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〜18歳シリアに行く〜入国前編②


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諸注意

※この文章はシリア・アラブ共和国への渡航を推奨するものではありません。情報を収集した上ご自身の責任で渡航される事をおすすめします。

※現在、今後シリア・アラブ共和国への入国を行った際に、「ビザ免除プログラム改定およびテロリスト渡航防止法」により米国入国時のESTAを利用した入国が不可となります。またこの旅行記中にある情報は断りのない限り2020年2月以前のものであり、現在の状況は大きく異なると予想されます

※文章には筆者個人の偏見、勝手な予測、それらに伴う間違った情報、個人的な主義及び思想が出ることが予想されます。間違った情報に対する指摘や質問等がありましたらTwitter→@aka_ikura までお願いします。なお、主義思想に対する批判や未成年者の行動としての妥当性に関するコメントはお控えくださると幸いです。

※今回の記事は前回からの続きになっています。前回の記事はこちらから読めますので未読の方は前回から読むことをお勧めします。

では長ったらしい注意書きはこれくらいにして本編をどうぞ!



感謝とお詫び

まず前回投稿した際に多くの方から感想ご意見等を頂いたことに感謝申し上げる。

しかし予想よりも早い国内旅行の再開により夏休みは無事?旅行を満喫、オンライン上でのサークル活動や労働によって何も予定のない日が2日しかなかったこともあり、上の「本編をどうぞ!」と書いてはや3か月が経過してしまった。

今回自分の怠惰と計画性のなさで大変遅くなってしまったことを、特に感想ご意見をくださった方々にお詫びしたい。




旅程崩壊(前章)

さて前回は旅程をたて予約を固めたところまでだったが2020年に入る前に早速旅程が崩れかかる。初期に予定していた旅程は前回の記事でも書いた通り、

出国→香港→中国(武漢)→アメリカ→イギリス→キプロス→レバノン(合流)→🇸🇾シリア🇸🇾→レバノン→イラク(解散)→イラン→クウェート→エチオピア→帰国というものであったが、早速香港から武漢に向かう便が欠航した。(欠航理由については現在も不明)(なお先に言っておくとこの中で予定通り移動できたのは2区間のみである。)


あわてて予約元に問い合わせをしたところ別会社の便に振り替えてもらえることとなった。



まあこのくらいはトラブルに入らないなと思っていたがまさにその通りで、だんだん中継地点であり中国共産党の史跡や食事を楽しみにしていた都市武漢の雲行きがどんどん怪しくなっていく。

そう皆さんご存知の通り、後にCOVID-19と命名される人生最悪の厄災が始まったのだった。


最初はのんきにしていたが、その後2020年に入り武漢天河空港からの国際便が閉鎖され無事にニューヨーク行きの飛行機は欠航になってしまう。そこで再度問い合わせをするが予約元は最初に予約した航空会社もしくはその航空券運賃内での変更しか認めてくれなかった。

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↑当時はまだ累計感染者数が4桁になり騒いでいたが今ではその1万倍以上になっている


当たり前と言えば当たり前だが、中国が鎖国していくなかで初期航空会社は武漢と広州を拠点にする会社であったし、元々地球を一周する旅程は香港ーニューヨークが2.1万円という破格さから決めたものであり、もはやほかの旅程を決めた以上残された道は全額返金を申請し、香港までの航空券は破棄して東京→ニューヨーク渡航1月前の片道運賃予約という激高の差額を支払うことしかなかったのだ。(結果的に追加料金6万円となり財政破綻をおこして緊急仕送りを要請することとなった。)

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↑当時の混乱具合が察せられるチャット。結局中国経由は諦めざるを得なかった。

と、結果的に羽田発仁川経由片道8万円コースでニューヨークへ行くことになり、金額的損失を取り返すべくアメリカ東海岸の観光計画を増やして、8歳からの夢であるスミソニアン航空博物館別館へ行き気持ちだけでも挽回をしたり、

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↑エノラゲイの翼下にいる紫電改には心にくるものがある。奥には橘花もいるし本当になんでもある博物館。


出る際にエアカナダが評判通りの直前欠航をする(なんと欠航後振替したら他も大幅遅延していたために予定より前の便に搭乗するというダメっぷり。ダメすぎて新しい法律ができたくらいはある。)などしたが北米編は省略する。

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↑モントリオール行きが欠航し急遽トロント経由になったが、1枚目欄外の定刻11:30発に乗れてしまうバグ。流石北米クオリティ。


その後ロンドン、キプロスでも色々あったがこれもいちいち書いていると1万字行ってしまうので後に書ける機会があったときに回すとして、なんやかんやでキプロス共和国を出発しレバノンの首都にして唯一の国際空港をもつベイルートへむかった




レバノン入国

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シリアについての記事なのにレバノン入国とかどーでもいいだろ!早く入国しろよ!と思っている方も多いと思う。ただこれもシリアという国にこの時期入国する上で大きな不安材料になっていたので我慢して読んでいただきたい。


まず一般的なレバノン入国に関してだが、日本国籍保持者はベイルート国際空港にてアライバルシングルビザが無料で発行されるという実質ノービザに近い形態がとられている。

つまり首都空港からの入国は実質ビザ無しという、近年のアゼルバイジャンに近いシステム(何と言われようとアゼルバイジャンは名のしれた訪問先)が各公式情報でも周知されていた。また何よりレバノンは様々な観光地を有し、陸の孤島と言われながらも多くの日本人旅行者が訪れ、入国審査や交通機関等必須情報を様々な媒体で記録が残るようなところであるため、通常ならば特にここで書くことはない。


しかし、今回は事情が異なる。ここ10年近く閉ざされている隣国シリアへ行くために出国し、再度入国しなくてはならないのだ。

ビザ取得必須国に行ったことのある皆さんならお分かりの通り、ビザは有効期間や入国目的とは別に入国回数に応じて多くの国でシングル(1回)、ダブル(2回)、マルチプル(無制限)が存在する。(例:6か月観光シングル)今回ここで重要なのはベイルート空港でとれるビザはシングルらしいということだ。

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↑大使館に行ってとるタイプのベラルーシ観光シングルビザ。ホログラムがかっこいい。



つまり、もし空港以外はアライバルビザが発行されずにシリアへ入国した場合、唯一の出入口のレバノンへ入国できず、日本大使館のないシリアに閉じ込められ、そのうちシリアのビザも切れて最悪シリアの刑務所行きという恐ろしい事態になってしまう。そんなことになったらまずマスメディアに晒され、日本政府の努力により生きて帰ったとしても社会的な死が迎えてくるだけだろう。それはなんとしても避けたい。

一応シリアとの国境でも取れるらしいという情報はシリアのツアー側からあったが取れなかったら終わりである。確証が欲しかった。


幸運なのはこのことに出発1月前に気づいたことだ。(我ながらインドビザのクソUIに苦戦しただけはある)(もっと早く気付け)

ただしそもそもレバノンからシリアに行くことはほとんど想定されておらず、当たり前だがネットでいくら探しても確定的な情報は出てこない。そこでいつもの大使館電凸(今まで主に年齢面で10か国ほどの大使館へ電話経験あり)ということになった。


しかし不運は続くものだ。こんな人生で1回しか電話をすることがないであろう在日レバノン大使館に電話をするときに限って、一躍レバノンを有名にするある事件が起きる。



「私は今レバノンにいる。」


そうカルロス・ゴーン密出国事件である。

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詳細は省くがカルロス・ゴーン氏が関空から密出国して母国レバノンに入国したというものであり、ここでレバノン政府が日本政府への身柄引き渡しを拒絶したために、当時の世論は今まで名前も認知されていなかったレバノン政府に急に批判的になった。


そこで気軽に自らの「正義」とやらを振りかざすことができるためだろう。グーグルマップの口コミは一気に星1投稿で埋まり、ただでさえ繋がらないと評判だった電話についても悪戯電話などが殺到していたようで全くつながらなくなってしまった

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↑この中で実際行ったことがある人はどれくらいいるのだろうか



それでも代わりばんこに電話をし続けた結果O氏が遂に接続に成功した。そこでビザについて聞いたところ返ってきたのは、

空港でマルチプルのアライバルビザがあるため大使館での事前ビザ申請は不要」と面倒くさそうな回答だったという。



もしかして余計な仕事を増やすんじゃねえよってことなのか?という一抹の不安を抱えつつも、大使館に勝る情報はないということでとりあえず解決ということになったのだ。


さて舞台をベイルート・ラフィク・ハリリ国際空港に戻そう。こんなにも長く詳しく書いたことで察するであろう通り


ダブルビザを要求したが押されたのはシングルビザだった。


は???となるも、そこにないならないのだ。もうツアー会社を信用するしかない。

どうにでもなれと思いつつ空港を出て、不安は募ったままベイルート市内の宿に向かい、チェックインした。

※補足すると当時レバノン情勢は終わりが始まっていた。対ドルの急速なインフレが1月から始まり、長らく1ドル=1500レバノンポンドだったレートは訪問時には1ドル=2500ポンドまでになっていた。経済政治はともに大混乱で街の中心部にはテントが立ち並び、金曜になると装甲車が街を走っている、そんな状況だったが外からのニュースではほとんど内情が分からなかったのも事実だ。



その後レバノンのSIMを求めて市内へ出たがその日はその金曜日、入国したばかりの自分はどうやらレバノン情勢をなめていたようで、目当ての携帯ショップのある地区は有刺鉄線で囲われ、出入り口には自動小銃をもった兵士が行く手を阻んでいた

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↑本来なら前方にある店へ行く予定だった


素直にあきらめて宿に戻るが、弾丸旅程(よくない癖)ゆえの少ない観光日程に焦っていた自分はそこに無理やり別都市観光を組み込んでしまう。(レバノンの面積は大体岐阜県と同じくらいなので比較的気軽に移動ができる)



行った先はレバノン第二の都市タラーブルス(トリポリ)だがまあ悪い出来事のアンハッピーセットだった。

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↑アブデュルハミド時計台。名前の通りオスマン帝国期の建築らしく、ダラーブルスの象徴


ここで視点をレバノン、日本、レバノンと来たところでまた今度は当時の中東情勢に目を移すと、このころイランが中国に続いて世界2番目の感染爆発国家にならんとしており、イランと同じくシーア派(12イマーム派)の多いレバノンではイランからの帰国者で陽性者がちらほら出ていたのだ。

また中東は東アジア人に対する偏見・差別意識が根強い地(一概には言えない)でもある。

東アジア人に対する差別と中国からの新型コロナウイルスという2つが組み合わさった結果生まれたのが、公然でのからかいであった。ベイルートではほとんどなかったのだがタラーブルスで歩いていると、



「ヘイ!コロナコロナ!」「ファッ〇!チャイニーズ!」「コロナ!チンチョン、ゴーホーム!」etc...


と主に子供若者世代の男性からの誹謗中傷が浴びせられ続ける。この事象はあの時期の湾岸を除く諸地域であったようだ。(もちろんシリア入国後もやられ続ける)



しかも目当ての城は軍の基地へ変わっており軍人に追い返され、バス停が暴動で中央広場が場所移動していた(現地人も分かっていなかった)ために最終バスを逃してしまう。結局セルビスという個人営業バスに乗ってベイルートへ戻ったが料金を払う際には「コロナプライス!」と明らかなぼったくりを受ける。

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↑フラファエルだけが味方だった。食べ物は人種差別をしない



もう精神的に参ってしまった。

まさに鬱状態だったのだろう。(この時から肌の色がばれにくい夜が好きになる)


何かが切れたまま宿に戻りWifiに接続するとおびただしいメッセージが翌日合流予定の2人から来ていた。

やっと知り合いに会って安心できるなと思った瞬間、期待は裏切られた。



内容としては「イランにいる我々はレバノンに入国できない。」というものだった。

実はその日レバノン政府はイランからの入国者を強制隔離すると発表。2人がもしレバノンに行っても隔離されて帰れなくなってしまうことになったのだ。 明日来るというこのタイミングでなくても・・・



こうなると2日後から予定されていたシリアツアーにも影響が出る。前回触れた通り、シリアツアーはその性質上人数が増えるとその分急激に安くなる、つまり人数が減ると急激に高額になるのだ。そして基本現金払いかつレバノンではドルを自由に引き出せるような情勢ではなかったために、唯一の道としてツアーの大幅な縮小を余儀なくされた。

簡潔に言うとアレッポとハマという2大観光都市に行けなくなってしまった

ただし当時はもうカロリーの高い感情を沸かせるほどの余裕がなかった。

2人との電話でもへらへらと妙に笑っていた。虚無に対してにやけることでしか現実を逃避できなかったのだろう。(お2方には本当に申し訳ない)



さて翌日は遅くまで寝て起きると強烈な空腹を感じるとともに生への実感が湧くのを確かめると、朝食後ベイルート市内をぶらつき、こう思ってしまう。

ベイルートはいい街だ、好きな街だ。ジロリと見られ露骨に避けられることはあってもほとんど差別的な言葉をかけられない。それだけで満足だな。

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↑有名な廃墟らしい。奥はレバノン1有名なアミンモスク


多少メンタルが回復した後にカルロス・ゴーン氏の家だけ行き、明日からのシリアに備えて早く寝ることにした。

緊張で眠れないなんてことは2年前のシルクロード横断旅行前以来だ。一体どうなるのだろうか。




出発


目覚めは悪く小雨が降る中、相変わらず美味しいレバノン料理の朝食を食べる終わるとすぐに約束の時間が来た。

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↑シンプルだがそれが良い


すると大柄な男性が宿の前に車を停めて入ってくる。どうやらこの人のようだ。

こわばる口を動かしてつたない英語で軽く会話をしすぐ車に乗った。どうやら国境は遅くなればなるほど混むらしい。

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いよいよか、とここ2日間にあったことを忘れるくらいの緊張と不安、期待で鼓動が強くなっていたのを実感できた。



区切り


え?おいシリアは?となる人が多いと思うが、レバノンという地域は今後シリアを見るうえで欠かせない比較対象となるため見逃して頂きたい。

また、ベイルートのあの惨事により、もはやシリアよりも当時自分が見たあのベイルートを見るほうが困難になってしまったのではないかという思いもあってのことであり、備忘録的側面もあるために書かざるをえなかったのだ。

さて次回からは正真正銘のシリアについて書いていこうと思う。もう半年以上たってしまい、当時の新鮮な記憶が薄れ切ってしまわないうちに終わらせたいが、一体いつ続きが出るのだろうか。(早く書け)



次回

両替は国外で?




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