【連載小説】ノイズ(仮) 第十二回


見つめあった。わかった。目だ。目が、ノイズの正体だ。目だけが大人を通り越して老人になってしまっている。
オレは、触れたかった。オレのそういういやらしさに、佐々は気づいていただろうか。



 補習終わりに椎名に誘われたオレは懲りずにショッピングモールのフードコートでハンバーガーを食べていた。
「ショウちゃんと、したさ」
 のこのこついてきたオレが悪い。ハンバーガーを置き、手で口をおさえた。
「なに? そんなびっくりした?」椎名が覗きこんできた。
 歯型のついたハンバーガーの断面と昨日見たビニ本の接合部が重なった。口のなかの肉とパンをこれ以上咀嚼できない。オレは吐きだしたいのを我慢してスプライトで流しこんだ。
「だいじょうぶかよ?」さすがに椎名も心配そうにしている。
 まだ口のなかに肉の匂いが残っている。再びスプライトを含んでグジュグジュグジュッ! うがいしたあと飲んだ。
「うわっ。きたねえ!」
「これ、クソマズ」オレは半分も食ってないハンバーガーを包み紙のなかに隠した。
 椎名はおかまいなしに話をはじめた。そう、それでいい。涙目はクソマズハンバーガーのせいだ。
 たまたまショウちゃんの家に誰もいないときがあったのでチャンスとばかり致したという、しょうもない話を聞きながら、オレは氷だけになった紙コップの底をストローでずるずる吸い続けていた。
「ヤベー、思い出したらパキッてきた」
 オレはいますぐ帰りたく立ち上がった。
「うそうそ」言いながら椎名はオレの腕をつかんだ。
 うそじゃねーだろ、腰引いてんじゃん。ほんもののバカかよ。オレが仕方なく腰をおろすと、椎名が言った。
「それっきりなんだよなー。家は親バレが面倒くさいべ」
「『Z』とかいうラブホあるじゃん。そこ行けば」
「そんなもんいちいち行けるかよ。金ねーよ。高けーべ」
「ふーん」オレはそこのウェルカムスイーツとやらを食ったけどね。とは言わず、
「じゃあそこらへんでコスってろよ」
「ショウちゃん、外はやだってやらせてくんねーもん」
 バカめ。食いかけのハンバーガーはゴミ箱に捨てた。椎名とはもうハンバーガーは食わないと決めた。

「なんか、疲れてないか?」
 佐々に言われ、自覚した。そうか、オレ、オチてんのか。椎名の話を聞いて?
 作業は母屋の二階へ移り、仏間だった四畳半を掃除しているところだった。
「元気ないように見えるぞ」
 掃除機をかけながら言った佐々の口もとの腫れは昨日よりひいていたけど、唇にはまだ生乾きのかさぶたが痛々しかった。
「だいじょうぶっすよ。動きづらい恰好だから、調子でないだけっすよ」
 椎名と別れたその足でここに来たオレは制服のままだった。
 佐々は掃除機のスイッチを切ると、「ちょっと待ってな」と階段をおりて行った。
 ほんと、だいじょうぶ……。ひとり口のなかで言いながら、もうひとつの四畳半のほうへ行った。箪笥になにか残ってるかもしれない。抽斗のなか、懐かしいあずき色が目に飛びこんだ。それは、ばあちゃんが畑仕事のときによく履いていたジャージだった。仕方なくそれに履き換えて戻ると、「洗濯してあるから」と佐々がTシャツを渡してきた。車から持ってきたらしい。
Tシャツはオレの肩幅には余って、ぶかぶかのオーバーサイズだった。佐々が少し笑ったのを、オレは見逃さなかった。しょせん姉ちゃんにたくましくなったと言われただけ。Tシャツごしにもわかる佐々の精悍な肉体には及ばない。
 観音開きの壁収納にぽっかり空いたスペースはじいちゃんの仏壇があったところだった。その仏壇はばあちゃんが二年前「終活」と言って処分したのだった。それからはいまの母さんのように、居間の飾り棚の上に位牌を置いて花と水を供えていたのだった。
 オレはなにも入っていないそこを丁寧に拭きながら、掃除機をかける佐々をちらちら見た。これ見よがしに、と映ってしまう。「そっちが誘ってきたくせに」と、痴漢が歪んだ持論を吐く気持ちがわかるようで、自分が嫌になる。
「今日、夕めし食いに行くか?」佐々の自らの引力に無自覚な発言。
「ええ? いいすよ。悪いす」オレは両手をぶんぶん振った。
「遠慮すんな。言っとくけどファミレス程度だぞ」
「オレ、こんな恰好だし」
 身体に合わないぶかぶかのTシャツと膝あてで繕ってあるあずき色のジャージを穿いたオレが、佐々とファミレスにいる図。それを知り合いに見られたら面倒くさい。
「制服に着替えれば? それもまずいか。高校生つれまわしてるみたいで」
 引力に引きこまれたオレは賭けに出た。
「あの、それじゃあ、ここで食べませんか?」
 都合の良過ぎる展開は不安になる。
 暮れかけた空の下、宝の山から採ってきた食材を、佐々とふたりで納屋のそばにある畑作業用の水道で洗っていた。やっぱり都合が良過ぎて少しこわかった。「いろいろあるんで、良かったら」そう提案したけど、まさかうまくいくとは。
 梅酒のグラスで乾杯し、ふたりだけの夕餉がはじまった。
 大量の漬けこみ瓶のなかから、三升漬とニンニクのしょうゆ漬を小皿に出した。炒めて塩コショウしたアスパラ、薄口しょうゆで炊いたフキ、ミツバのおひたし、ミョウガのてんぷら。ジャガイモをふかし、三升漬をそえた。食器も調味料も、すべてこの家にもともとあったもので事足りた。ほんとうは出汁も昆布と鰹節でひきたかったけど、時間がかかるので顆粒の出汁の素を使ったのは残念だった。
 縁側に並べたそれらは、オレが執拗なほど丁寧に洗った食器たちに盛られている。古い鍋や食器の、レトロ特有のかわいいおもちゃっぽさ、縁側というロケーション、庭に自生していた食材でこしらえた惣菜。なんだか豪勢なままごと遊びのようだった。
「なんか、楽しいな」佐々は言った。
「そうすか?」とぼけたけども、だいぶ楽しくなっていた。心地いい夜風も、さっき隠れて梅酒をグラス一杯ストレートで呷ったのも、少しずつ作用していた。
「イモ、甘くてうまいな。この三升漬って、手作り?」
「ばあちゃんが大量に作ってあったの見つけたんです。イモも、ほら、ほんとはこんなん」
 オレは調理前のイモを見せた。しわしわに縮んで野放図に芽が伸び放題になったそれは、萎びたきんたまからなぞの植物が伸びている悪夢の奇病のようだった。
「こんなのが食えるのか」
「納屋に大量に残ってたんで。きっとばあちゃんが老人ホームに入る前に箱買いして、そのまま納屋で越冬したんですね」
 佐々がやはり硬めの海綿のような手触りのイモをためつすがめつしている。
「芋の干物みたいなもんらしいです。うまみが凝縮されるんだって」
 目の前でうまそうに食う佐々を見ていると、胸の奥の怒りの球体はきゅっと小さくなって、ぴかぴか光る玉になった。幸せだ、と思った。
「訊いてもいい?」湯気の立つ黄色いイモにかぶりついた佐々は、痛てて、とまだ腫れの残る唇をさすった。
「久野早季さんは、お母さんのほうのおばあちゃんなの?」
「そうです」
「だよね。君の名字と違うもんね。ふーん……」佐々はなにか考えているようだった。「や」と一拍おいて、
「母方のおばあちゃんの家が近いって珍しいんじゃない?」
「さあ、どうなんだろ? ただ、父方のじいちゃんばあちゃん死んでから、親父は自分の親戚と絶縁したんですよね。それと関係あるのかもしれないけど」
 佐々と酒を交わし語りあう状況に高揚していたオレは、舌が滑らかになっていた。
「絶縁? きょうだいとかも全部ってこと?」
「オレは小さかったから憶えてないけど、お袋が、姑と小姑にエゲつないくらいイビられてて。そんで親父がキレて。繋がりは全部切ったって」
オレは自然に「親父」「お袋」と呼んでいた。この場にふさわしい呼称だと思った。
「親父、ばあちゃんの葬式のあと、家にあった仏壇ハンマーで叩き壊したんすよ」
「どういうこと?」煙草に火を点けながら言った佐々の腫れた唇から、紫の煙がふーっと夜気に溶けた。
「葬式から帰ってきて喪服の黒いスーツのまま、いきなりハンマー持ちだして仏間に籠って、ものすごい音させてなんかやってるんすよ。オレこわくて見に行けなくて。そしたらすでに半分壊れた仏壇を、こう、」
 と、オレは大きなものをおんぶするようなジェスチャーをして見せ、
「担いで庭に運びだして……」
 父さんが振りおろすたび、砕け散る金細工や木片。つぶされた仏壇の残骸が、ただの木屑になるまで繰り返していたのを、幼稚園児だったオレは見ていた。あのとき、母さんと姉ちゃんはどうしていたんだろう?
「だからうちには仏壇ってないんです」
「そんだけ、奥さんのこと愛してるってことか」
 愛してる。自分の両親にあてはめるとすごい浮世離れ感!
「じゃあ、君にとっては、じいちゃんばあちゃんはここだけなんだ?」
「じいちゃんはオレが生まれるずっと前に死んじゃったんで知らないんだけど、オレはばあちゃん子でした」
「婆っ子は三文安って言葉知ってるか?」
「知らない」
 佐々はにやにやしていたけどオレは気にならなかった。
「ばあちゃんがぼけはじめたとき、最初お袋が泊まりこんで世話してたんだけど、それも限界がきて、うちで一緒に暮らそうって言ってたんだけど、まだらぼけで正気に戻ることもあったばあちゃんが自分で『老人ホームに入れてくれ』って、お袋に頼んだって。オレ、なんもしてやれなかったのが悔しかった」
 酒のせいか、簡単に自分の語りにしんみりとしてしまった。佐々も同じように目線をさげて梅酒を飲んでいた。
 と、「そうだ、忘れてた」佐々が足もとにあった青い瓶を掲げた。瓶のなか、黒く映る液体が流動していた。佐々はジーパンのポケットから出した十徳ナイフのコルクスクリューをねじこみながら、「ホテルで出してるワイン」と言った。昨日と違い包帯のないはだかの右手は、指の付け根の関節が紫や茶色のでこぼこになっていた。オレはコルクを引き抜く腕にむりむり浮き出る筋を見つめていた。
 佐々はグラスに注ぎひと口含むと、うん、と小さくうなずいた。オレも飲んでみたけどよくわからなかった。ふいに、佐々が言った。
「ファーストフードとか、うまいけど、毎日食べてるとバカになりそうだよね」
「は?」
「久しぶりに手作りの料理食って思った。前の女が料理上手だったんだよね」
 キタ! オレは自分の家族の話なんかどうでもよくて、佐々のことが知りたかった。
「それがさ、最初は便利だし良かったんだけど、だんだん重くなってきてさ。手のこんだ料理が出て来るたびに、なにか期待されてるんじゃないかって。冷蔵庫のなかはいつも食いもんで溢れてるのに整然としてた。作り置きのおかずに日付を書いた付箋したり、ジップロックに入れて冷凍したカレーとか、冷凍のご飯とか、解凍して弁当に詰められるようになってる出汁巻き卵とか……。キッチンにはいつも、下ごしらえ済みの、あとは調理するだけの食材があってさ。帰ったら、すぐできたてのうまいもんが出た」
「いい彼女すね」
「でもそれでどうしろっていうの? どうしたいの?」
 結婚……? 言おうとしたけど、なんだか話が難しい方向へ向かっている。友達との猥談や椎名の話を聞くのとは次元が違った。脳にぎゅっと力を入れて、身の丈にあった回答を絞り出す。
「料理が好きなだけじゃないすか?」オレはうまさのわからない赤ワインをぐびぐび飲んだ。
「ほう?」
「だって、オレだってそうだもん。趣味なんすよ。整えるのも、自分が気持ちよくなるためで、趣味の一環なんすよ。現に、オレにとってここの台所なんて聖域っすよ。サンクチュアリっすよ。誰にも邪魔されたくないし、趣味の世界に没頭したいから、誰かに口出しされること、オレは良しとしないっす」
 なんでオレが女の肩を持ってんだ? 自分でも謎の力説をしているオレを見て、佐々は吹きだした。こども扱いされている……。
「佐々さんて、いくつなんすか?」
「いくつに見える?」
「三十……、一、二、三、四、五、くらい?」
「てきとうかよ」
「でも二十代って言われれば、ギリギリ」
「見えなくもない?」
「いや……」佐々を初めて見たときのノイズ。あれは服装のせいだけではなかった。いま、間近で見ると、
「顔が……」
「老けてるって?」佐々はガクッと大げさに肩を落として見せた。
 オレはあわてて「違うんすよ」と言った。どう説明していいかわからなかった。話を戻そうと「ガチで何歳なんすか?」と訊いた。
「いいよ、もう。想像にまかせるよ」佐々の拗ねたような口ぶりと、甘苦く低い響きとのギャップがおかしかった。オレは笑いながら、「三十? 三十一? てかもう後半?」としつこく絡んだ。勢いこんで「あ! まさか、四十オーバーとか?」
 ぴしゃっ!
突然、二の腕を叩かれた。
「蚊」佐々の掌にべっとり血と一緒につぶれていた。
「たしかムヒがあったわ」佐々は立ちあがり、車のほうに歩いて行った。ビビった。おしおきかと思った。夜空に雑木林の葉擦れがさわさわしていた。さわさわ、畏怖していた。
 戻って来た佐々がオレの二の腕にムヒを塗る。
「あちこち刺されてるじゃん。刺されやすい体質か?」
 佐々がオレの身体を点検している。ムヒを塗っている。オレは黙ってされている。佐々の汗の匂い。清涼感とかゆみが混ざった快感。首筋に染みた。たまらなくなった。
 突然立ちあがったオレを、佐々が不思議そうに見あげた。
「オレ、そろそろ帰らないと!」縁側に並んでいるものを盆に重ね、台所に運びはじめた。
「片づけるの、明日でいいんじゃねえか?」佐々が言った。
「オレ、ひとりで片づけるんで、帰ってください」背中を向けたまま言った。
「や、手伝うよ」そう言って佐々が立ちあがる気配を感じ、
「いいから!」
 オレの大きな声に、しん、となった。さわさわしていた。
「じゃあ、帰るけど」身体が跳ねた。佐々が音もなく後ろに立っていた。
 ほんの二、三秒だった。佐々と見つめあった。わかった。目だ。目が、ノイズの正体だ。ばあちゃんもこんな目をしていた。目だけが大人を通り越して老人になってしまっている。
「酒入っているから、車、置いてってもいいかな?」
 そう言って、佐々は大きな手でオレのボウズ頭をつかむように撫でた。オレはまだ佐々のTシャツを着ていたけど言い出せなかった。佐々は縁側から出ていき、砂利を踏み歩く音が遠くなっていった。
 小一時間は歩かないとタクシーのつかまるような道に出ないが、電話して呼ぶなりなんなりするだろ。オレはもう、全然楽しくなかった。興醒め。おだち過ぎ。会ったばっかりの他人と酒飲んでぺらぺらしゃべって、あー恥ずかしい!
 帰ると母さんが待ち構えていた。
「遅くなるなら電話しなさいよ」
 オレはてきとうに返事して風呂場へ向かった。酒の匂いを洗い流したかった。シャワーを済ませ、すぐ自分のベッドで丸まった。
 オレは、触れたかった。オレのそういういやらしさに、佐々は気づいていただろうか。


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