【連載小説】ノイズ(仮) 第十六回

「なにも知らねえくせにっ!」オレは叫んだ。
なにも知らないくせに! オレだって抱えている。抱えてるんだ!


 訪ねた佐々を、ばあちゃんは「多果夫さん」と呼んだ。
 通された家の荒れ様を見た佐々は表札にあった名で「早季さん」と呼んでみた。直感したのだ。目の前の老女は、ここにいないのかもしれない、と。
するとばあちゃんは、「あんたの大切にしてたもの、ちゃんと取ってあるから」と言った。
「心配して、手紙くれていたでしょ。ちゃんと隠しておいたから、だいじょうぶ」
 佐々は逸るのをおさえ訊ねた。
「早季さん、ありがとう。それで、いま、どこにあるの?」
「あー……」
 ばあちゃんは声を洩らすと、
「こんな雪残ってちゃ、とけるまでせんないねえ」
 話にならないほどぼけているのか? 佐々は焦れた。
「早季さん、なにを預かってもらってたんだっけ?」
 ばあちゃんはひょっと驚いた顔をすると、おかしそうに言った。
「なに言ってんのあんた、あれだべさ」
「あれ?」
「あんたがどっかの山から盗んできたって言ってたべさ」
 そう言ってばあちゃんは両手を肩のあたりに持ってきて、ぴろぴろ羽ばたくようなジェスチャーをした。
 にこにこしながらそうしているばあちゃんを見て、佐々はおののいた。
「ちゃんとおしろいあげて、かわいがってたら、ずいぶん増えて、もう桐の箱に入りきらないから、桐箪笥の抽斗ひとつあげたべさ」
「ちがうでしょ? 預けたもの、よく思い出して!」
 佐々はばあちゃんの肩をつかんで覗きこんだ。
 すると老女は突然真顔になり、みるみる顔をこわばらせ、
「あんただれっ? 多果夫さんじゃないね!」
 出て行けーっ! 出て行けーっ! 
 ばあちゃんは叫び続け、佐々は逃げた。

「出て行けーっ!……。鬼ババみてえな顔で、そこらのゴミ投げつけてきて……」
 と、佐々はゆっくりと首を巡らせた。縁側から居間、そして台所。
「えらいもんだな」
 佐々は「去年の春」と言った。佐々の話がほんとうだとしら、ばあちゃんが自分から老人ホームに入れてくれと言い出したのは……。
 この男を殺したい。握った拳が震えた。ばあちゃんの代わりにオレがボコってやる。
 オレの怒りの瘴気など、佐々には障らないようだった。
「おまえ、えらいよ。あんときの家とは思えねえもの。関心するわ。なんつうか、家が、生き返ったみたいだもんな」
 佐々はグラスに、新たに広口瓶から赤い果実酒を注いだ。
「おまえが生き返らせたんだよ」
 まるで祝福するようにグラスを掲げた佐々を、オレはにらみつけた。
「もう、来ないでください……」絞り出した声が掠れた。
「そのつもりだったんだけどよ」佐々の声は、ゆうべ聞いた、知らない男のようだった。
「探してるもんがあるんだよ。それがどうやら、おまえのばあさんが管理してたアパートにあるかもしれねえってとこまではわかったんだけど、来て見たらアパートはなくなってるし、ばあさん、ぼけちゃってるし、諦めようかと思ったんだけどよ」
 いきなり佐々は崩れた歯並びを剥きだした。笑顔なのかもしれない。
「ずっと見てたんだぞ」壊れた笑顔が言った。
「ずっと、この家を探ってたんだよ。消えたんだよ。父親が消えたんだ。ここを最後に消えたんだ。おまえのばあさんになにかを預けて消えたんだ。それがわからないと、どこにも行けないんだよ。父親が消えたんだよ。わかるか?」
 オレがわかったのはただひとつ。目の前の男は、「明石多果夫」の息子なのだ。
 「明石多果夫」が堕胎を望んだこどもを「エナ」は産み「佐々」と逃げた。そのこどもがいま目の前にいる佐々ならば、まだ二十二かそこらのはずだ。
「佐々さんが探してたもの、知ってるよ」
 佐々の目の色が変わった。夢で見たまっ黒に開いた瞳孔、よだれで濡れた黒糖飴のつやを帯びた目は、現実ではただ恐ろしいだけだった。
 オレは佐々から目を逸らさないまま屈み、台所の床下収納を開いた。上半身を床下に突っこんだ。床上に突き出たままの尻に佐々の視線を感じた。瓶を掻き分けた奥から書類封筒を取り出した。
 魅入られたように手を伸ばした佐々に、オレは吸い込んだ息が止まりそうになった。
 震えながら受け取ったのは、いまにも泣き出しそうな少年だった。
 オレは少年が封筒から数枚の写真を出すのを見ていた。
 けれども少年は写真をめくり繰り返し見続けるうち、すぐノイズ交じりの男に戻っていった。ほんとうは見た目よりずっと若い青年であるはずの、老いた目をした男。
「それだろ? 佐々さんが探してたの」
 佐々は写真から目を離さなかった。
「もう、いいだろ? もう、出てってよ」
「ああ……」
 そう言っただけで、佐々はまったく動こうとしなかった。そしてまた書類封筒に手を入れると、手紙の束を出した。
「おまえ、これ読んだんだろ? どんなことが書いてあった?」
 答える代わりにオレは叫んだ。
「出てけよっ! もう来るなっ! 母さんと父さん呼ぶぞっ!」
 背中をもろに打ち、喘いだ。オレは足払いひとつで床に倒されたのだった。腹の上に馬乗りになった佐々が、両足でオレの両腕を踏みつけおさえていた。
「母さんと父さん呼んでどうすんだよ? それから?」
「警察呼んでやる……」オレはうめいた。
 佐々は手紙の束を封筒に戻し、ゆっくりとテーブルに置いた。
「それじゃあ、お別れだな」
 佐々はオレをおさえつけたまま、床に並ぶ果実酒の広口瓶をひとつ抱え、蓋を開けた。両頬を爪がくいこむほどつかまれ、こじ開けられたオレの口に甘い酒が流れこんできた。
 ほとんど顔にぶっかけられるようだった。苦しさに喘ぐたびに、焼けるような感覚が喉を通った。どろっと底に溜まっていた果実の澱が、鼻の穴と喉に詰まり息ができない。必死でむせながらわずかな空気を吸いこむ。赤い液体が染みてぼやけた視界に歪んで見えたのは、怒りではち切れそうな貌をした青年だった。
「なんで三十代に見えるか教えてやるよ!」
 佐々は違う瓶の蓋を開けた。高く掲げいっきにひっくり返した。
「誕生日も戸籍もないんだよ!」
 オレは顔に浴びせかけられ溺れながら、梅酒だ! と舌で感じていた。
「おまえぐらいのガキのときには車乗り回してたんだよ!」
 ぼとぼと落ちる梅の実がオレの顔を打った。
「生きていくためだ!」
 梅酒で顔を洗われ、やっと息ができた。
「なにも知らねえくせにっ!」オレは叫んだ。
 なにも知らないくせに! オレだって抱えている。抱えてるんだ! 
顎をつかまれ次の酒を注がれそうになり、きつく目を閉じた。
 と、佐々の動きが止まった。おそるおそる目を開くと、佐々はずいっと顔を近づけてきた。そして、「変態め」と言った。
「ちんこ勃ってんじゃん」
 オレは勃起していた。ジーパンが固く張りだすほどの充血をぶりっとつかまれ、おさえきれなくなった。
 おぎゃあああ!
 あぁーーーん!
 うぇーーーん!
 うぇんうぇん!
 汚い声をあげ泣いているオレを、佐々はしばらく馬乗りのまま見おろしていた。
 佐々が立ち解放されても、オレは仰向けのまま泣いていた。
 佐々は煙草に火を点け喫いあげると、煙を吐きながら、
「幸せそうでうらやましいわ……」と言った。
 オレはしゃくりあげながら、
「自分ばっかり不幸だと思うんじゃねーよ」
 自分でもよく言えんな、と思った。でも、いまこの世界で、佐々に言えるのはオレだけだ!
「やって欲しいか?」
 佐々は言った。
 泣くことも、息することも奪われた。
 もう一度、佐々は言った。
「ゆうべの女みたいに、して欲しいか?」
 オレは仰向けになったまま、答えることができなかった。さっきまでの痛いほどの充血さえ奪われていく。それなのにオレは欲しかった。欲しい。欲しい欲しい欲しい。その腕が、大人の男の手が、欲しい。
 オレは起きあがると、ハンガーに吊るしてある青い薔薇模様の着物の前へと立った。どうしてだかわからない。佐々の言葉にさせられているのかもしれない。佐々を見た。オレはいま、どんな顔をしているんだろう? 静かにオレを見つめ煙草を喫っている佐々の顔からは、なにも読みとることができなかった。
 佐々は煙草を挟んだ指をこちらに向けると、
「それ着て、二階の寝室で待ってろよ」
 そしてまた煙草を喫いあげ、煙を吐きながら言った。
「すぐ行くからよ」
 ハンガーに吊るした着物に手をかけると、すべすべした生地はするりと落ちて腕に引っかかった。そのまま、オレは二階へ階段をのぼって行った。

 朝がくる頃一階に戻ると、佐々はいなくなっていた。
 こうなることを知っていた。でも、オレには酒に濡れたはだかに着物を羽織って、二階で待っていることしかできなかった。
 そのとき、オレは見たのだった。
 ふと、あの閃光が目の端に映った。なぜだか、オレは佐々が来てくれたのかと仰ぎ見た。
 目の前を、綿毛のような光が浮遊していた。
まだ薄水色の早朝の部屋のなか、光はオレにまとわりつくようだった。
 すいっとオレを離れた光に導かれて行くと、四畳半の和箪笥の周りを、いくつかの同じ光が舞っていた。
 抽斗を開けてみて。そう、光たちが言った。オレは和箪笥の抽斗の取っ手に手をかけた。初めて開けるその段を引くと、
 ぶわっと舞いあがり目が眩んだ。
 羽毛のような綿毛のような無数の光がオレのまわりをくるくると舞った。自由に舞っていた光は徐々にひとかたまりになり、四畳半の天井を覆う光の雲になった。光は規則性を得たようにそのまま部屋を出ると、階段を滑り一階へおりてゆく。
 追いかけて一階の居間に出たときには、光の雲はまた散り散りになり、開け放した縁側から外へ流れ出ていた。
 縁側に立ち見あげると、空へ吸いこまれるように上昇してゆっくり溶けて消えていった。
 空を仰ぐオレのそばに、ひとつ、まだ浮遊している光があった。
 そっとそれを両手で包んだ。指の間から漏れる光が弱まり消えてゆく。
 これだったのか。男が守りたかったもの。男の息子が探していたもの。金はおろか、なにものにもかえがたいもの。
 再び手を開くと、もう、なくなっていた。
 いま、縁側に立ち、広がる農地の地平線から昇る朝陽を見ている。陽を浴びながら、一縷望みを持ったことを後悔しない、希望に似た気持ち。
 オレは、こういう朝を何度も迎えたい。何度だってこういう朝を迎えたい。
 羽虫のような音にリュックから携帯電話を出すと、バイブしている携帯の画面に家の番号があった。
「どこにいるのっ?」半狂乱の叫びが耳に刺さった。
 怒鳴り続ける母さんの声を聞きながら、オレは、
「すぐ帰る」と言った。


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