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情報モラル 再考 #2        ~モラルも安全も安心もない情報社会で

 1 情報社会?
 2 誤解
 3 本来の姿
 4 ルールを知る
 5 歴史から学ぶ
 6 情報を守る
 7 情報を読む力をつける
 8 サイバー社会のクセを知る
 9 未来に


#2 誤解

 情報モラルは嫌われている。

 決まりごとを守らせようとする説教臭いもの。

 それは誤解。

モラルではない

 情報モラルという言葉は合成語であり、「情報」と「モラル」とを切り離して考えるとおかしくなる。
 もちろん、モラルとしての要素もあるが、モラルの一種ではない。

 そもそもルールを守らず、モラルの低い大人に囲まれて育った子どもにモラルを説いても説得力に欠ける。

 モラルは日常生活の中で培われる。教室の中ではない。
 

防犯指導だけではない

 教育現場での情報モラルは、子どもを怖がらせてSNSを利用する際の注意事項や禁止事項を羅列するアレダメコレダメ教育がほとんど。

 なぜか。

 トラブルが起きた際に備えて、「学校ではちゃんと指導していましたよ(だから自分たちは悪くないよ)」という言い訳作り。

 大人の事情。

 防犯は重要だが、メインではない。

 初心者の子どもに年1回キャッチボールをさせただけで、野球を教えたことにするようなもの。
 

いじめ対策ではない

インターネットの危険性に関する授業内容のトップは、ネットいじめ(88.8%)

 (2021年度「青少年のインターネット・リテラシーに関する実態調査」報告書、総務省)

 確かに、いじめ防止対策推進法の第19条に、学校がインターネットを利用したいじめについて啓発啓蒙するよう定められてはいる。

 しかし、ネットやSNSは単なるツール、手段。

 ネットのあくどい書き込みは、リアル社会の醜い部分が可視化されたもの。

 無知や不注意によって生じるトラブルは教育である程度予防できても、故意や人間性に起因する悪事を防ぐことは難しい。

 そもそも同調圧力が強く作用するこの社会。
 なぜ、おかしいなと思いながらも、同調するのか。

 それは同調しないと自分がターゲットになるから。
 しかも、和を乱した者に対するいじめは、その集団の中では黙認され、誰も助けてくれない。

 そんなリアル社会。

 情報モラルとしてネットいじめ問題を前面に打ち出すことは、いじめ対策にも情報モラル教育にも寄与しない。
 

思いやりの問題ではない

 車社会において、心優しい高齢者でもアクセルとブレーキを間違えれば人を殺傷してしまう。標識の意味を知らなければ平気で違反する。

 情報社会も同じ。

 人徳のある人でも無知や未熟であれば他人に迷惑をかけてしまう。

 危険回避や犯罪抑止を思いやりという人の内面に頼るのは無理筋。

 それに、思いやりはすべての人が等しく持っているわけではない。
 悪気が無かったとか、わざとではないという言い訳は被害者には通用しない。
 

安全で安心するためではない

 やたらと「安全」と「安心」という言葉が使われている。

 「スマホには、安全のためフィルタリングソフトを導入して、安心して使いましよう。」

 これは危険な表現。
 フィルタリングソフトは子どもを違法有害情報から完ぺきに守ってくれるわけではない。

 危険性は常にそこにある。

 安全な状態でもないのに安心すると気が緩む分だけ逆に危険性が増す。

 情報モラルは安心するためではなく、常に警戒するためにある。
 

ネットだけが相手ではない

 かつては、新聞やテレビなどの旧メディアの情報が正しく、ネットの情報には気をつけろという論調であった。

 つい先日もテレビ番組で「ネットの情報は玉石混交だから信用するな」とジャーナリストがしたり顔で言っていた。

 現実はそんな単純ではない。

 国によっては、体制側に都合の良いフェイクニュースをテレビや新聞で流して国民を情報操作している。

 その一方で、庶民側は信用できる情報をネットで探している。
 新聞やテレビは信用度が高いと思われているだけに危険。

 もはやデジタル対アナログ、ネット対リアルではない。

(つづく)


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