【連載小説】ノイズ(仮) 第十回

「あたしが家出するの、ばあちゃん知ってたんだよね」
そして姉ちゃんは、あの夜のことを話しはじめた。
父さんは、姉ちゃんを殺してしまうのだろうか? 誰もいない家のなか小学生だったオレが不思議と安堵していた、あの夜。

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久野 早季 様

 全て合点が行き、ようやくご報告できる段になったので、お手紙致します。
 方々を調べ回るうち、佐々の悪い噂を耳にしました。どうやら会社の金を横領して雲隠れしたらしいのです。今頃どこかで殺されているに違いないと言う者もいました。そういう金に佐々は手を出したのです。しかし、佐々は生きています。エナが行方をくらました時期と一致するのが何よりの証拠です。

 これまで早季さんに隠していた事があります。
 私が仮釈放で出る直前、エナは子供を産みました。私が刑務所にいて手も足も出せないのをいい事に、掻爬したと嘘をついていたのです。
 弁護士からその事実を聞かされたのは、産後の肥立ちが悪いとかで入院していた病院から、エナが赤ん坊を連れて抜け出した後の事でした。
 病院には入院費やらの金を置いて行き、弁護士には着手金の二十万が振り込まれていました。エナは私が暴力を振るうのを材料に離婚訴訟を有利に進めようとしていたのです。
 かっと来て、あの女に攻撃誘発性があるのがいけない、と弁護士に口走ったのはまずかったが、今となってはどうでもいい。
 弁護士はこのままでは戸籍の無い子供になってしまいそれがいかに酷であるか能書き垂れたが知った事か!

 エナは子供をつれて佐々とにげた!
 おどろきだ! 女ばかりか兄弟にまで裏切られるとは!

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 不動産関係らしい会社名が印刷された名刺には、『佐々 聡作』とあった。オレは名刺とDVDを自分の部屋に置いておくのはなんとなくいやで、ばあちゃんちの納屋の段ボール箱、店子が置いていった荷物のなかにあったセカンドバッグ(その筋の男たちがなにを入れているのか始終大事そうに小粋に小脇に抱えているタイプの)に入れ、他の荷物に紛れこませるように隠した。
 今日はばあちゃんちに、母さん、姉ちゃん、貫井さんが来ていた。
 出張の終えた貫井さんと、姉ちゃんが東京に帰るのだ。仕事で行けない父さんの代わりに母さんが車で空港まで送って行くので、その前に寄ったのだった。
 姉ちゃんはこの家がどれほどひどい状態だったか(ビフォー)を説明し、貫井さんはオレがひとりでここまできれいにしたこと(アフター)に驚いていた。そんなふたりに褒められて、オレは悪い気はしなかった。
 きれいになった居間に通し、冷蔵庫で冷やしておいた麦茶を出した。ティーバッグもティーサーバーもグラスも、もともとあったものたちだ。
「このグラス、懐かしい。憶えてる」「もう、すっかりラックの家みたいね」などと姉ちゃんと母さんが話している。
「僕も時間があったら、なにか手伝えたら良かったんだけど」
「違うの。ラックは、ひとりで、やりたいんだもんね」貫井さんの言葉に、姉ちゃんが応えた。
 図星のオレは気恥ずかしさをゴマかしたくて、
「そうだよ。手出しすんじゃねーよ」と悪態をついてしまった。
 姉ちゃんはイーッと歯を剥き出して、
「出さねーよ。もう帰るんだから」
 憎たらしい顔に「ブッサ!」とオレは笑ってしまった。姉ちゃんも笑っている。オレと姉ちゃんは同じ顔で笑いあった。
 ばあちゃんが暮らした居間で、母さんと、姉ちゃんと、姉ちゃんの婚約者と、笑いあう。不思議だった。
 帰ってきてからの姉ちゃんは、父さんと映画を観に行ったり、母さんと夕飯を作ったり、まるでもともとなんの問題もない家族みたいだった。また、めまいがしそうになった。現実感が遠退いていき、吐きそうになる。ヤバイかも。本格的に喉もとに酸っぱいものがあがりそうになったとき、姉ちゃんが言った。
「あたしが家出するの、ばあちゃん知ってたんだよね」
「え?」
 オレは母さんと貫井さんを見た。オレと同じく、黙って姉ちゃんの言葉を待っているようだった。
「家出する直前、ばあちゃんに相談したの。ばあちゃん、『止めないよ』って言って、『それほどのことするなら、絶対に帰ってくるんじゃないよ。その覚悟できてるのかい』って。あたしなんか、覚悟もなにも、ただ家から、地元から出て、自分のこと誰も知らないところに行きたいって、それしかなかったから」
 それはオレの、アタラシクナリタイ、と似ているのかもしれない。
「覚悟なんてできてなかった。できてたらばあちゃんに相談なんてしてなかったもん。そしたらばあちゃん、あたしのそういう半端な気持ち見透かしたみたいに、『困ったら、すぐ連絡するんだよ』って、銀行の通帳とカード渡してくれたの」
 そして上京した姉ちゃんは、保証人不要の部屋を借り、「いろんな仕事をして」暮らしていたのだと言った。
「ばあちゃんのカードを使ったのは一回だけ。身体壊して入院したの。仕事があたしに合ってなかったんだと思う。別の仕事はじめるまで、自分の貯金は病院代に消えてしまったし、お金に困って、ばあちゃんのカードでお金おろした。ばあちゃんのお金がなかったら、あたし、いまここにいなかったかもしれない」
 姉ちゃんは仕事のことも病気のことも詳しく言わなかったけど、オレは聞かなくてもいい、と思った。
 それから間もなく貫井さんと出会って同棲するようになり、もう心配いらないという一筆とともに、姉ちゃんは通帳とカードをばあちゃんに送り返していた。それが、上京して二年が過ぎた頃のことだったという。
そうか。オレは思い出していた。中学一年の初夏だった。
 封筒には差し出し人の住所はなかった。ただ、姉ちゃんの名前と、東京のある町から出されたことを示す消印が押してあった。手紙の内容についてばあちゃんは、「元気でやってるって」としか教えてくれなかった。
「オレ、それ憶えてる。ばあちゃんのところに東京から姉ちゃんの手紙が来たって母さんと話してたら、父さんが帰って来て」
 三年前のそのとき、オレと母さんはとっさに噤んだ。
「どうした?」と呑気に訊いてきた父さんに、母さんが気まずそうに手紙のことを話した。父さんの顔がまっ白になった。帰って来てゼネコン会社のロゴが入った作業着姿のままかじりついていた白桃が、握りつぶされてどろどろとフローリングに滴った。
「ちょっとお父さんっ?」母さんが足もとに散らばるピューレ状の果肉をふきんで拭っている間、父さんはぐちゃぐちゃの桃を持ったまま突っ立っていた。口の端から溢れた果汁が襟まで垂れている。「あーもう、桃の汁はシミついたら取れないんだから」母さんに言われ着替えにバスルームに行く父さんは、白い真顔でゆっくりと動くゾンビになってしまった。
 父さんをゾンビにしてはいけない。オレと母さんは決心した。
「それ以来、姉ちゃんの話、家では御法度だった」オレが言うと、
「父さんって、普段はあんなにおっとりとした感じなのに、すごく烈しいところあるのよ」姉ちゃんは応えるともなく言った。
 そして姉ちゃんは、あの夜のことを話しはじめた。
父さんは、姉ちゃんを殺してしまうのだろうか? 誰もいない家のなか小学生だったオレが不思議と安堵していた、あの夜。

 ガムテープで口を塞がれ手足を縛られた姉ちゃんは、車の後部座席に寝かされ毛布をかけられていた。
 姉ちゃんの様子を見るため母さんが毛布をめくったとき、車窓から見えたのはまったくの暗闇だった。ダンピングを繰り返しながら進んで行く。舗装された道を走っていないのだけはわかった。常夜灯もない漆黒の闇を、いったいどこに向かっているのか? 
「ほんとうにこんなところにあるの?」母さんの声。
 父さんの返事はない。「お父さん、」と再びの母さんの声に、
「おまえは黙ってろ」はっきりとした父さんの声。(父さんが母さんをおまえ呼ばわりするところなんて、オレは見たことがない。)
 すると、「カズ」父さんが姉ちゃんを愛称で呼んだ。しばらくぶりに聞くおだやかな声だった。
「これからどこに行くか、わかるかい?」
後部座席の姉ちゃんは毛布の下で首を振った。塞がれた口にはタオルが詰められている。喉からぐぐっと変な音を出すことしかできない。
「ごめんな」
 おだやかな声で言われ、姉ちゃんの身体はがたがた震えはじめた。
 時間の感覚は消失して、家を出てからどれくらい経ったのかわからない。とにかく長い間、車は走り続けた。
 やっと車が停まりエンジンを切ると、周囲は無音となった。いきなり毛布が剥がされた。仰向けで見た窓の外に、白い壁が見えた。
 姉ちゃんは泣き叫びたかったが、ううっと、くぐもった唸り声にしかならなかった。
「ねえ、せめて……」涙声を詰まらせた母さんを、
「うるさい!」父さんが怒鳴りつけた。
 暗闇にぬっと現れたその白い建物は、壁に装飾が施され、おとぎ話のお城のようだった。
 姉ちゃんは父さんに担がれ運ばれた。もがきながら見た先に建物の入り口があった。鉄の門扉が迫ってきた。その先はまったく見えなかった。黒い布を張ったような闇。姉ちゃんは恐ろしさに目を閉じた。錆びついた扉の開く不協和音。力の限り暴れたが、父さんの力は緩まなかった。
 暴れ続けていると、浮遊するような感覚のあと、身体中に衝撃が走った。投げ落されたのだ。泣いていた姉ちゃんは後頭部化からぐるり巻かれたガムテープで口を塞がれていたので、鼻水が詰まって呼吸ができなくなっていた。苦しさに痙攣しているのに気づいた父さんがガムテープを剥がすと、ぶちぶちと髪の毛が抜けた。口に詰められていたタオルを引き抜かれ、水気のない唾液が糸を引いた。姉ちゃんは喘ぐように呼吸をし、目を開けた。目の前に、表情のない父さんの顔があった。
やああああああーーーーっ! ああああああーーーーっ!
 姉ちゃんはやっと叫んだ。父さんが持っている懐中電灯の明かりをたよりに、姉ちゃんは首を可動域いっぱい巡らせた。壁も床もコンクリート剥きだしの空間は、地下駐車場のようだったが、抜けの向こうは闇が迫ってきて、ほんとうの広さはわからない。
 ここはなんなのか? どこなのか? 恐ろしさに這いずって逃げようとした姉ちゃんを、父さんは背中を踏みつけて押さえた。
「カズ」うつ伏せの姉ちゃんの頭の上、父さんの声がふわりと被さった。踏みつけられたまま姉ちゃんが首を捻って見た先、見下ろす父さんの向こうに、三つの白い輪がぼやけて見えた。目を凝らす。焦点が定まった。白いロープだった。丸く輪が作られているロープ。吊るされた先は闇に溶けて見えない。姉ちゃんは悟った。
「やだっ! やだっ! やだっ!」
 姉ちゃんは必死に這いずった。足首を縛ったビニール紐が緩んでいる。夢中で足を擦り合わせると、片足が抜けた。立ちあがったそのとき、背後から物音がした。反射的に見ると、
 闇の彼方、幽かな光があった。
 出口だ! 姉ちゃんは全力で走った。
 少しでも光に近づこうと、両腕を後ろ手に縛られたまま必死に走る。バランスを崩し転びそうになったとき、後ろからタックルされ父さんに捕まった。父さんはそのまま上半身を締めつけるよう姉ちゃんを抱き上げ向きを変えた。後ろから抱えられた姉ちゃんの方へ、さっきの三つの輪が、黒い闇のなかに浮かんで迫ってきた。
 父さんは姉ちゃんを抱え、ゆっくりと、吊るされた白い輪のほうへ近づいていった。三つ並んだ輪。その真ん中の真下、足もとに木箱があった。
 父さんは姉ちゃんの首を輪に通すと、木箱の上に姉ちゃんをそっとおろした。ぎりぎりのつま先立ち。少しでもバランスを崩せば首が締まってしまう。
「父さんと母さんも、すぐ行くから」
「くそやろう」姉ちゃんは息を吐きながらやっと言った。
 父さんが木箱に足をかけた。
 時間が鈍く重く、進みがのろくなった。
 まるでスロー再生のようだった。父さんの髪が後ろから煽られたようにゆっくりと顔にかかり、白眼の部分がじわーっとピンク色に充血し、眼球が盛り上がり飛び出しそうになるのを、姉ちゃんは見た。
 そのまま父さんの身体は前のめりに倒れ、後頭部を押さえうずくまった。
 後ろから、懐中電灯を振りおろした姿勢のまま息を切らせている母さんが現れた。
 暗くぼやけだした視界のなか、姉ちゃんは魔法使いを見た。自分の首が縊られたロープの先が縛り付けられていたのは、魔法使いのステッキの先だった。喜色満面。頬の肉が丸く持ちあがるほど口角を引き上げた顔で振りかざしていた。
 目を開けると闇は消えていた。白い壁に薄い緑のタイルの床。嵌め殺しの小さな四角い窓から弱く光が射している。
 姉ちゃんは自分がうつ伏せに倒れているのに気づいた。起きあがろうとすると、身体中に痛みが走った。緊縛は解かれていた。
 薄暗い、長い廊下を、歩きはじめた。
 コンクリート剥きだしの壁も床もなく、建物のなかは、どこまでも白かった。
 麻痺したように、心のなかは静かだった。
 やっと外へ出ると、一面、どこまでも続く屋外駐車場だった。朽ちてひび割れたアスファルトのいたるところから、背の高い雑草が生えていた。夜明けの濃い水色の空に、七色の虹を模した大きな入園ゲートや錆びついた観覧車が見えた。崩れかけた遊具が、恐竜の骨格標本のようだった。そこは、太古に廃業した魔法の国のテーマパークの廃墟だった。遠くに、糸ほどに細く、高速道路の高架バイパスが確認できた。
 開けた景色に一台、車が停まっていた。そのそばで父さんが煙草を喫っていた。(父さんが煙草を喫っているところを、オレは見たことがない。)
 姉ちゃんは父さんに背を向けたが、足がもつれて、もう走ることができなかった。
「まて、まて」父さんののんびりとした大きな声。それでも逃れようと、姉ちゃんはふらつく足で廃墟に戻ろうとした。
「かずみ!」
 母さんの声だった。振り返ると両手を広げた母さんが掛け寄ってきた。母さんの胸に、姉ちゃんは食らいついた。だいじょうぶだから、もうだいじょうぶだから、だいじょうぶ……。繰り返す母さんの胸のなか、姉ちゃんの震えは止まらなかった。

 姉ちゃんは、一点を見つめたまま話している。
「ラックに話せるようになるまで時間かかっちゃってごめんね。自分がどうしてあんなふうだったか自分でもわからないんだよね。いまだに。ただ、ここにいてもわからないまま、変わらないままな気がしてた……」
 そして姉ちゃんは、こう、話を結んだ。
「父さんの烈しさは、あたしを守るためだったんだって思うことにしたの。正しいかどうかは関係ないの」
 母さんを守るために、妹たちや自分の血縁すべてと絶縁した父さん。烈しさがないとできないことなのかもしれなかった。
 しん、と、間。魔の刻がおりた。神妙な顔の母さん、姉ちゃん、姉ちゃんの婚約者。なにこの緊張感。思ったとたん、こみあげてきてしまった。くくくっと、おさえられない笑いを洩らすオレを、三人が不思議そうに見た。笑いながらオレは言った。
「そんなことされて、自分はそういう親にならない自信があるの? 姉ちゃんに似たこどもが生まれてきたら、姉ちゃんも、父さんがやったみたいなこと、するんじゃないの?」
「楽美! またあんたはそういう……」
「ラックは母さんが思ってるほど、かしこくもやさしくもないみたいよ」母さんを遮って、姉ちゃんが言った。
 オレはへらへら笑いながら、そう、その通り。と思っていた。
「人一倍繊細でヤワなくせに、平気でそういうこと言えるなんてただのクソガキじゃん」
 そして姉ちゃんの決定打。
「もうそういうの通用しないってほんとうはわかってるんだろ?」
 強い口調だったけど、姉ちゃんの表情はやさしかった。
 わかってるし、知ってる。なのに、ふつうにお説教されてしまった恥ずかしさに素直になれなかった。
「見え見え」と姉ちゃんが笑うと、母さんはほっと息を吐いた。貫井さんは恵比須顔をさらに緩めていた。
 母さんの車に乗りこんだ姉ちゃんがオレに言った。
「ほんとうに、会えて良かった。生まれたら、会いに来てね」
「次は何年後かね」
「生まれたら会いに来いっつってんじゃん」
 笑顔で姉ちゃんは行ってしまった。
 自分だけすっきりした顔しちゃってさ。クソガキのオレを置き去りにして行っちゃうのかよ。
 オレは新しく帰るところを見つけた姉ちゃんが羨ましく、さみしかった。

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