【連載小説】ノイズ(仮) 第十四回

胸の奥の怒りの球体が膨らんで破裂しそうで息苦しい。逃げられない、追ってくる容赦のないもの。

怒りの球体に亀裂が入った。

怒りの球体が……破裂した!


 雨が屋根を打つ音が強くなっていた。
 最後の手紙を読み終えたオレはしばらく動けなかった。
 佐々と過ごした昨夜、都合の良すぎる展開に不安になった。それは正しい直感だった。
 全部猿芝居だった。
 縁側でのままごとにつきあいながら佐々は言った。「なんか、楽しいな」 そのうえ、うまそうに食う佐々を見て、幸せだ、なんて思っていたオレはまんまと乗せられたエテ公だ。
 オレの手伝いなんてうそだった。
 佐々はオレをだまして利用した!
 家に帰って夕食を食べ風呂に入ってベッドに横になるまで、いくら考えてもひとつの答えにしか行きつかなかった。
 あの手紙と写真はばあちゃんちに置いておくべきではない。
 父さんと母さんに相談することも頭を掠めたけど、ばあちゃんがなぜ着物の畳紙の間にしまいこんでおいたかを思うと、そんなことできない。
 消印の日付順に読んだ手紙は、でたらめな女名前だったり差出人のないものもあったが、全部「明石多果夫」からのものだろう。
 最後のほう、心の叫びややり場のない怒りをただ書きなぐっただけのような文面には、ばあちゃんを侮辱する言葉や、あきらかな脅迫があった。
 あんな手紙この世に存在すべきではない。どうしてオレは読んですぐ処分しなかったんだ。ばあちゃんちの庭で燃やすなり、せめて持って帰ってくるべきだった。なにかの拍子に父さんか母さんが見つけるかもしれないし、佐々がもう来ないとも限らない。いままさに佐々がばあちゃんちの家探しをしているかもしれない!
 オレはベッドから飛び起きた。
 もうすぐ十一時。廊下に出て父さんと母さんの寝室のドア下から灯りが漏れてないのを確認した。オレは家着のTシャツとハーフパンツにランニング用のスニーカーをつっかけ家を出た。自転車はガレージのシャッターを開ける音で父さんや母さんが目を覚ますかもしれないのであきらめた。雨上がりのむっとした夜へ、オレは走り出した。
 幹線道路沿いのいつものランニングコースと違い、舗装されてない砂利道は走り辛いし街灯も少ない。
 夏休みになってから毎日行き来している道は夜中だというだけでまったく知らない貌を見せる。途中、道を挟む広大な農地はトウキビ畑になる。昼は眩しい緑をうならせているのに、いまは鋭利な葉の茂った茎がみっしり並ぶ間に、なにか、想像もしたくないものを見てしまいそうだ。湧いてくる恐ろしげな妄想を払いたくて頭を振った。
「ひっ!」
 蜘蛛の糸が手首にひっかかった。極やさしく「ちょっと寄って行きませんか?」なんて呼びこまれたようだった。「ひっ!」なんつって、女の腐ったのみたい。だいたい、男というは腐った女のことなのかもしれない。乳房は腐ってただれ落ち、肥大したクリトリスがペニスに、陰唇が陰嚢になるのではないだろうか。
 走りながら妄想を押しこめるべくとりとめもないことを考えた。橋を渡ればすぐそこはばあちゃんちというところまで来て、足が止まった。
 庭に続く雑木林の奥に、灯りが見えた。
 まさか……。オレは音を立てないよう砂利を避け、昼間の雨か夜露か、濡れた下生えを踏み、静かに近づいて行った。草叢にかがんで窺うと、果たしてそれは佐々の車だった。
 オレは四つん這いで後方に近づいた。
「そりゃあんたにとったら、楽な相手だったろうよ」
 佐々の声だった。そして、
「お互いにね」
 女の声がした。はっきりと聞こえた。助手席の窓を開けているのかもしれない。オレの胸の奥、怒りの球体が膨張した。ここに知らない女をつれてきた佐々を憎んだ。
 盗み聞きしてやる。オレはテールランプの後ろに這いつくばった。
「だから、別にこのままでいいじゃない。結婚したいとか、こどもが欲しいとか、わたし、一回でも言ったことあった?」
「ない」
「じゃあいいじゃん。家族なんていらないんでしょ? わたしも、べつに家族になりたいとは思わないもん」
「よくない」
「なんでよ」
 間。魔の刻がおり、煙草の煙が流れてきた。
「めんどくせ~……」佐々のうめき声。「じゃあ言うけどよ、あんたがこんなとこまで追いかけてきたのがいや」
 固く冷たい声に、ちんこが縮み身体に埋没した。昼間の甘苦く低い響きはどこへ行ったのか? もしかしてそこに乗っているのは知らない男ではないのか? 
「音信不通の彼氏、心配しちゃいけないの? てか、それ、どうしたの? 殴られたの? すっごい腫れてるけど……」
「気色悪いから、もう関係ないのに勝手に心配しないでくれる?」
「なんでそんな言い方するの……」
 女のすすり泣きが聞こえてきた。ひでぇな。オレは思いながら痛快だった。
「いまは別れたくないからいいように言ってるけど、絶対結婚したがるよ。そういうタイプだもん、君」佐々の声には笑いが交じっていた。
「決めつけんな」女はしゃくりあげていた。
「このままつきあってたら、きっといつか後悔する。だから別れる。もう決めた」
「別れたことを後悔はしないの?」
「する、かもしれない。でも、取り返しのつかないことにはならないと思う。あんたまだ二十八でしょ? 全然、平気だよ」
「平気じゃないよ。いま別れたら、わたしは取り返しがつかないくらい後悔する」
「それこそ関係ないよ。あんたの後悔でしょ?」
「冷たい」
 再び魔の刻がおり、オレは待った。佐々と女がどう終わるのか知りたかった。そばだてた耳の穴に、幽かな、粘液をかき回す音が流れこんできた。
「いてえ……。口んなか切れてんだよ」
「キス、できないね」女は笑ったようだった。
「舌入れるなよ」
「歯、舐めるの好きなのに……。目をつぶってても誰とキスしてるかよくわかるがちゃがちゃの歯並び、わたし好きよ」
「だからだよ」
「え?」
「だから、自分で殴ってやったんだよ」
 自分で殴った? 
「歯並びが悪いのは、父親に似ちまったからなんだってよ。この家の掃除やってるガキがいるって話したろ? そのガキくらいの頃に、お袋から聞かされた話よ」
 ガキ。耳に入った言葉を取り出したかった。
「いちいち舌に引っかかる並びの悪いガチャ歯の感触がよ、突然気持ち悪くなってよ。剥きだした前歯を殴りつけてやった。知らねー親父に似てる歯並びなんて気色悪くて、殴るのを止められなくなってよ……」
 佐々の節くれだった指が浮かんだ。ぬるぬると鉄くさい油が絡みついていた。赤黒い、血だった。
「だからさ、もう、やめた方がいいよ。こんなヤツと一緒にいても、ろくなことに」
「そんなこと知ってるよ」女が佐々の言葉を遮った。
「なんと言われようと、なにされようと」佐々の声が途切れた。
カチャカチャと軽い金属音がして、
「だいたいねえ、いま、この状況で……」
 ため息のような呼吸。幽かなうめき声。
 状況を飲みこんだ。咥えられてる佐々を思うと、埋没していたちんこは硬くなって躍り出た。
 車体が軋み出した。
 オレは夢中でしごいていた。
「どうしてそんなにこだわるのよお……。いま、わたしと幸せならいいじゃない……」女の泣くような声。
 車体の軋みが激しくなっていき、オレの右手も早さを増した。
 急な車体の静止と同時に射精した。
 弾む息を殺していると、顔に熱風が吹きつけられた。エンジンをかけたのだ。点灯したランプの光を避け、オレは必死でそばの茂みに身を投げた。
行ってしまった車の音が完全に聞こえなくなっても、オレは冷たい草叢から動けなかった。下腹部が余韻で痺れていた。
 あたりはすっかり静まり、聞こえるのはさざ波のような葉擦れの音と虫の声。自分を包む緑と飛び散った精液の匂いに鼻の奥がつーんとした。

 目覚まし時計のアラームが鳴っている。
 オレはベッドで布団にくるまっていた。身体が動かない。起きあがれない。耳障りな電子音のなかでじっとしている。
 なにもかもが面倒くさい。けど、ほうっておけば母さんが起こしに来る。そのとき平気なふりをするほうがはるかに面倒くさい。満身の力をこめて身体を布団から剥がした。トリモチシートに捕らえられた虫の気分。
 アラームを止めると階下から朝の支度の音が聞こえてきた。身体を起こしても、ベッドから立ちあがる気力が湧かない。
 オレは昨夜なにもせず帰って来たのだった。射精して来た道を戻っただけ。
 胸の奥の怒りの球体が膨らんで破裂しそうで息苦しい。逃げられない、追ってくる容赦のないもの。髪を切る前に戻ったみたいだ。
「あんた、具合悪いんじゃないの? 今日は休んだら?」
母さんに言われたのは、補習へ行くため制服に着替えたあとだった。「休んだら?」って気軽に言うけど、通学鞄を持って部屋に戻って着替えて寝るなんて、段取りを思うだけで面倒くさくて疲れる。それにいつまでも眠れなかったら? オレはベッドでなにをして過ごすと思う? 
 このまま学校に行くほうが何倍も楽だ。それに、今日の試験に合格すれば、オレの補習単位は終わる。明日から再びなにもない夏休みに戻れる。ばあちゃんちの掃除だけに集中できる。
「なにこれ」と母さんがオレの頭頂部から草の破片をつまみとった。
うずくまっていた草叢でボウズ頭に刺さったのだろう。
「知らね」オレは答えて玄関へ向かった。
「そんな顔色悪いのに、ほんとうに行くの?……ちょっと、朝ご飯は?」
「いらね」
 コンバースをつっかけて玄関を出た。

 表向きの体裁として、「教え合うなよー」などと言い残し教師が教室を出ると、皆は体裁に応えるべく一斉に声を潜めて顔を寄せ合った。
 答案用紙を叩くシャープペンシルの音とひそひそ声で充満する教室で、これが終われば、今日をたえれば、オレはそれだけを念じていた。一刻も早くやかましい音楽で頭のなかをいっぱいにしたかった。そうしないと余計なものが流れこんできておかしくなりそうだった。早くこの場をやり過ごさないと、もう……。
「マリちゃんて、憶えてるでしょ?」
 答案用紙に覆いかぶさっていたオレの腕を、隣の席の椎名がシャープペンシルの先で突いた。オレが胸の奥に破裂しそうなものを抱えているなんて知らない椎名は、まったく気楽な感じで続けた。
「LINEブロックしただろ。ひでーよなー。それでもラックのこと気にしてんだって。また、オレとショウちゃんも一緒に、四人でどっか遊びにいかないかって」
 怒りの球体に亀裂が入った。
 とどめを刺したのはやはり椎名だった。
「あ? なに?」椎名が耳を寄せた。
「おまえらの頭んなかにはセックスのことしかねえのかよ……」
 怒りの球体が……破裂した!
 弾かれた拳は裏拳となり椎名の鼻頭にヒットした。
「いでぇっ!」オレと椎名は同時に叫んだ。椎名は鼻をおさえ、オレは自分の拳をおさえていた。皆から一斉に注目を浴びる。
喧嘩の心得などないオレはただただ握った拳をぶんぶん振りまわし、椎名は「なに? は? はあ?」と逃げ惑うだけだったが、オレの吐いた唾が顔射よろしく椎名の眉間にキマったのをきっかけに一転した。
 白濁した粘液を拭った椎名は打って変わって反撃してきた。
 が、心得のないのは同じだった。オレと椎名はぐだぐだ揉み合い周りの机をなぎ倒し床を転がった。グーにした手をなんとかぶつけ合うぶざまな殴り合い。
 女子どもが奇声をあげ廊下に躍り出ていった。男子どもが止めに入り、オレと椎名を引き剥がした。オレは叫んだ。
「死ね!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?