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怒りは一番尊いものさ

「お前らマジうぜえ!こんなのやってられねえわ!」

友人はそう言って、手にしていたトランプをその場に叩きつけた。

確かに僕らにも問題はあった。でも、そんなことで?と思ってしまうような状況ではあった。当時はそう思っていた。

2021年、コロナ禍の合間をぬって、友人数人でエアビーを借り、レンタカーで小旅行へと繰り出していた。その日、僕らは広々とした宿に歓声をあげ、コテージでBBQをした後、居間でトランプに勤しんでいた。

深夜になり、酒も回り始めたころ、友人の一人が最近知ったゲームを教えてくれると言う。先ほどからトランプのレパートリーにも限界がきていたところだったので、僕たちは目を輝かせて、その友人が話すルール説明を聞き始めた。

いまいち内容を掴めずにいたが、友人はそんな僕らを気にすることもなく「とりあえず、やらないとわからないから」と、そのままゲームをスタートさせた。今、客観的にあの頃の場面を考え直してみても、友人の説明は足りていなかったように思う。とはいえ、その友人以外にゲームのルールを知っている人間がいないため、僕たちは彼に従う他あらず、ゲームをしぶしぶとスタートさせた。

序盤はそれなりにうまくゲームを進めていた僕たちだったが、ゲームを進行させるに連れて、次々と追加される新ルールに思わず、「先に言えよ!」「ルール説明下手すぎ!」と彼を罵った。そんな流れで冒頭に戻る。

彼は怒りに任せて、トランプを地面に叩きつけた。もちろん場は凍りついた。

僕たちはとっさに「まあまあ、そんなに怒るなって」「怒っちゃったよ〜笑」と場を和ませるように接した。けれど彼は怒りを抱えたままの様子だった。それから僕たちは仕切り直しとばかりに散らばったトランプを集め直して、もう一度彼に説明を求めながら、そのゲームをした。彼が説明の仕方を変えることは結局なかったが、もう誰もそれに対して文句を言うことはなかった。

そんな小旅行から帰宅して数日、僕はその出来事を忘れられずにいた。その友人が大人気ないと言えばそうなのかもしれない。僕らは年齢もとうに20歳を超えた大の大人である。声を荒げることだってもうほとんどない。それなりに上手く円滑に人とコミュニケーションをとることができる。

でもどこか引っかかる。同じ場面で自分が彼の立場だったとしたら?僕は間違いなく、ヘラヘラしながら「ごめん、俺説明下手なんだよね〜」と言うだろう。そしてもちろん場が凍りつくことはないだろう。でも、それでいいのだろうか。多少なりとも自分は傷つくだろう。自分が傷ついているのに、場が円滑に進むようにヘラヘラするのは正解なのだろうかと疑問が浮かぶ。しかしその一方で、自分が怒ったことで場が凍りつくのもそれはそれでめんどうだ。ギクシャクするくらいなら自分が傷ついたほうがいいとも考えるかもしれない。

今になって思うが、怒りを抱えた友人に対して、謝ることもせずヘラヘラすることで相手の怒りをいなした自分はとても不誠実だったのではないだろうか。いや、確実に不誠実だった。


怒りに対して考える場面は他にもあった。

先日、彼女が僕との約束を破った。同じ約束を破られたのは、もう数回目でさすがに、僕も傷ついていたし、怒っていた。その旨を彼女に伝えようとひとまずラインを送ろうとした。しかし、ラインのメッセージを書く頃には、怒る気力も削がれていた。ラインの文章を書けば書くほど本当の自分からは遠ざかっていくように感じられた。

それから彼女と会って話をしたが、その頃にはすっかり怒りの感情は自分の奥に押しやられていたし、自分の中でその怒りにたいしての決着をつけてしまっていた。


最後に僕が人に対して怒りの感情を向けたのはいつだっただろうか。中学生くらいの時のような気がする。しかし、怒りを自分のうちに抱えたことはそれ以降も数えきれないほどある気がする。自分が歳を重ねるにつれて怒りの感情を表に出すことは減っていった。その分、人と衝突することなく、円滑なコミュニケーションをとれるようになった。それは同時に大人になったとも言える。

しかし、そこにはいつも疑問が伴う。感情を殺すことが大人なのか?それは人間性を失っているんじゃないか?

怒るって難しい。そんなときに、僕が好きなアーティストであるMomの歌詞がすんなりと沁みてきた。

「怒りは一番尊いものさ サボテンの花に水をやるように わりと覚悟やら辛抱やら愛がいるものさ」

Mom「心が壊れそう」より。


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