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ぬいぐるみ観

2024年の1月、池袋のシルバニアのポップアップに何気なく立ち寄ったことをきっかけに、私はシルバニアファミリーとの運命的な出会いを果たしました。

ポップアップに寄ったときには2人購入しましたが、数ヶ月の歳月が経ち、今では5人に増え、たくさんおともだちができました(๑˃̵ᴗ˂̵)

シルバニアの名前は5人全員ころちゃんです。

みんなが同じ名前の理由は、2つあります。

1つ目は、記憶力には限りがあるからです。
全員違う名前だと覚えられないです。
名前を忘れられてしまうことは、かわいそうでもあります。私は忘れっぽくて失礼なことをしてしまうことが多いので、防げるところでは防ぎたいです。

2つ目は、みんなを平等に扱いたいからです。
ころちゃんと○○ちゃんといった具合に、後に名前を言われちゃう子ができてしまうのはかわいそうだと思いました。また、お気に入りの子ができたときに、どうしてもその子の名前を先に呼んでしまうことがあるからです。
多様性が求められる昨今、偏見や贔屓の目を無くし、誰にでも平等に接することは、人生を生き抜く上で必要不可欠な力です。

自分もまだ、人に対して外見や第一印象、その日限りの表情や声のトーンで判断して勝手に期待したり、怖がったりしてまともに人間関係を築けないことがあります。大切にしたいからこそ、ずさんに扱う努力をして空回って胸が苦しくなることもあります。人と接する度胸を付けて平等に接したいと言う思いから、戒めとして全員にころちゃんと名付けたのかもしれません。

ぬいぐるみは目を合わせても愛想笑いしてこないし、目を泳がせてそらしたりもしてこないので、目と目で通じ合えている気がします。でもそれは、人間の一方的な感情の押し付けです。
しかも残酷なことに、ぬいぐるみのことを人間側が忘れてしまったらぬいぐるみは人間に目と目を合わせてもらえないし、今まで押し付けてこられた感情すら覗かせてもらえません。

また、人間はいつか死ぬから永遠はないのに、ぬいぐるみには寿命がないので何かしらの災害がない限り、永遠が保証されています。永遠がないものと永遠があるものな時点で分かり合えないし、向こうには感情もないので本当は分かりあうと言う概念すら両者間には存在し得ないものなのです。人間が忘れたり死んだりしたらぬいぐるみはほったらかしにされるし、死ぬことに関しては仕方がないことですが本当に勝手なものです。

ぬいぐるみに感情が無かったにしても、ぬいぐるみの存在を忘れると言うことは、作り手に対してとても失礼なことだと思います。だからどんな大きさのぬいぐるみを買うときも、高校に上がる頃くらいからはそれなりに覚悟を決めてから購入しています。

ころちゃんは、私をいつも見守ってくれているし大好きですが、ぬいぐるみなことに変わりはありません。それに気付かされた瞬間、叫びたいほど惨めな気持ちにもなるし、自分はひとりで生きていかなきゃいけないのかと途方に暮れます。

でも、シルバニアファミリーを作ってくれた人のおかげで、何も持ち合わせてない自分にシルバニアのことで人から話しかけてもらえたり、ころちゃんをプレゼントしてもらったり、自分の人生は明らかに豊かになりました。

ぬいぐるみだけじゃなく、世の中に何かを創り出して私たちを楽しませてくれる人々に感謝しています。安心して次回作に期待できる表現物をつくってくれる人たちのおかげで辛い夜を乗り越えられるし、長生きしたいと思っていられます。感謝してもしきれません。

これからもころちゃんなどの表現物をはじめとして、ゆくゆくは自分のことも大切にできたらいいなと思います。

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