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マッチのあった青春時代 私たちの思い出展

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2022年1月15日から3月6日にかけて、新居浜市総合文化施設「あかがねミュージアム」で実施した企画展「マッチのあった青春時代-私たちの思い出展」のエピソード記事全文です。展示会…
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展示を振り返って ―無名という名の鉱脈のはなし

2022年3月6日(日)を最終日として「マッチのあった青春時代 わたしたちの思い出展」は終了いたしました。平日、休日問わず、たくさんの方々が長い時間足を止めてマッチに見入っている様子で、主催者としても非常にうれしい気持ちです。 多くのマスコミの方にも取材していただく機会を得て、さまざまなご意見や質問をお受けしました。だいたい最初に質問されるのは、「この展示で、なにを感じ取ってもらいたいか」という企画意図のようなものでした。 それに対する答えは「マッチそれ自体のデザインの豊

【note限定エピソード】ハレの日は、とびきりの服を着て。 ―昭和のおしゃれな若者たち

明治政府の欧化政策や「大正デモクラシー」を端緒として、和装に代わり洋服が庶民の間に普及し始めたのは、今からおよそ100年前。以降、大正期の「モボ・モガ」から、戦後の「落下傘ドレス」、イギリスのファッションモデル・ツイッギーの来日で火がついたミニスカート、アイビールック、ヒッピーブームとパンタロン、竹の子族、バブル期のワンレン・ボディコンなど、流行にうるさい若者たちは常に「最新のファッション」を追い求めていました。新居浜や西条にも、そのような若者はたくさんいた様子です。今回は、

【note限定エピソード】春の楽しみ、潮干狩り? ―いいえ、クルマエビ採り!

春や秋など時候がよくなると「家族で外にお出かけ!」という方も多いと思います。 ショッピングモールなど、楽しい娯楽施設に出かけるのももちろんすてきですが、晴れて気候のいい日は、やっぱりアウトドアに出かけたい。その思いは、今も昔も変わりません。 今回紹介するエピソードは、昭和の新居浜・西条のアウトドアな楽しみについてです。 (昔、いまの今治造船があるところでは、よくクルマエビを取っていた、と聞きました。) そうそう、春とか秋には「いさり」いうて。大潮のときにみんなで海辺に行って

【note限定エピソード】マドンナがいる店・ドライブで行く店・高級感のある店 ―思い出のお店あれこれ

今回の「マッチのあった青春時代 わたしたちの思い出展」では、新居浜市内の約300点、旧西条市内の約100点、現四国中央市や小松、丹原などの約50点、計450点ほどのマッチを展示しています。 インタビューなどを経て文章化できたお店のほとんどは、誰しも1回は行ったことがあるような有名店がほとんど。たとえ行ったことはなくても、「ああ、あそこにあったお店でしょ」と、その存在が多くの人の頭に残っているようなお店がほとんどです。 今回のエピソードでは、個別のエピソードとしては文章化ができ

【note限定エピソード】田舎まで、デンデケデケデケ ―ビートルズに熱狂した新居浜・西条の若者たち

『青春デンデケデケデケ』という小説があります。 香川県が舞台の青春小説で、1991年に直木賞を受賞、翌1992年には映画化されるなどした芦原すなおの名著です。ザ・ベンチャーズのエレキサウンドに「電気的啓示」を受けた主人公たちが、ロック漬けの高校時代を送る様子がコミカルに描かれています。 この作品で描かれているのと同じく、ステレオから聞こえてくる音楽に「雷に打たれたように」衝撃を受け、音楽に没頭した高校生は全国各地に数知れず。「雷」の送り手は、1950年代後半にデビューした‘キ

【note限定エピソード】「一曲、お願いできますか。」―昭和、ダンスホールの思い出あれこれ。

戦後、テレビもまだまだ普及途上の1950年代や1960年代。 戦災からの復興と経済成長の中で、余暇にもお金や時間をかけることが徐々にできるようになってきた時代です。そんな時代の若者の主要な娯楽の一つに、ダンスホールでのダンスパーティーがありました。 大正初期から戦前にかけて、主に富裕層の娯楽として盛況したダンスホール。戦時中は「敵国の娯楽」として閉鎖が相次ぎましたが、戦後には駐留軍向けの娯楽施設として再出発。1950年代から1960年代前半は、ダンスホールが徐々に庶民にも親し

【note限定エピソード】名物うどんを求めて猛ダッシュ! ―瀬戸大橋開通前、宇高連絡船の思い出

「塩飽諸島を橋台となし…(中略)…架橋連絡せしめば、常に風波の憂なく…(中略)…南来北向、東奔西走瞬時を費さず、それ国利民福これより大なるはなし。」 これは最初の「瀬戸大橋」構想として、1889(明治22)年5月に当時香川県会議員だった大久保諶之丞(おおくぼ・じんのじょう)が披露したものです。 この大久保の提案からおよそ100年後の1988(昭和63)年4月、10年の工期をかけて瀬戸大橋(本州四国連絡橋 児島・坂出ルート)が開通し、本州と四国が初めて陸路で結ばれました。 今

【note限定エピソード】ある文学青年と喫茶店―わざわざジャズ喫茶で、わざわざ大江健三郎。

たとえば電車の車内。もしくは喫茶店の店内。多くの人たちが、手に持ったスマートフォンに黙々と視線を落としています。 ニュースサイトなどを見ている人。ゲームをしている人。メッセージのやりとりをしている人。手元の端末を通じて様々なことができる時代です。電子書籍を読んでいるという人もいるでしょう。個人的には、そういうところで文庫本を読んでいる人を見るとホッとしてしまうのですが、「書籍」と聞いてまず紙媒体を思い浮かべるのは、もう時代遅れなのかもしれません。 ともあれ、この展示で取り上げ

【note限定エピソード】仏崎、こわいこわい!-新居浜西条海岸線、決死のドライブ!

愛媛県道13号線。 新居浜市内の一部区間は「平和通り」と呼ばれ、新居浜市役所やイオンモール新居浜、西条との市境付近には住友金属鉱山(株)、西条市に入っても大型商業施設やビジネスホテルが立ち並ぶなど、新居浜と西条を結ぶ主要道路として私たちの生活を支えています。 この県道が開通する前、新居浜と西条を行き来する海岸線のルートは「仏崎」という岬を通る隘路が一般的だったようで、このルートに思い出のある方が多いようです。 西条から自転車に乗って新居浜に行くとしたら、いま、もうみんな知ら

【note限定エピソード】佐治敬三の「調和」に魅せられて―それぞれの「大阪万博」体験②

1964年の東京オリンピックのメイン会場の一つとなった代々木第一体育館など、数多くの建築に携わった日本を代表する建築家・丹下健三。いまも万博記念公園にそびえる「太陽の塔」を遺した芸術家・岡本太郎。通産省の官僚として活躍後、作家としても『団塊の世代』などを著した堺屋太一。『日本沈没』などを著した、戦後を代表する作家・小松左京。日本における文化人類学のパイオニアである梅棹忠夫。いずれも、戦後日本を代表する文化人・知識人です。 これらの人物に共通するのは、1970年の大阪万博に携わ

【note限定エピソード】人類の、進歩と調和!-それぞれの「大阪万博」体験①

1970年。 終戦からわずか25年、持続的な経済成長により世界第二位の経済大国となった日本は、東京オリンピックの開催成功など、国際的な地位も確実に向上してきた時期でした。 そのような驚異的な復興と経済成長を象徴するようなイベントとして開催されたのが、日本万国博覧会、「大阪万博」。 約6か月の会期中に6400万人余りの来場者を集め、新居浜や西条からも多くの方が訪れました。ここでは、インタビューを行った皆さんの心に刻まれた、それぞれの「大阪万博」体験を紹介します。 万博は行きま

マスターは100円玉の袋を抱えて―インベーダーゲームと『ドンファン珈琲館』

登場するモンスターが国民的キャラクターになったり、あるタイトルの発売が熱狂的な社会現象になったり、過度な没頭が社会問題になったり。ビデオゲームはその登場からずっと、とくに子どもたちや若者の余暇の一部として、彼らの時間を溶かし続けてきました。 その黎明期を語るに欠かせないのが、インベーダーゲーム。正しくは、(株)タイトーが1978年に発売したアーケードゲーム「スペースインベーダー」です。その利益率の良さに目をつけ、「テーブル筐体」が数多くの喫茶店に置かれました。 登道南商店街に

昭和通り随一の情報交換の場―『アルプス』と『亜土』に集う商店主たち

戦後、新居浜の目抜き通りと言えばいまの昭和通りの一つ北側にあたる「本町通り」でした。その賑わいが徐々にいまの昭和通りや敷島通りに移ってきたのは、1950年代中盤から1960年代初頭あたり。きっかけの一つは、1955(昭和30)年2月25日に市議会で議決された「議案第46号『モデル商店街の建設について』」の中で言われた、‘モデル商店街’の建設についてでした。 新居浜市の商店街の発展及び育成並びに都市美観の造成を図るため、新居浜市の商業センターとしてモデル商店街を建設する。…(

倉敷珈琲館にあこがれて―うなぎの寝床の小さなお店『珈琲専門店 プチ』

四国を本州を結ぶ、最初の陸路である瀬戸大橋が全線開業したのは1988年4月。昭和末期のことです。 それまでは、岡山まで行くには「汽車で高松へ行き、連絡船で宇野まで渡り、宇野から電車で岡山へ」というのが一般的で、新居浜からだと5時間程度かかっていた計算です。このように本州が、今より遥かに時間的に遠かったころ、『プチ』の経営者である阿蘇道子さんは、あるひそかな憧れを胸に、新居浜と東京を行ったり来たりしていました。 若いころ、資生堂っていう化粧品の会社に勤めてて。銀座4丁目に本