【連載小説】ノイズ(仮) 第五回


なんだか、消えたいなー、と思った。死にたい、とは違う。別に死にたくはない。けど、自分以外になりたい。アタラシクナリタイ。新しく? 新しいってなんだ?


 磨きあげてぴかぴかになった廊下や、ものがなくなり見渡すように広くなった畳敷きの居間を見て、姉ちゃんが「もうこんなにきれいにしたのぉ?」と感嘆の声をあげた。
 朝、母さんに車で送ってもらうついでにガレージの奥でほこりをかぶっていたCDラジカセを持ちだしたところを姉ちゃんに見つかってしまったのがいけなかった。
「なつかしー。これ、むかしリビングに置いてあったやつじゃん」言いながら当たり前のように後部座席に乗りこんできたのだった。
「ついてくんなよ」
「いいじゃん。すぐ帰るから」
 姉ちゃんのてきとうな返事に、ウゼー、と思った通り、オレが作業をはじめても姉ちゃんと母さんはきれいになった縁側で勝手にくつろぎはじめたのだった。
 貫井さんは札幌にある出張先(結局、オレは姉の婚約者がなんの仕事をしているのか訊けないままでいる)で仕事らしく、姉ちゃんは夜までひまなのだという。知るかよ。かんけーねぇじゃん。オレが汗だくになって庭の草刈りをしているのを見ながら、姉ちゃんと母さんは優雅に駄弁っている。
「なんか、お母さん、満たされた気分」
「なにそれ。どうしたの」
「和美が貫井さんつれて来て、家族みんなでバーベキューとかして、そういうふつうなこと、ないと思ってたから。まともなこと。だから、満たされてるの」
「そっか……」
 作業に没頭しているふりをしていたオレにも、母さんの言葉は特別に聞こえた。……ふつうなこと。オレは、そういう満足を母さんにさせてやることができるだろうか。
「やりがい見出してんじゃん」姉ちゃんが声をかけてきた。
 図星。黙って手を動かしていれば結果が目に見える作業への愛着。見透かされシャクなオレは、
「別に見出してねーし。つーかひまなら手伝えよ」と言ってやった。
「安定期入ったらね」
「なんだよそれ……」
 またてきとうな返事しやがって。
 ……と、オレの裡がざわざわ騒いだ。あまりの不穏さに思わず顔をあげ母さんを見ると、あー、言っちゃった、って感じのおどけた顔。
「赤ちゃんいるの」姉ちゃんが言った。
「げぇ! まじでェっ?」
 とんでもなく忌まわしい事実を知らされたような気分に、素直に反応してしまった。そんな弟を見て、姉ちゃんは脱力したように「おいおい……」と言った。
「虐待とか、しそう」オレは言った。
「そういうこと言う?」
「ふつうに産む流れってこと?」
「そうだよ」
 ドン引き。まだ平たい姉ちゃんの腹をうたぐり深く見ていると、
「たしかに虐待は巡るとか聞くけど、父さんがしたことは……」
 言いかけて姉ちゃんがフリーズした。
 なんだ? 虐待は巡る? どっかで聞きかじった知識でエラそうに一席ぶつつもりが容量パンクしたのか? 
 オレが再び作業に戻ると、
「とにかく」姉ちゃんが再起動した。「ヒトがヒトを育てるのは大変で、みんなそんなお上品な教育を受けていたわけじゃないと思う」
 なにを言っているのかまったくわからないオレは、伸びた草を握って根もとから刈り取る、を繰り返していた。

   *

久野 早季 様

前略
 弁護士を通さないとエナと連絡が取れない事になりました。
 エナの様子や仕事の事など報告させていた佐々とも、何故か連絡が取れません。
 仮釈放まで三ヶ月程ありますが、身元引受人が決まらず困っています。釧路の方で水商売をしている旧くからの知り合いが申し出てくれたのですが、遠方で大変だから止めました。
 勝手ながら、引受先はお借りしているアパートに伺える近場でなくてはなりませんから。どなたか、そういう方はいませんでしょうか。
 近況ご報告まで。又お便りさせて頂きます。
                         草々
平成十年二月十五日                    
                       明石 多果夫

   *

 夏休みになって一週間が過ぎても、オレの携帯電話に友達からの履歴はなかった。それでもオレにはこの家がある。掃除をして次の段取りを決めて予定を立てて没頭できる作業がある。ばあちゃんちは救いだった。
 友達から誘いの声がかからないのは、このルックス、髪が理由なのは知っている。自分では変わったのは髪型だけだと思ってたけど、見た目の変化の影響は甚大で、そばにいるだけで変な目で見られてしまうらしい。一緒に購買にパンを買いに行くのも拒否られた。いまとなっては、そんなヤツら、つまり携帯電話のアドレス帳に名前が並んでいるだけのヤツらと、切れて良かったと思う。
 それなのに。作業中、ふっと例の、間は、滑りこんでくる。魔のタイミング。思考が忍びこんできて、手が止まってしまう。
 ヤツらと腹を抱えて笑い合ったり、くだらないことに熱中したり。ささいでくだらないことほど、胸の奥の怒りの球体が膨らんで苦しくなる。それをなだめるために、オレは作業中、音楽を聴くことにした。耳から入れた音で、魔が入りこむ余地がなくなるくらい頭蓋を満たしてやるのだ。
 CDラジカセにTSUTAYAで借りてきたCDをセットする。洋楽のロックコーナーでてきとうにそれっぽいジャケットを選んで借りたCDたちは、音数が多くひたすらやかましく、どの曲も同じに聴こえるような、良し悪しのわからない、いくら聴いても意味を結ばない、まくしたてる外国語歌詞が好ましかった。大音量で音楽を聴きながら仕事に没頭するのが快かった。
 そんな調子で作業しているところに、またもや母さんがやってきた。
「いくらなんでも、うるさ過ぎなんじゃないの?」
 近隣に家がないからといって、と言っているのだった。うるさいのには意味があるのに。そりゃ携帯電話に音楽入れてイヤホンで聴いたっていいけど、汗みどろの作業中耳に突っこむのはうっとうしい。しかしそういう諸々を説明するのも面倒くさい。オレは大人しく少しボリュームをさげた。
「なに。なんの用」
「んー。別にー」
 母さんは昨日と同じく縁側に腰かける。なんだよもー。帰れよ。
 居間の絨毯を洗っている途中だった。庭の下生えの上に広げた絨毯に、畑作業用の水道のホースから水をかけ洗剤を撒いてたわしで汚れをこする。洗い流すとくっきり、青を基調とした織り模様が現れた。
 オレが納屋から物干し台と竹竿を持って来て庭の真ん中に組み立てていると、母さんは刈り揃えられた芝生を確認するように、うろうろ歩きだした。
「なんでいるの。姉ちゃんは」
「今日は、貫井さんと札幌観光だって」
 組み立てた物干し台に洗った絨毯をかけると、竹竿が折れそうにしなった。水を吸いこんだ絨毯は重く、裾からぽたぽた水が滴っている。
母さんは「いいじゃん」と言った。「たまには。母さん、なんにも手出ししないから」
「いいけどさー……」しぶしぶ言うと、母さんは「ラックさー」と話しかけてきた。手ェ出さないけど口出してくるじゃん! オレはイラついたまま、「なにさ!」と返事した。
「ああいうのは、だめだよ」
「なに?」見ると、母さんはまだ下を向いたままうろうろしていた。
「ああいうときは、お姉ちゃんに、おめでとうって言わなくちゃ」
 ゆっくり歩く母さんの背中。
「ラック、もう少し、カズにやさしくしてあげて。あんた、もっとやさしくて、かしこい子だったしょや。母さん、がっかりするしょや……」
外国人の喚き散らすような歌声とかき鳴らされるエレキギターの旋律のなか、母さんがしょんぼり立っていた。
「ごめん……」自分でもあんな態度どうかと思う。でも、止められなかった。忌まわしいなんて思っちゃうオレがどうかしてるんだ……。言えない言葉に、喉の奥がぎゅっとして、油断すると泣きそうだった。
 急に母さんがくるっと振り向いた。オレはあわてて顔を逸らした。目鼻が赤くなっているのが自分でもわかっていたから。
「ねえ、なんであそこら辺だけ草残してるの?」
 母さんが一画を指して言った。そこは畑のあった部分なので、納屋にあった農機でいっきに耕してしまおうと思って残しておいたのだった。作業しながらそう説明すると、
「ちょっと見てきていい?」母さんはすでに腰を屈めて物色しはじめていた。「これ、ギョウジャニンニクだわ」言いながら雑草を掻き分け根もとの赤い草をつみとっている。
「えー。それ食えんの?」
「火通せば大丈夫よ。あ、ちょっとちょっと、これ見て」母さんが足もとを指した。近寄って見ると雑草の間からにょきっと伸びている。アスパラだった。
「そこら辺あんま歩き回らないでよ!」駆け出した母さんは家にあがりこみ台所からざるや竹かごをいくつか抱え、また畑だった一画へ戻ってきた。
 TSUTAYAの「ハードロック/メタル」の棚で発見したジャケットの、頭に包帯を巻いた男が医療器具のように改造したフォークの先端を両目に装着させられ咆哮しながらガラスを突き破っている、説明だけだといかにもこけおどしの恐ろしさを煽る悪趣味みたいだけど、実際は繊細で美しい、真摯に映る写実的なイラストに惹かれて借りたCDから流れる少し高い男性ヴォーカルと、草叢にしゃがみこんでいる母さんのセッション。
「苺が生ってる!」
 Dynamite!
「これ、ミョウガの花じゃない?」
 Dynamite!
「立派なウド!」
 You’re Dynamite!
 雑草の隙間のたくましい成長ぶりが、園芸好きの導火線に火を点けてしまったようだった。母さんは茂った下生えを掻き分けてはうずくまるを繰り返し、それは日暮れまで続いた。
 オレは今日の目標だった居間の家具やストーブを磨きあげる作業を満足いくところまで終わらせた。
 母さんの様子を見に行くと、ざると竹かごに、雑草のなかから丁寧に選りとられたいろいろがこんもりと収穫してあった。
「アスパラ、ニラ、これはウド。フキ、ミツバ、ミョウガ、シソ。あー、今日来て良かったわ。あんたなんにも知らないで、全部刈っちゃうところだったんでしょ?」
「そうだけど」
「もったいないじゃないの」そう言って母さんは、畑についてはそれらの植物を避けつつ周りの雑草をむしるだけにするよう指示してきた。
「はー? めんどくせーよ」
「じゃあ母さんが毎日来てやってあげようか?」
 そっちのほうが面倒くさいわい。と返事しないでいると、
「ここは手をつけなければいいじゃないの。そしたら母さんたまに来てまたアスパラとか採っていくから」
 オレはしぶしぶ折衷案に従ったけれど、収穫した量に、「すげぇ。ほっといてもこんなに育つんだ」とあらためて素直に感心してしまった。
「これで今日の晩ごはん作れるわ」母さんが言いだした。
「これで? これだけで?」
「アスパラ、バターで炒めるでしょ、シソとミツバとミョウガはそうめんの薬味、フキは煮物、ウドは……これはもう育ち過ぎてあくが出て食べられないかもしれないけど、まあ、酢味噌で。それからニラはニラ玉でいいじゃん」
「ニラ玉いいねえ!」甘辛しょうゆ味のニラ玉は、オレの好物だ。
「じゃあ玉子切らしてたから、それだけ買って帰ろうか」
「オレ作るよ!」
 と、母さんはオレを見て、
「ラックのそういう顔、久しぶりに見た」
 お互い様だと思った。また、喉の奥がぎゅっとしそうになった。

 竹かごに盛られた苺やニラやアスパラが膝のうえ、車の振動に震えている。「宝の山」という言葉がオレの裡に浮かんだ。宝の山を手に入れた。アガる。植物と土の匂いが漂う車で、母さんとオレはなんだか少し浮かれていた。
 TSUTAYAも入っている巨大な複合施設型ショッピングモールに着くと、オレはメッシュキャップを被り、「待ってて」と車から飛び出しだだっ広い駐車場を要塞のような建物に向かって走った。店内をそのまま小走りで玉子のある食品売り場へ向かっていたときだった。
視界の隅に映った。
 ヤツらがいた。携帯電話のアドレス帳の友人たち。ヤツらは季節の催事スペースにぎっしり並んでいる花火を物色していた。
 宝の山に泥水をぶっかけられたようだった。
平気だ、と自分に言い聞かせた。まだ軽いかすり傷だ。だから、見つからないように迂回すればいい。
 オレは方向転換して遠回りの経路へ歩きだした。それなのに。
 絶望。
 方向転換した先に、ヤツらのひとり、椎名がいた。一目瞭然、気張った格好。買ったばかりと思しきかちかちのデニムに、ウォレットチェーンなんぞ。オレは椎名がそんなものをつけているのを、初めて見た。
「おー、なにしてんの」調子コイた歩き方でチェーンをじゃらじゃら鳴らしながら近づいてきた。
「買いもの」つぶやくと、玉子を買って母親の待つ車に戻るという行為がとてつもなくみじめな気がした。そのうえ、わざわざ迂回したせいで嘘をついているようなうしろめたさ。なんでオレがこんな気分に! 
 オレはキャップを目深に被り顔を隠した。
「これから花火するの。ほら、こないだの女子高のコたちも一緒に」
「ふうん……」
 それは、オレが誘われなかった終業式の日の放課後、カラオケに行ったメンバーのことらしかった。「ほら」じゃねーよ。オレは知らねーんだよ。
「よかったらくる?」
 言葉とはうらはらに完全な拒絶がありありと匂った。
 もうだめだ。かすり傷どころか、えぐられてしまった。
「や、いい……」やっと言い、椎名に背を向け、足早にその場を離れた。ほんとうは全速力で走りたいけど、逃げたと思われたくなかった。結果、競歩のように腰が左右にくねくね揺れる奇妙な歩き方になってしまった。
 遠くから前のめりになって腕をふりふり腰をくねくねものすごい速さで接近してくるオレに気づいた母さんは、なにごと? と運転席で身を伸ばした。
 くねくねするたび、情けなくて涙が出そうだった。

「頭痛いから寝る」家に着くなりベッドにもぐりこんだ。服についた土の匂いと、布団に染みたいろんな体液、こもった体臭。普段は意識することもない匂いを、布団のなかでスーハーした。
 手ぶらで戻ったオレに、母さんはなにも言わなかった。オレが言わせない態度をとっていたから。
 なんだか、消えたいなー、と思った。死にたい、とは違う。別に死にたくはない。けど、自分以外になりたい。アタラシクナリタイ。新しく? 新しいってなんだ? 
「もう寝てんの?」
 姉ちゃんの声と乱暴にドアが開かれた音。
 オレは布団のなか身を固くした。暴れる姉ちゃんの凶行を震えて聞いていた少年ラックのように。布団ごしに頭を指で突つかれるのを感じた。オレはそのまま固まっていた。「おい」ドスの利いた声がして、抵抗も空しく姉ちゃんに力づくで布団を剥がされた。この女には弟が昔日を思い恐怖しているなんて思いもよらないのだろう。
「今日さ、薫さんと札幌観光行ってきたんだわ。で、これさ」
 姉ちゃんは手に持っていたものを掲げ、
 どつかれる! オレは反射的に身を縮め両手で頭を庇った。
「なに……?」
 姉ちゃんはやっと、オレが怯えていることに気づいたらしかった。思い知れ。自分のしてきたことが弟にこんな反応をさせているのを。
 それなのに姉ちゃんはふふっと笑うとやさしい声色で、
「大丈夫だから」
 と持っていた箱を差し出した。電動のバリカンだった。
「おいで」
 庭の花壇の真ん中にある鉄製のアーチの下に、バーベキューのとき使った折り畳み椅子があった。クレマチスの絡むアーチのスポットライトが、折り畳み椅子をぽつん、と丸く照らしていた。ライトは暗くなってからも作業できるよう、母さんが設置したものだった。
 夜のお花畑でスポットライトを浴びたオレ。メルヘンチックな物語に闖入した河童。
 なにをされるかわかってたけど抵抗しなかった。
「まかしとけって」
 姉ちゃんはなんの脈絡もなくそう言うと、バリカンのスイッチを入れ、オレの頭を刈りはじめた。
 黙ってされるがままになっているオレの裡に、椎名たちが花火をしている光景が爆ぜた。いつもよりめかしていつもより調子コイて艶めかしい予感のなか海綿の充血をなだめつつ火花を散らしてはしゃいでいた。
「よし」と頭皮をかいぐりまわされる感触に相当短く刈られたのがわかった。渡された手鏡と、姉ちゃんがもうひとつ持って合わせ鏡をした。後頭部の渦巻いたつむじと、ボウズ頭のオレが映っていた。
 姉ちゃんは満足げに「かわいいかわいい」と言った。髪型はたしかに、オレにふつうに似合っていた。
 もうたえられなかった。鏡のなかの顔が歪み、涙が溢れ、
「うん、いい、けど、いやだ」声を出すとぽとぽと落ちた。
「なんでよ。なに泣いてんのよ」
「わかんない」いますぐ姉ちゃんの手からバリカンを取りあげ遠くに放り投げてしまいたかった。
「口で説明しろよ。おまえ、赤ちゃんじゃねえだろ?」
 赤ちゃん。姉ちゃんの胎にいるもの。いまはまだ平たい腹を見るに、現実味はない。
「姉ちゃん、ほんとうに赤ちゃんいるの?」
「ほんとだよ」
「すごいね」
「なにが」
 自分がなにを言いたいのかわからない。自分でもなにが? と思う。
 姉ちゃんはめそめそ泣き続けるオレを見てため息をつき、
「あんたって、わかんない」

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