ポリコレに支配された校閲がいるらしいという妄想:創作のための戦訓講義47


事例概要

発端

※毎日新聞の記事。「優秀なテレビ番組などを顕彰する「ギャラクシー賞」で2022年度奨励賞を受賞したラジオドラマ「校閲・桃太郎」の一コマだ」との紹介だが、ずいぶん程度の低い賞らしい。

※同じ毎日新聞の校閲センター公式アカウントが引用するが……。

※そもそも修正を要求してくる影のポリコレ遵守的校閲ってなんだよという話。

反応

※ポリコレやコンプラの視点がズレているという妥当な指摘。

※「川で洗濯って環境破壊につながるからSDGs的にアウトですよ」という記事中の作品の記述について、そもそも昔話の時代と現代の洗剤利用と河川の汚染状況は食い違うという指摘も。むしろこれを指摘するのが校閲の仕事じゃ……。

※既に同様の発想の作品があるという指摘。そりゃ、何かしらあるだろうなと。先行作品を制作者も評価者も調べなかったのか。

個人見解

 そもそもポリコレやコンプラを理解していない状態で描く作品が的外れになるのは当然と言える。ネット上での雑な議論をそのまま取ってきたのだろう。

 ポリティカルコレクトネスは「政治的正しさ」と訳され、その表面上の語気にあてられて馬鹿らしい解釈をして吹き上がる人が多い。いわく「こいつらは自分たちが正しいと思っているぞ」とかなんとか。

 ポリティカルコレクトネスは簡単に言えば「現実の差別や偏見を作品で再生産しないようにしよう」という取り組みだと、少なくとも私は受け取っている。人間は様々なところから差別や偏見を学習するが、当然学習元のひとつに創作物が含まれている。拡散力などを鑑みれば、創作物で差別を再生産し、学習元になってしまうことを避けようというのは当然の試みだろう。

 しかしネット上ではこの手のある種お行儀のいい思想は受け入れられづらい。創作とは自由であること、自由とは他者をないがしろにすることという反抗期の中学生でももっと深い理解をするだろうというところで留まっている。

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