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私も「あの頃はよかった」回顧人間になってしまったのか

ずっと昔、年下の元夫は新聞記者だった。
新聞社で新聞記者は花形ポジションだ。彼が総務部の若い男子のことをバカにしたような発言をしたとき、私はすごく怒った。
花形ポジションにいる人間は、総務や経理など内勤の人間をちょっとバカにする傾向がある(私しらべ。もちろんそうでない人もいる)。週刊文春の編集長(当時)が出した本で、花形記者と内勤記者を分け隔て無く扱うことに気を遣っている、ということを書いてて、「この人偉い」と感じた。

先日、ある若い人と話す機会があった。
その人が属する、年配者の多い組織の中で、数少ない若手としてとても頼りにされ(特にIT分野で)、期待されている三十代前半の人だった。
その人が「僕は意味のある、やりがいのあるセクションで輝きたい」という意味のことを言った。その組織には予算もついて大きなプロジェクトをやるセクションから、身内の懇親会の企画をするような小さなセクションまでいろいろある。予算や人脈があるセクションにいることに意味がある、という意味だと私は受け取った。ということは、彼にとって、組織の中で「意味のない」セクションもあるのだなと。

また先日、私が今所属している編集部で、若い部員が編集会議で吠えた。
「五反田さん、〇〇の意味分かりますか」
「この編集部は〇〇が全然できてないんですよ」
彼にとって、うちの編集部はデザインやレイアウトがダサくて、自分が正したくてたまらないらしい。確かに彼は私たちよりデザインが得意のようだが、デザインの話しかしない上に、一緒に働く人間に敬意のない物言いが止まらない。
そして「フォントが細すぎるのでは」「黄色バックに白い字は読めないのでは」などなど、私の意見には聞く耳を持たない。私は編集部内ではインタビューや執筆が得意だが、そっちには何も意見してこない。

彼がそういう物言いを私たちにすることによって、何がしたいのかが分からない。個人的におとしめたいわけではないらしい(私以外の人間にも同様の言動をするので)。そして、「あなたのやり方は古い」「俺が正しい」という主張以外に耳を貸さない、一本やりのコミュニケーションしかしてこない人間に、どう相対したらいいのかわからない。

スポコンの営業部長や先輩に教わるしかできなかった私のような人間は、私が先輩に相対する際にわきまえていた部分を伝えるしかないのだろうか? でも、きっと話はかみ合わない。私が一喝しても、そこで関係性は終わるだろう。ああいう人はプライドが高いだろうし、「叱る」「叱られる」の関係性自体がそもそもないから。

この間、50歳になって、マインドフルネスの本も読んで、私は原因にいつまでも執着しないことにした。だけど、なんて、難しいんだ。寝る前にぐるぐる考えるのをやめて、別のことに頭を転換することが。それぐらい、私は彼が苦手で困っている。

一緒に働く人間に敬意が持てない奴、くたばれ、ぐらい言いたい。
もう、辟易なんだよ。自分偉い、俺すごい、お前らザコって感じをグイグイ出してくる奴。

昭和・平成スタイルでものを習った私に、「自分が伝えられたように次の人に伝える」というルートは用意されていない。今の若い人はグーグルで何でも調べられるので、そもそも私を必要としていない。何ならIT系やソフトの使い方は私より知っている。
私が積み上げたキャリアは興味を持たれないどころか「全然できてないんですよ」とか言われる。

私個人の人望や実力の問題もあるのだろう、世代・年齢関係なく素晴らしい関係性を築いている人たちだってたくさんいるのだろう、敵意を向けてくる人間にうまく相対している人もいるだろう。だから結局、このぐるぐるは自分のふがいなさに帰結してしまう。

私も「あの頃はよかった」と回顧して、若者を嘆くだけの人間になってしまったのか?

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