【連載小説】ノイズ(仮) 最終回
ほんとうのところ面影はあいまいで、あの夏焦がれた大人の男の手で柔らかい生き物を包む俺にとって、もうどうでもいいことだった。
四.ひと夏の経験なんてアタラシクなったオレにはもうどうでもいい
夏休み最後の日、オレはひとりで「まだ知らぬ生臭さ」を訪ねた。初めて入るラブホテルで、エントランスの受付に嵌る曇りガラスの窓に向かって「佐々さんいますか?」と訊ねた。
「サササン?」年配の女性らしき声が聞こえた。
窓の下のほう、片手が入るくらいの四角い穴から、佐々にもらった名刺を見せた。
「たしかにうちの会社の名前だけど、うちの名刺ではないね。これ、どこで……」窓の穴から伸びた指が名刺を捕らえるすんでのところで、オレは走って逃げた。
自転車に飛び乗ったオレは、図太くなりたい、図太く、図太く、とペダルを漕いだ。
あの朝、酒まみれで身体中べたべたのまま帰ったオレを見て、母さんは諦めたように言ったのだった。
「あんたのこと、自由にさせてやれってカズが言ったのよ。ラックは大丈夫だから、そんなに心配いらないって。なんでか知らないけど自信満々に言うから、それに賭けるわ。そっちのほうが楽だからね」
そして母さんはこう継いだ。
「カズを見なさいよ。全部ここに置いて、いま、幸せそうじゃない。それでわたしたちまで幸せにしてくれてるんだから、図太いことは悪くないのよ。あんたも図太くなんなさい」
図太くならなければ。容赦のないものがやってきてまた怒りの球体が膨らんできたら、ぶっつぶすまでよ。だってそればかりにかまけてるなんてつまんねーだろ? まじで!
新学期がはじまった。
椎名とは、オレが素直に謝っただけで簡単にもとに戻れた。
夏休みになんの連絡もくれなかったヤツらとも、なにもなかったようにつるんでいる。もとに戻っただけなのか、新しくはじまったのか、知らない。オレと椎名がぶざまな殴り合いをしたとき、ヤツらは止めに入ってくれた。その事実があるだけで、いい。
体育の授業後、更衣室で椎名はまず携帯電話をチェックする。ショウちゃんからの履歴があれば即レスしないとヘソを曲げるらしい。
いつまでも携帯をいじっている後ろから覗きこんでも、椎名は気にしない。どころか、ショウちゃんの新作写真を見せてくる。オレはその度どうでもいい態度で無視するのだけど、
あれ? と、今日に限って、見入ってしまった。この女、こんなにかわいかったっけ? まっすぐこちらへ花が咲いたみたいな笑顔。
「あんま見んじゃねーよ」
椎名が画面をロックした。
「見てねーし」
オレは目を剥いて吐き捨てるように言ってやったが、体操服から制服に着替えながら、
「いいな」
口をついて出た。ふたりの世界、みたいなもの。あれは椎名だけに見せる笑顔なんだ。きっと椎名も、ショウちゃんだけに見せる顔があるんだろう。
「ついに目覚めたか」と、椎名は着替え途中ではだかの上半身の腕を、オレの肩にまわしてきた。脇から微かにネギのような匂い。
「どんなんが好みなんだよ」
相変わらず罪のない無邪気な顔で、なにをカン違いしているのか。
「バカめ」
オレは心臓のあたりにぽやぽや生えている毛をむしり取ってやった。
「なにすんだてめえ!」痛がる椎名を見て、周りは爆笑している。
「ショウちゃんにも、胸毛キモいから剃れとか言われてよ」
「そこだけ剃っても無駄だろ。全体的に濃いんだからよ」オレが言うと、
「うわっ。ケツ毛ボーボー! 引くわー」と、誰かにパンツをつかまれ、椎名が尻をさらされている。
「まじで傷つくからやめて」
椎名が言い、皆が笑っている。オレも笑っている。あの夜、夢で見たのは、椎名の胸毛だった。
大人の男の手は、腕は、薄情に映るほど毛が薄かった。
きれいな空をTシャツにしてお揃いで着たいと思ったのは、椎名だった。
そういう感情を抱えて生きると決めたのだ。
喪服の人々の足もとを縫って黒いワンピースがよたよた駆けて行く。
「こらこら、待ちなさーい」
追いついたオレは抱き上げた。
あの夏、姉ちゃんの胎のなかにいたものは二歳の女の子になった。
今日、やっとばあちゃんのお骨が帰ってくる。
遺体を医学部の検体に捧げた人々の遺族が集まる合同葬儀。大学の講堂は喪服を着た学生たちもあわさり、まっ黒にひしめいていた。
葬儀が終わり、黒い喪服が吐き出されていく光景は、時代がかった石造りの建物を聖堂たらしめていた。
姪っ子が小さな身体をぴちぴちさせてむずがるので、すぐに姉ちゃんに抱き移した。母親に抱かれ、いつまでも落ちない涙の粒を目の端にくっつけている。かわゆくてしょうがなかった。あんなに禍々しかったものが胎から出ると愛しい生き物になるなんて、そんなこと、十六歳だったオレは知らなかった。
周りを行き過ぎる喪服が振り返りこちらを見ていた。人々は、オレと姉ちゃんのやりとりを見て、心許ない表情をしている。
高校の制服ではなく黒のスリムスーツを着ていたオレを、背の高い女だと思っていたのだろう。
この二年、自分の変化を見てきた。頬の肉が減り、少し面長になった顔は、伸びた髪で半分ほど隠れているときなど特に、二十代の女性に間違われた。アタラシクナリタイ。を求めていた少年に届いた返書は美しさだった。ただ、いまの過程は本意ではない。美しさと女性的であることは関係無いから。
だからオレは、わざと周りに知らしめるよう声をあげる。どんどん野太く低くなっていく声に愛着があるから。
周囲はオレと姉ちゃんへ、ああ、よく似たこのふたりは姉妹ではなく姉弟なのか、と珍しいものを見るような目を向けていたのだった。
もう慣れっこのそういう反応を受け流していると、
面影を見つけた。
オレはそれを見かけるたび目を凝らす。どこかにいるかもしれない男のために笑いかける。見て。アタラシクなったオレを見て。自分の美しさを覚え、図太くなった男を見て。床にひっくり返って泣きわめいていた少年はもういないよ。
黒い群衆のなか、オレを見ていた男が――。
「やっぱり叔父ちゃんがいいって」
姉ちゃんに言われ姪っ子を抱き受けた。
視線を戻すと、背を向けた黒い群れがあるだけだった。
ほんとうのところ面影はあいまいで、あの夏焦がれた大人の男の手で柔らかい生き物を包む俺にとって、もうどうでもいいことだった。
⁂⁂⁂
最後の手紙です。
私はもう死んだものと、忘れてください。
どうか、この手紙は読んだら捨ててください。
勝手な手紙を送りつけていたことを後悔しています。
許されるならお会いして謝りたい。
けれど私はもうこの世にいません。
自ら命を断つという意味ではけっしてありません。
私は、新しく生まれ変わった人間として生きていきます。
都合のいいことを、とお思いでしょう。
そういうふうにしか生きられなかった。
私は妄執に囚われていました。
彼女に一目会ったときから惹きつけられ、ほうっておくことができなかった。それなのに、大切にする方法がわからなかった。
居場所をつきとめた私は、遠くから見ることしかできませんでした。声をかけることも、近寄ることさえできなかったのです。
たよりない足で歩く小さな息子を抱き上げた彼女は、知らない女になっていました。そこには、地に足のついた生活をしている強い女がいたのです。
もう、私など必要なくなってしまったのです。
私が苦労して守ろうとしていたあれのことも、きっと忘れているでしょう。
息子の名前も知らないままですが、私はそれでいいのです。
息子には息子の人生がある。私には私の。それだけです。
ただ何度だって新しくなればいい。
そんなふうに願うだけです。
⁂⁂⁂
<了>
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