけることが徐々にできるようになってきた時代です。そんな時代の若者の主要な娯楽の一つに、ダンスホールでのダンスパーティーがありました。
大正初期から戦前にかけて、主に富裕層の娯楽として盛況したダンスホール。戦時中は「敵国の娯楽」として閉鎖が相次ぎましたが、戦後には駐留軍向けの娯楽施設として再出発。1950年代から1960年代前半は、ダンスホールが徐々に庶民にも親しみのある場所として認識され始めた頃です。

戦争終わって、昭和30年ごろの時代には、西条にもダンスホールが何か所かあったんだから。ここらへん(紺屋町などの商店街付近)にも、3、4か所も。西条の商店街は昭和20年代に闇市的なところから始まって。自然発生的に。で、昭和30年代後半には、全盛期に近いくらいのお店の数になってた。その手前のころ、昭和22年ころから30年くらいがダンスホール全盛期かなあ。それ以降は、飲み屋さんとかがその役割、大人の社交場・男の社交場、というのを引き受けたから。ダンスホールは、ほんとにダンスを習いに行ったり、踊りに行ったりしよったみたいですよ。ダンス教える先生もおって。
60年くらい前とか、いまの銅夢キッチンのところに『岡田ダンス』っていうのがあって。ほかに『プリンス』っていうのがあったんよ。高知銀行の裏。そこに行きよったんよ、よく。わたしはそこに行きよった。
で、私たちがまだ若い時はね、住友の単身の寮があって。高卒の社宅と、大卒の社宅が、山田社宅のところにあるんよ。別にね。その子らが行くようなダンスパーティがあるんよ。でも、それに行くためには習わないといけないんよね。
ワルツからはじまって、ジルバにいってね。タンゴは踊れんのよ、わたしは、難しいから。わたしは『プリンス』に行きよったんやけど、そこは役所の人とかね、来てたの。『岡田』より『プリンス』のほうが、自分は雰囲気が好きだったから。

このように西条にも新居浜にも、商店街など多くの人が集まる場所に複数のダンスホールがあったことが伺えます。
時代が下っても、バブル期の「ディスコ」ブームや2000年前後の「パラパラ」ブームなど、定期的に若者のダンスブームが巡ってきますが、これらのダンスブームと「ダンスホール」ブームが異なるのは、「ダンスホール」でのダンスがワルツやジルバ、タンゴなどの社交ダンス(ソシアルダンス)を踊るブームであったこと。音楽に合わせて自由に体を動かしたり、形式があったとしても緩い形式で踊ることを主眼とする後発のダンスブームよりも、言うなれば硬派な感じでした。
一方で、「ダンスホール」ブームが後発のダンスブームと共通する部分もありました。それは、そこが男女の出会いの場になっていたことでした。

行ったらね、ものすごくアクションを起こしてくるんよ、男の人が。会社まで電話かかってくるんやから。私、銀行に勤めとったんよ。だから、残業しよっても、お父さんが9時には迎えに来よったんだけどね。二つ三つはかかってきよったよ、「ダンスホールで会った、あの時の誰それです」いうて。でも、ちょっと怖いやろ。なんか恐ろしくて。私が別の人への電話を取り次ぐこともあったんよ。
ダンスホール行ったら周りにこう、椅子があってね。で、曲がかかるやろ、私も行くときは女友達何人かと行くんやけど、来るんよ、男の人が。「一曲、お願いできますか」いうて。で、ワルツなんかは難しいからみんな踊れない。だからエンディングくらいに、最後くらいにワルツがかかるんよ。そしたら、もう踊れるのは二組くらいしか残ってないんよ。そこから恋愛したりね。

恋愛結婚と同じかそれ以上にお見合い結婚が多かった時代にあって、いまよりも遥かに少なかったであろう、男女が気軽に出会える場所。ダンスを習い、ダンスパーティーに参加し、「一曲お願いできますか」と声を掛ける。数少ない上級者が、衆目を集める中で最後に優雅にワルツを踊り、恋愛関係に発展していく。いまの私たちが想像するに、とてもロマンティックな光景です。

このようなロマンティックなダンスホールで、違う形で青春時代を過ごした方もいたようです。

僕らが大学入ったころは、ゴーゴークラブというのがあってね。
若い人がダンスをする場所は、「ゴーゴークラブ」という言い方で最初にぼくは覚えたから、「ディスコって、ゴーゴークラブのこと?」と聞くわけ。そしたら「古っ!」てちょっと下の人に言われたりして。ぼくらのころは、まだ「ゴーゴークラブ」なんよ。
(ゴーゴーダンスというのが、あったんですよね。)
そうそう、誰でもできるダンス。ツイストと一緒よ。こういうふうに。自由に踊れる。ダンスホールはジルバとか、ボックス踏んで、とか、習わないとできないんやけどね。
で、ぼくらの大学のころは「ダンパ」というのがあって、ダンスパーティーね。ぼくが入ってた軽音楽部は、その演奏にいくわけ。そうしたら、我々の演奏に目をキラキラさせてくれる女の子がおってくれるの。必ず、1回ステージ立ったら、そのたびに声を掛けてくれる女の子が何人もおったしね。

ダンスホールでの社交ダンスから、気軽に踊れるゴーゴーダンスやツイスト、そしてバブル期の‘ワンレン・ボディコン’で踊り狂うディスコブームまで。ダンスを踊るものから、演奏でダンスを支えるものまで。
昭和時代にはこのようなダンスが、いつもどこかで青春を燃やす舞台になっていました。

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