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往復書簡 #6 何かを言うより聞いていたい

前のお便り:往復書簡 #5 「この私」という解釈、存在と生成の肯定

前回のお便りからかなり時間が空いてしまいました、お待たせしてしまい大変申し訳ないです。なにを書こうか、考え込んでしまいました(と書き出して4,000字ほど書いたものを、さらに1ヶ月以上仕舞い込んでしまいました、すみません...)。考える時間をいただきありがとうございます。

中学生が慌てて提出した卒業文集のようで恥ずかしいのですが、「ぼくはいま、なにを書こうか迷っている」というような書き出しになります。瑛さんの文章に心底共感した後で、はて自分は何を書くべきだろうか、と立ち止まってしまったのですが、この迷いにも考えるべきところがありそうだと思ったのでした。

1. 自分に何が言えるのか、何を言うべきか。

何を書こうか、思った以上に悩んでしまいました。その理由は二つの疑念にあるようです。ちょっとネガティブに見えてしまうかもしれませんが、一応その先へ時間が運んでくれたように思います。

疑念1:ぼくが語るべき知識などあるだろうか?
疑念2:ぼく自身が語るべき思いや経験などあるだろうか?

まずは疑念1です。ハイデガー研究者としては、瑛さんの文章を読んで「ハイデガーなら...」とコメントできる気もしたのですが、そんなことをしてどうする、とも思ったのでした(もう少しはっきり言うと、そんなことで得意顔をしたくない、という思いがあります)。また「ケアの倫理学」も少しかじりつつありますが、専門家ではないので特別なことは言えません。

ではぼく自身の体験に即して、とも思ったのですが、そこで疑念2です。ぼくにとって「こうでありたい自分」とはなんだろう。有徳な人間でありたいとは思います。しかしそれをどう語れば? なにか告白すべきことがあるだろうか? いや、それは日々の生活で実践すべきことであって、それに関して特別語るべきことなどないのではないか。

語るべきことなどないと思う一方で、ぼくはむしろ、次のような瑛さんの言葉に触れて、ただそれを大事にしたいと思います。強いて言えば、それが「こうでありたい自分」かもしれません。

もう今更謝ることもできないような関係の人もいるのですが、そうでない人には折を見て謝りたい。

こういう言葉に、ぼくははっとします。不遜かもしれませんが、これをぼくは受け止めたい、と思います。しかしどうすれば? 似たような言葉を繰り返す? なにかコメントを加える? いや、それは本意ではありません。これは瑛さんの言葉であり、ぼくはその瑛さん自身が抱えるしかない思いにはっとしたのでした。ですからぼくは、瑛さんがそれを大切に抱えるのを、助けるような位置にいたい。そういう受け止め方をしたいと思うのです。

どうすればよいのかは分かりません。ぼくはなにか「ものを言う」ことに躊躇いをおぼえます。ただ、そういう躊躇いみたいなところに、ぼくの「こうでありたい自分」があるのかもしれません。

そうは言っても、多くの人と確かめ合っておきたいことを、あらためて引用して小さな「コメント」を加えてみます。

理想の自分ではなく、それを理想とする自分ごと認めてもらえるということ。ここにスクリーンショット(瞬間)としての「存在」の肯定と、それに向かい変化していく「生成」の肯定とが合致するのではないでしょうか。

上で「ハイデガーなら...」と言ったのはここに関わることでした。人間は単に現在を生きているのではなくて、「可能性」を生きている。人間にとっては生成こそ存在である。だから「君自身がそれであるところのものになれ(werde, was du bist!)」というような、不思議な言い方も成り立つんだ――こういうことをハイデガーは言います(『存在と時間』第31節など)。誰かの存在を認めるとは、その人の可能性を認めることにほかならない。そういうことなのだと思います。

それから次の点も。

重要な他者とは誰でしょうか? それはとりもなおさず、自分がその人の「この私」という解釈を共有している人ではないでしょうか。
その人の存在も生成も肯定したいような他者が、自分の存在も生成も肯定したいと思ってくれていること。「この私」という解釈を相互に共有し合うことで、「この私たち」という解釈を共有すること。

これも心から首肯します。またこのすっきりした言い方の背後に、瑛さんが考えてきた長い時間も感じられるように思いました。
 この点に関して、書きながら気づいたことがあります。まさにここで瑛さんの言うような、人と人が互いの生成を認め合うような世界のありようが、ぼくにとって「こうでありたい自分」なのかもしれません。もちろん、世界のありようを「こうでありたい自分」と言うのは、自分を抽象化しすぎかもしれません。ただ、ぼくにとっては「どういう世界であってほしいか」の方が「どういう自分でありたいか」に先立つものであり、その願いをもって「自分自身」を定めたいように思われるのです。

(この書きぶりは一種の自己演出でもあります。ぼくは「こうでありたい自分」をこのように語る自分でありたい、というわけです。ただ、このように語りたいということに関しては、まさにそう語ってしまっているわけなので、嘘をつけません。デカルトの「我思うゆえに我あり」というのは「事実として思惟しているかぎりでの私は存在する」ということですが、それに倣えば「我かく語る、ゆえに我かくあらんと欲す」とでも言えそうです。)

2. 言うためではなく、聞くための言葉を...

そんなふうにぼくは語ります。では、なぜ上のような「疑念」にぼくは立ち止まったのか。ややずれるかもしれませんが、いずれにせよぼくは「ものを言う」ことの違和感に苛まれていました。

たとえば部屋にこもってSNSを眺めていると、そこに並ぶ言葉に疲弊してしまいます(見なければよいのですけれども)。なぜ疲れるかと考えて思い当たったのは、そこには「聞き手」の姿がないということでした。ものを言う人の姿(ないし言葉)ばかりで、どれも我勝ちに自己を主張しています。そして不特定の「他者」に対する漠然とした不安と敵意を漲らせているように見えます。聞き手のいない言葉が、行き場を見つけられずに肩をいからせている、そんな姿にぼくは悄然とするのでした。

これ自体は個人的な体験ですが、ここには原理的な問題も見てとれるように思います。一般的なこととして、ものを言う人の姿は言葉の形になって残りますが、言葉を聞くことは形に残りません。仮に言葉が聞き手を俟って成立するのだとしても、残るのはあくまで言われた言葉です。聞くことは文字通り時間的(temporal)な現象で、時に従って過ぎ去るものです。自らは身を引くという点に「聞く」ことの本質があるとすら言えそうです。

書かれたものばかり見ていると、我々は言葉の役割が「ものを言う」ことにあると思ってしまいがちです。そういう「物言い」からなる世界では、言葉の価値は、なにか新しいこと・正しいこと・自分にしか言えないことにあるのだと思ってしまいがちです(これは、ものを言う人の姿が見えないからかもしれません。ものを言うことにも、本当はそれを語るまでの時間や、語る際の表情・振る舞いがあるはずですが、それはプロダクトとしての言葉からは削ぎ落されてしまいます)。そしてそうなってしまえば、言葉は暗黙の競争のうちで成立することになってしまいます。ぼくはその「物言い」からなる世界に辟易したのかもしれません。瑛さんの語ってくれたことに対して自分が付け加えるべきことなど何もないと思い、上のような疑念に陥ったのはそれゆえかもしれません。

そういうわけでぼくはむしろ、ものを言うよりひとの言葉を真面目に聞きたいと思います。それは直接話を聞くという機会に限りません。抽象的な願いですが、人々の言葉がきちんと聞き手を得て、それぞれ互いの現在地を認め合う、そういう言葉の働きに参与したいように思います。ただ「ぼくは…」という能動的な主体の措定は、すでにその願いを逸するようにさえ思われます。ぼくのうちには「ものを言う」ことへの欲求と、それに対する忌避とが同居しているように思われます。

冒頭の「自分に何が言えるのか」という疑いに関していえば、そこから戻ってくる(あるいはその疑いをもちつつ語る)道は、「自分の聞き方」を大切にすることなのかもしれないと思います。そして同時に、その「聞くこと」が生じているテンポラルな場を忘れないということ。

では、ぼくはいまここで、どういうテンポラルな場に属しているのか。ひとつはもちろん、瑛さんとの対話です。この文章もまた聞き手を得なければ、不特定の他者に対して「ものを言う」ものでしかありません。あまりきれいにまとめるのもどうかとは思いますが、瑛さんが(根気強く)待ってくれたおかげで、ぼくは自分の言葉を書くことができます。その「待ってくれていること」を受け止めることが、汲み尽くしえない「語るべきこと」の源泉なのだという気もします。

3. 哲学研究その他諸々について

「聞くこと」についてよく考えたい、できれば多くの人と考えたい、という思いがあります。それは問いとして哲学的であり、かつ哲学がまさに担うべきことだとも思います。考えることは、自他の未だ整わない語りに耳をそばだてることなしに為されえません。そうした歩みの遅い営みを許容するのが哲学であろうとも(半ば願いですが)思います。

ただ、「哲学研究」として行われていることは必ずしもそれと相性が良くないように思われます。というのも、研究はやはり「成果」からなるものだからです。学会発表にせよ論文にせよ、あたかも「ものを言う」ことがそれだけで成立するかのように為されます。さらには哲学の求める普遍性が、聴き手の姿を抹消しがちです。たしかに例えば『純粋理性批判』や『精神現象学』のような著作が普遍的な理性を読者に想定することは、哲学のみがそうした精神を可能にするとも思いますし、また現に(潜在的には)誰もがそこに参与しうるという点でぼくはほとんど尊崇するのですが、しかし「作品」がそうした普遍性をもって成立することと、現実に(それらの作品を読みながら、あるいは別の言葉や現実に触れながら)為される思考が具体的な時間と場所をもつということとは、やはり別のこととしてそれぞれ真剣に受け止められねばならないはずです。ところが後者についての注意はほとんど払われていないように思うのです。

もちろんそうではないような、具体的に他者の語りを「聞く」ことから為される研究もあり、そうした研究はまた具体的な聞き手(読者)を想像しえているようにも思われます。ただアカデミアが全体として「聞く」ことや「考える時間を豊かにする」ことに関してあまりうまくやっていないということ、そしてそれゆえに離れていく人たちや摑み損ねている機会が多くあるということは確かだろうとも思います。

ほとんど行方の定まらない愚痴になってしまいました。これを愚痴に留めて粛々とアカデミアに順応するというのは一つの部分最適解なのかもしれません。ただ可能ならば、それを何とかしたいという思いもあります。こういう思いが、いま自分の「言うべきこと」なのかもしれません。それはまったく独創的でも、新しいことでも、自分固有のことでもありませんが、しかし真面目に考えるために必要な、現在地の確認にはなるはずです。

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