【連載小説】ノイズ(仮) 第四回

オレの想像では、姉ちゃんと婚約者の関係に、愛、は埒外だった。
いずれ身内になる予定の他人に、うちはどういうふうに映ってるんだろう?

   *

久野 早季 様

前略
 突然の事に混乱しております。
 先日、明石エナの弁護士だと言う男が面会に来て、離婚届を置いて行ったのです。
 エナに手紙を出しても、戻って来て仕舞います。受け取りを拒否している様です。
 エナが何を考えて離婚届など寄こしたのか分かりません。行く当ても無いのです。当ての無い者同士だから一緒になったのです。
 エナはきっと、子供を産みたかったのでしょう。けれど私だって辛いのです。よくよく考えても、処置したのは正解だったと思うのです。
 これまで好き勝手に生きて来たつけがとうとう回って来たのかも知れません。
 泣き事の乱筆、お許し下さい。今の私には話し相手も無く、せめて手紙を書く事で気持ちを落ち着かせたいのです。
 エナの様子を見に行く様、佐々にも言ってありますが、久野さんの方でも、何かありましたら直ぐに教えて下さい。
 一体何が起こっているのか、皆目分からず途方に暮れています。
                                              草々
平成九年十月十日
                         明石 多果夫

   *

 姉ちゃんも四日目には、弁当を作るオレになにも言わなくなった。
「行ってきます」
 ほっといてもらえればオレだってふつうにそれぐらい言える。
 上り框にかけてコンバースの靴紐を結んでいると、母さんが背後に立った。
「今日から電気と水道とガス、ばあちゃんちで使えるようになるから。業者さんが来たら立ち会いお願いね」
「え」
「だってあんた、こんな暑いのに水も扇風機も使えなかったら熱中症になるしょや」
「いいの? まじ?」
「電気つくからってあんまり遅くまでいたらだめだからね。そういうときは電話しなさいよ。迎えに行くから」
 母さんがリビングに戻ると、「甘いんじゃない?」と姉ちゃんが言っているのが聞こえた。忌々しく立ちあがり行こうとしたとき、「いいのよ」と母さんが答えた。
 玄関ドアを閉める間際、また姉ちゃんが言っていた。
「でもさ、意味があることなのかね?」
 草刈りをしていると間もなく正午になり世界が真っ白に照らされた。真下の影が黒い水溜りのようになっている。陽にさらされた身体の表面が痛くなってきたところで、草刈りはやめて屋内作業に移った。
 母屋の一階の荒れ方は、汚れているというより、死んでいるようだった。家が死んで、そのものの機能を果たしていない。大好きなばあちゃんが暮らしていた家がなぜこうなったかいちいち考えると感傷に浸ってしまう。ゴミはゴミと割り切って仕分ける。ゴミを縁側から庭に出して集める。ゴミのジャングルを掻きわけ伐採していくのが快感になってくる。オレは作業に没頭していった。
 今朝母さんが言った通り、台所の蛇口をひねると水が出てきた。初めは薄い紅茶のような色をしていた水も、すぐ透明な冷たい水になった。バケツに水を溜め、ゴミがなくなり露わになった床のぞうきんがけをはじめた。板張りの一階廊下と縁側をごしごし拭った。
 隅々まで完璧にきれいにしたい。そうなると居間にある家具は邪魔だ。家具の下に敷いてある絨毯を剥がす必要がある。ソファやテーブルを隣の台所に移動した。ストーブも煙突を外して解体し、台所に移した。
織り模様のついた絨毯は汚れてしらっちゃけていた。端から巻いて剥がすと、その下は一面畳敷きだった。
 ものがなくなった居間はいっきに広く感じた。居間から縁側まで、すこーんと抜けるような空間ができた。空間は庭へと繋がり、家のなかと外との区別が消えたようだった。
 舞ったほこりがきらきら光るのを薄暗い台所からぼんやり眺めていると、ひとつ、目立って光る綿毛のようなのがあった。くるくる円を描いて浮遊したり、震えながら宙空の一点に留まったりしている。気流で生じる偶然にしては、まるで意志を持っているような。その光の綿毛が、ひゅんっと縁側の外へ移動した。オレに驚いて逃げるみたいだった。近づくと綿毛は一瞬光を増し、短い光芒を引いた。縁側まで出て仰ぎ見ると、すでに空高く、ゆっくりと昇るほうき星のように消えてしまった。
 オレはしばらくアホみたく口を開けて見てたけど、虫かな? と結論づけた。かかずらわるひまはない。
 居間は夕陽のオレンジ色に染まっていった。熱気もしぼみ、冷たい風が吹いてきている。
 そのなかで四つん這いになってひたすら畳の目に沿ってぞうきんがけ。なんとなく、
「しみったれてんな……」
 息を吐きながらつぶやいたけど、オレは楽しんでいた。結果が目に見える作業に愛着が芽生え、不思議と気分がアガってくるのだった。
 水も電気も通ったし、ここで暮らせるんじゃない? ばあちゃんのように、自由に暮らす。夢想すると、庭仕事の合間に縁側で煙草を喫うばあちゃんが現れた。
 ばあちゃんの真似ごとをしてみたくなった。
 なにもない箱のようになった居間の奥、暗がりになっている台所へ目を凝らした。無造作に移動した家具や解体したストーブの煙突のぼんやりとした輪郭。立ちあがり輪郭のひとつである飾り棚を漁るとあった。煙草セット。ライターと灰皿と、くすんだブルーと白のデザインの紙箱。ばあちゃんが喫っていたハイライト。
 一本出して咥えてみたけど、ゴツめの香水瓶みたいなガラスの置き型ライターは火花が散るだけで点火しなかった。燃料がないのかもしれない。 
 ライターの中身をよく見ようと暗がりから夕陽の射す縁側に出たところで、咥えていた煙草を庭の草叢へ抛った。なんと母さんの車がすぐそこまで来ていた。
 あわてて煙草セットを飾り棚へ戻した。車を停めておりて来た母さんが「すごいすっきりしたねー」と縁側から声をかけてきた。
 オレは煙草を咥えていたのを見られてないかどきどきしながら、「う、うん」と、縁側に出ていった。
「今夜バーベキューするから、もう帰ってきなさい」
「バーベキュー?」
「明日も来るんだったら送ってあげるから、自転車は置いてきなさい。ほら、帽子被って、早く帰るよ」
 オレは言われた通りメッシュキャップを被り、戸締りをして、母さんの車に乗った。

 ガレージの前にはすでにバーベキューのセッティングがしてあった。見覚えのあるテーブルや椅子はオレがまだ小学生だった頃、キャンプで使ったものだった。庭先のバーベキューやキャンプは家族三人の思い出だった。姉ちゃんは家族行事に参加するような娘ではなかったので。
 テーブルには、ラム肉、エビ、塩むすび、ボウルいっぱい採れた、赤や黄や紫色のミニトマト、切り分けた野菜がそれぞれ皿に盛られ、ぎっしり並んでいた。
 トーチバーナーでバーベキューコンロの炭を熾していた父さんはオレに気づくと、
「おかえり、疲れたしょ」
「なんで今日バーベキューなの?」
「ジュース冷えてるから飲みな」
 オレの質問を無視した。母さんもそうだった。ナニかきなくさい。
 氷水を張ったバケツにジュースと、缶ビール。姉ちゃんの分なのだろう。父さんも母さんも酒は飲めない。たまに父さんがビールを飲んで顔を真っ赤にしているくらいだ。オレは両親と同じ下戸であるような気がするけど、なぜか姉ちゃんだけは平気でがぶがぶ飲むのを想像できた。
「手、洗ってくる」と家に入ろうとしたオレに、「いいから座ってなさい。ほら、もう炭もいい感じだから、座ってなさい」父さんは椅子に座るよう促した。オレは、周囲に漂っている空気、これからはじまる家族団欒的なものに、さっそくいたたまれなさを感じていた。
 黙って椅子に座ったオレに、
「もうすぐ来るから」と父さんが言った。
「誰が? 姉ちゃん? あ、姉ちゃんは?」
「だから、もう来る頃だから」
 父さんが言いかけたところへ、姉ちゃんが庭の目隠しになっている薔薇の茂みの向こうから現れた。と、続いて知らない男。低姿勢で会釈を繰り返しながらやって来るその男に、父さんはにわかにあわてて、「あ、いらっしゃい! はやかったねー。座って座って」と、身体を開いてテーブルの周りに並んだ椅子を勧めた。
「飛行機、夏休みだから混んでたでしょ。あ、なに飲みます? ビール? 東京と違ってこっちは涼しいでしょ」父さんが矢継ぎ早に話しかけるたび、異常に痩せて白い肌をした恵比須顔の男は、「あ、はい! あ、はい!」と、細かい会釈を繰り返している。
 粉っぽい中年オヤジ……。オレの第一印象だった。
 玄関から母さんが小走りに出て来た。役者が揃ったようだった。
「和美、じゃあ紹介して?」母さんに促された姉ちゃんは男を手で示し、
「貫井薫さんです」そしてオレら家族に手を返して、「父さん、母さん、弟の楽美」
「楽美くん。会えて良かった」
 粉っぽいオヤジはそれでも、笑うと内側からほっくりとあったかい湿気が滲んでくるようで、不思議な心地好さを感じさせる男だった。
「お姉ちゃんの婚約者さんよ」母さんが言い、
「東京で、一緒に住んでるの」姉ちゃんが言った。
「ああ、そう」
 父さんをチラ見すると、まったくもっておだやかな顔をして火ばさみで炭をいじっていた。ほう、オレ以外は知ってたわけか。意味のねぇサプライズだなおい! 
 無表情の裏で毒づいていると、姉ちゃんが肘で小突いてきた。
「ちょっとー、もっと反応の仕方があるんじゃないのー?」
すると、うふふ、オレ以外がさざ波のような笑いを立てた。
 別にふて腐れているわけじゃない。どういう顔をしていいかわからないだけだ。とりあえず、被っていたキャップのつばで顔が半分隠れているのが救いだった。
 そんな弟を指して姉ちゃんが言った。
「少しね、シャイなとこある子なの」
 皆、やはり一様にうふふ、貫井さんの恵比須顔が伝染したように脂下がっている。
「なにがシャイ……」オレのつぶやきはいそいそと飲みものを配る父さんの「じゃ、乾杯しましょう」にかき消され、オレの持ってるウーロン茶が入った紙コップにも、方々から乾杯、と打ちつけられた。
 キャンプ用の椅子に皆が座ると、父さんと母さんがコンロの網と鉄板に肉や野菜をどんどん載せていった。オレの周りで、団欒、のようなものがはじまってしまった。なんなんだこのノリは。姉ちゃんはやっぱり知らない女のようだし、粉っぽいオヤジが婚約者とか言うし、父さんも母さんもなにが嬉しいのかにこにこしているし、オレはひとり現実のなりゆきについてゆけずくらくらめまいがするようだった。
 と、薔薇の茂みの向こうから、「あら、カズちゃん? まーきれいになって。帰ってきたのかい? あら、もしかしてダンナさんかい? あらー」 と、あらあら連発しながら近所のおばさんが登場した。
 夕涼みの散歩ついでに採ってきた山菜のおすそわけに寄ったというそのおばさんは、やはりあらあら言いながら姉ちゃんに「立派になってー。きれいになってー」と、ふつうに話しかけていた。それを見てオレは、な、なんてナチュラルになりゆきに溶けこんでいるのだ! と、近所のおばさんのスルースキルの高さに畏敬の念を抱いた。ここらの人間なら、姉ちゃんの家出も知っているし、狂犬のようだった姉ちゃんに少なからず吠えつかれたことくらいあるはずなのだ。
 近所のおばさんに話しかけられて脂下がっている姉ちゃんだっておかしい。あんたはこういうとき、まるっきり黙殺するか、「あ?」とドスを利かせた一声で無闇に威嚇するような女だったでしょ! まさかほんとに照れてんのぉ? オレは和やかな周囲を三白眼で眺めながら、黙々と焼きたてのトウキビにかじりついていた。
「いいわねえ。家族そろってねえ」そう言って近所のおばさんは退場した。
 気持ち悪い。偽物だ。けれどもそれは、なりゆきについてゆけないまだこどもの自分が感じているメランコリィだと、オレは言語化できないまでも、観念でわかっているつもりではいた。
 うなだれているオレに最初に気づいたのは、貫井さんだった。
「どうしたの?」
「なんか、吐きそう……」
 小さな声で答えた。食い過ぎた。所在なさに目の前でどんどん焼かれるものを片っ端から口に入れていたのだ。それでもオレはこれ幸い、「もう家に入る」と、その場から逃げた。
 母さんが出してくれた強力わかもとを飲んでリビングのソファで横になっているうち、オレはいつのまにか眠っていた。
 目を覚ますと父さんがテレビで野球中継を観ていた。父さんは身を起こしたオレに気づき、「まだ、気持ち悪いか?」と訊いた。「だいじょぶ」ほんとうに悪心は消えていた。
「もう平気だったら、外の片付け、カズと貫井さんがやってるから、手伝ってやって」
「えー……」オレは面倒くさいありありの態度を示した。
「ラック、まだ貫井さんと、ちゃんと話してないしょ」
「ちゃんと話す? なにを?」きょとんとしている息子に父さんは「おまえは……」とあきれ、「姉ちゃんと結婚するひとだぞ?」と言った。
 オレはてきとうに「あー」と返事をしたけど、父さんがなにを言っているのかよくわからなかった。
 外に出ると、姉ちゃんと貫井さんがバーベキューコンロのそばに並んで座っていた。コンロの炭はまだ赤く、そこだけ温かそうに灯っていた。姉ちゃんが、「もう大丈夫なの?」と言った。「ん」オレは畳んであったキャンプ用の椅子をひとつ開いて、自分もコンロのそばに座った。コンロを挟んで姉ちゃんと姉ちゃんの男と、対峙する。
「結婚するんだ?」
 オレは父さんの言っていたよくわからないお題目をさっさと済ませてしまいたかった。唐突に水を向けたオレに姉ちゃんは少し笑って、
「うん。東京に帰ったら籍入れるの」
 怖気た。初めて見る姉ちゃんのメスの表情。隣の貫井さんはメスの表情に応え、細い目をさらに細くしている。カンベンしろよ。目で会話してやがる。
 シャイな弟の前ででれでれするヤツには爆弾を投下してやる。
「姉ちゃん」
「ん?」
「まだ、家のなかで爆竹したりしてんの?」
 姉ちゃんが中学生のとき、父子喧嘩の報復に父さんと母さんが寝ている寝室に爆竹を投げこんだことがあった。それを婚約者の前で言ってやったのだ。
 姉ちゃんと貫井さんがぽかんとしている。ヨッシャ! オレは心のなかでガッツポーズを決めた。ところが、
「やだー! そんなこともうしてないよ!」
 姉ちゃんは笑い、貫井さんも同じように笑うのだった。
 そうか。姉ちゃんがどんな娘だったか貫井さんは知っているのか。もしかして姉ちゃんがこんな、まともに見えるようになったのは、この、恵比須顔の粉っぽいオヤジの矯正によるものなのか? とたん、ふたりがどんなふうに知り合って現在に至ったか知りたくなった。野良犬を拾ってしまった手前、責任を持って調教し世話する感じだろうか……? オレの想像では、姉ちゃんと婚約者の関係に、愛、は埒外だった。
 爆弾の不発に鬱屈したオレは次の手に出た。
「うちに泊まるの?」貫井さんに訊ねた。
「いや、僕は、札幌にホテルとってあるんです。仕事の出張も兼ねてるので」
「ふーん。よかった」
「いやな子ね」と姉ちゃんが言った。
「だって、他人だもん」
 姉ちゃんの、はあーっ! うんざり、といったため息。貫井さんは困り笑いのような顔で、
「楽美くん」
「はい?」
「その髪、どうしたの?」
 さっき寝ていたときキャップを脱いだままだった。が、まさかこの空気のなかで訊かれるとは。オレが黙っていると、貫井さんは優しい声色でこう言った。
「いや、パンクな髪型しているから。かっこいいね」
「あんたに関係ねぇんだよ」
「てめえ……」
 低くうなった姉ちゃんの炭火に赤く照らされた顔に、憶えのある血に飢えた野犬を見た。コワイッ! 瞬時にオレは少年ラックに後退した。
「なにも訊くなって母さんに言われたから黙ってたけど、みんなあんたにどんだけ気遣ってるかわかってんの? 甘えんのも大概にしなよ」
「ごめんなさい」
 速攻で謝ったオレを見て、貫井さんは、あっはっは、と声をあげて笑った。すると赤く染まった野犬はみるみるもとの、オレにとってはまだ馴染みのないただのお嬢さんのような顔に戻って、貫井さんと一緒に笑った。
 オレは、あ、そういうことなのか、となんとなく得心がいった。笑った姉ちゃんは野犬になる前より、いくぶん機嫌の良い顔になっているのだった。
「バーベキュー、いまでもしょっちゅうやってんの?」
「は? これは、姉ちゃんと」オレは言いづらく詰まってから、「貫井さんのためでしょ」と答えた。
「あー……。そうなの……」
 夜風は冷たく、寒いくらいだった。虫の声が周りで響いて、貫井さんが「いいねえ」としみじみ言った。
「さ、片付けよっか」
 姉ちゃんが立ちあがった。
 片付けを済ませ風呂からあがると、通りかかった母さんの部屋のドアが開け放してあった。なかからお鈴の音が染みるように響いた。チラと覗き見た。姉ちゃんと貫井さんが、じいちゃんとばあちゃんの遺影に手を合わせていた。母さんもいた。線香の煙と母さんの声が流れてきた。
「戒名も位牌もいらないっていうのも、ばあちゃんの遺言書通り。あとはご献体からお骨が戻ってくるのを待つだけ」
 家に仏壇はない。母さんの部屋の小さなテーブルに、母さんの育てた花を小さな花瓶に生けて、ばあちゃんが使っていた湯呑に水を入れ、じいちゃんの位牌と、じいちゃんとばあちゃんの写真が立ててある、それだけ。
「そういう、つつましい最期って、理想だなあ」と姉ちゃん。
「なかなかできることじゃないよ」と母さん。
 リビングから、父さんが観ているテレビの音。野球中継は終わり、洋画の吹替になっていた。
 いずれ身内になる予定の他人に、うちはどういうふうに映ってるんだろう?

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