【連載小説】ノイズ(仮) 第三回

男が投げてきた必要十分の声量が、ノイズをあからさまにした。微かな腐臭が漂うほど熟れすぎた果物を思わせるその声は、甘苦く低く響いた。
大人の男の手。と思った。


   *

久野 早季 様

前略
 お手紙有難うございます。
 昨日、刑務所に移って初めて妻のエナが面会に来ました。久野さんの口添えがあったと言う事も聞いております。
 只、エナが私ども夫婦の問題まで久野さんに打ち明けていたとは、初めて知りました。
 父親になるのだからしっかりしなさいと言うお言葉、痛いほど沁みました。
 お心を掛けて頂いている分際で大変申し上げ辛いのですが、話が前後している様なので、私の方から、ご報告させて頂きます。
 八月三十日、エナは手術を受け、胎児の掻爬を済ませました。
 術後体調を崩し入院が長引いたため、連絡が取れなかった様です。
 全て私の不徳の致すところではございますが、現状を鑑み、夫婦で決めた事です。
 よその夫婦に起こったさほど珍しくない一件と、どうかお忘れ下さいます様お願い致します。
 今更ではございますが、身重だったエナへのお心遣い、お礼申し上げます。
                             草々
平成九年九月二十日
                       明石 多果夫

 追伸 アパートの部屋の方、引き続き宜しくお願い致します。

   *

「あんたまじでその頭で学校行ってんのー?」
 翌朝、制服でリビングに現れたオレの頭を指して、姉ちゃんがげらげら笑った。父さんも母さんも各々朝の支度をしている。通常営業。いつも通りの朝に、五年ぶりに加わったクセに溶けこんでやがる。オレが処方された安定剤を飲んでいると、姉ちゃんが言った。
「あんた、ほんとにそれ必要なの? 誰だって病院に行ってナンカカンカ言えばてきとうな薬出るよ」
 返事をしないでいるオレに、姉ちゃんがさらに言った。
「自分でよく考えなよ」
「行ってきます」オレは姉ちゃんに一瞥もくれず家を出た。
 自転車を漕ぎながら考えた。
 わからない。
 正直な感想だった。眠剤のおかげか眠りは深く、朝方、癇癪を起したようにうなされて暴れることもなくなったけど……。
「よく考えなよ」姉ちゃんの声がリフレインした。
 学校にはオレの頭を指して嘲う者がまだ一定数いた。安定剤で頭がぼーっとして、そんなことで傷つくほど気が張り詰めることはなかった。それは良いことなのかもしれない。
 一学期最後の今日、予定では、終業式のあと男友達数人と他校の女子を交えてカラオケに行くはずだった。しかしそれはオレが「しりこだま」「河童」「落ち武者」になる前の予定だった。
 いちおう鞄にニットキャップを忍ばせていたのに、皆、オレの周りからそそくさと逃げるように散っていった。わかるよ、仲間というパッケージングに説明のつかないものが加わってしまうのは面倒くさいもんな。
「バカばっかりぃ。バカばっかりぃ」
 ニットキャップを被ってひとり自転車で帰る鬱展開も全然みじめじゃない。周囲に誰もいないのをいいことにオレは自然にでたらめな歌を口ずさんでいた。歌まで出ちゃって。これだって安定剤のおかげかもしれない。バカばっかり、バカばっかり、バカバカバァカばかりぃ、バカばかりぃ。
 歌いながら家に着くと、姉ちゃんが母さんの庭仕事を手伝っていた。
 母さんと同じ庭仕事用の恰好(つば広の麦わら帽子と長靴、日焼け防止の二の腕まである手袋)をして花畑に馴染んでいる姉ちゃんに、イラッときた。
 自転車を半地下のガレージにしまっていると、姉ちゃんがニットキャップのオレを指してまたげらげら笑っていやがった。オレは自室で制服から家着に着替えながら「バカばっかりぃ」と歌い続けた。
 着替えると昼食のため一階におりた。
 雪どけから初雪がちらつくまで続く母さんの庭仕事は夏のいま時分、一年で一番精が出る。母さんの作業を中断させないよう、オレは昼食を自分で用意することにしている。
 冷凍庫にホワイトシチューが入ったタッパーを見つけ、レンジに入れた。温まるのを待つ間トマトを切っていると、姉ちゃんがキッチンに入って来た。冷蔵庫を開け麦茶をグラスに注ぐ姉ちゃんの視線を背中に感じた。
 炊飯器から飯を大皿に盛り温まったシチューをかけ、トマトの皿とドレッシング、スプーンと箸を盆に載せ、キッチンを出てリビングへ行く。姉ちゃんがついてくる。オレはソファに腰かけテレビを点けた。
 昼のニュース番組を見ながら食事をはじめたオレの反対側の端に、姉ちゃんが腰かけた。オレはテレビから目を逸らさず食い続けた。熱々の白いシチューと飯をスプーンで口に運ぶ。バターの香りがほんのりするけど、旨みとか出汁の味が勝ってる。和食の汁ものっぽいうちのシチューは白飯によく合う。母さんのレシピのなかで、一、二を争うくらい好きなメニューだ。
「お母さんのシチューって、変わってるよね」姉ちゃんが言った。
 返事をしないオレをよそに姉ちゃんは続けた。
「ふつう、ホワイトシチューにしらたきとかゴボウとか豆腐って入れないじゃん。鶏肉じゃなくて豚バラだし。お母さんの作るシチューって、豚汁の具といっしょだもんね」
 それは知っている。うちのシチューは、給食で食べたのやあらゆる媒体で見聞きするものと違う。同じところはジャガイモとニンジンとタマネギぐらいで、姉ちゃんが言うようにあとは豚汁といっしょなのだ。いつだかオレは、母さんにその理由を訊いたことがあった。すると母さんは嬉しそうに笑い、「それはね、ばあちゃんがそうだったからだよ。だから母さんも、小さいときはシチューってこういうものだって思ってた」と教えてくれたのだった。
「あたしさ、それに気づいたの家出てからだったんだよね。無性にシチューが食べたくなって自分で作っても全然食べたかった味と違くて、なんでだろうって考えて、最初、それがおふくろの味ってことなのかと思ってたんだけど、そんなのじゃなくて、根本的に入ってるものが違ってたっていう」
 ふふ、と姉ちゃんがひとりで笑ったとき、オレは思わず「ふうん」と微かに応えてしまった。
「あるときふっと、ゴボウの匂いを思い出したんだよね。そしたらいっきになにが入ってたか思い出してさ」
 ほんとうによくしゃべる。やさしい声のこの女は誰なんだろう? 
 オレはほとんど食べ終わっていた手を止めて、姉ちゃんを見た。
 うわ、こいつ……。いい話してるつもりになってやがる。自分がどんな顔して語ってんのかわかってんのか? 
 オレは残りをかっこむと食器の載った盆を持って立ちあがった。いつもなら食器を洗っておくところをシンクに置いて水道水に浸けただけで行こうとした後ろから、姉ちゃんが訴えるような声を出した。
「父さんも母さんも心配してるよ。父さんと母さんのそばには、いま、ラックしかいないんだから」
「おまえが言うなよ……」
 オレは聞こえるか聞こえないかの声でつぶやき、階段を駆けあがった。

二.鬱展開に浸らないため立ちあがったオレは出会ってしまった


 夏休みがはじまった。
 携帯電話は沈黙を続け、なんの誘いも連絡もなかった。
 それでもオレにはやることがある。
「なにやってんの?」
 姉ちゃんに言われたとき、オレはキッチンで炊飯器に残っていた白飯に刻みネギと揚げ玉と麺つゆをまぜたのを握っていた。
 もうさ、無視するから放っておいて。まじで。そういうシステムだって了解して。とは言わず、オレはふたつの握り飯を海苔で巻いてからアルミホイルで包み、さらにクロスに包んだ。それでも姉ちゃんは「どっか行くの? 遠足?」と絡んできた。
「ばあちゃんち、掃除しに行くんだって」リビングで朝刊のチラシをチェックしていた母さんが代わりに答えた。
 姉ちゃんはぎゃは! っと失笑し、
「弁当持ってクワガタでも捕まえに行くのかと思ったわ!」
 まじウッゼ! 構うものか、とオレが握り飯と水筒を持って玄関へ行くと「あれ、なんか本気っぽいんだけど」「気の済むまでやらせればいいのよ」「どうせ壊される家なのにー?」といった、女ふたりの遠慮ない会話が聞こえてきた。それを家のなかに押しこめるよう、オレは玄関ドアを力いっぱい閉めてやった。
 自転車のかごにリュックを突っこんでまたがった。リュックには昨夜のうちに工具箱から持ち出した軍手の束や簡単な工具類が入れてある。
 砂利道の轍に沿って自転車を漕いだ。
 夏の陽が正午に向かって本意気になりかかっている。携帯電話を見ると九時半だった。ジーンズのポケットにしまった携帯は、沈黙のあまりデジタル時計と化していた。一瞬、胸の奥の怒りの球体が膨れそうになる。けどすぐに眩しい太陽に目がくらみ、明日からはニットキャップじゃなくつば付きのメッシュキャップにしよう、と気持ちを切り替えられた。
 容赦のないものが追ってくる。オレはそういうものから逃げている。夏休みに集中できることがあれば、そういうものから遠ざけてくれると思っていた。胸の奥の怒りの球体が膨らまないよう、なだめてくれると思っていた。
それはとんでもない間違いだったのに。
 ばあちゃんちに着くと一階の窓を全部開けた。一昨日と同じ、混乱した家のなかをぐるり見る。やっぱり汚い、と思ってしまう。知らない家みたいだ。縁側から庭を望むと、この時間帯、雑木林が庭にいい具合に影を落としてくれていた。
 まずは草刈りだ。
 去年ばあちゃんが亡くなってからほったらかしていた庭の草木は旺盛に生い茂り、庭と雑木林の境をあいまいにしていた。どこから手をつけようか……。軍手を嵌めた手に鎌を持ち、玄関にあった古いゴム長靴を履き庭をうろついていると、遠くから、車が砂利を踏んでやって来る音が近づいてきた。
 車は家の前を流れる小川に架かる橋を渡ったところ、庭の下生えが迫ってこれ以上侵入できないあたりで停まった。
 車から見知らぬ男がおり立った。
 Tシャツとジーパンにビーチサンダルの男は、オレより少し年上くらいの青年のように見えた。が、直後そのたたずまいに妙なノイズが交じった。
「久野さんのお宅ですよね?」
 男が投げてきた必要十分の声量が、ノイズをあからさまにした。微かな腐臭が漂うほど熟れすぎた果物を思わせるその声は、甘苦く低く響いた。
「久野」はばあちゃんの名字だ。オレはうなずいて見せた。
「早季さんはいらっしゃいますか?」男は膝まである下生えをこいで近づいてきた。
 「早季」はばあちゃんの名前だ。オレは首を横に振って見せた。ばあちゃんはもういない。
 近づくにつれ、青年は幻だったことがはっきりしてきた。たぶん壮年とか言っていいくらいだろう。太陽の下、黒髪のそこここに白い毛が目立っていた。
 対して男の目には、暑さにニットキャップを脱いでいたオレ、「しりこだま」の異名を持つ河童のようなけったいな髪型のこどもが、緑のなか鎌を持って突っ立っているのが映っているんだろう。
 男はオレとふつうの声量で話せるところまで来ると、
「もう、こちらにお住まいでない……?」と訊き、「久野早季さんの御親戚の方ですか?」と継いだ。
「孫です」答えたオレは少し迷いながら、「ばあちゃんは去年死にました」と言った。
「亡くなった?」独り言のようにつぶやく男の声にも、オレはうなずいて見せた。
 男は仰ぎ、しばし静止した。それから取り繕うように姿勢を戻すと、
「ご病気かなにかで?」
「病気っていうか、突然……」涼しい木陰に立っているのに、ベタついたいやな汗が滲んできた。
「えっと……」思い出す。あの晩、病院から電話があり、母さんと父さんと オレが病院に到着したときには、ばあちゃんはすでに死んでいたのだった。
「脳出血でした。老人ホームに入ってたんだけど、いきなり、そうなっちゃって……。救急車で病院に運ばれて……」
 初めて会った他人にどうしてこんな話をしてるんだ? 変な感じ。こんなの大人みたいだ。こういうやりとりは父さんか母さんのすることで、自分は関係はあるけど関係のない、まだ、こどもなのだ。
「いや、あのね……」男は話しはじめた。
「おばあさんがやっていたアパートあるでしょ。昔、親戚が部屋を借りていたんです。今日はちょっと、近くまで来たので、ご挨拶に寄らせてもらったのですが……。そうですか。お亡くなりに……」
 そして男が顎に手をやったとき、オレは生まれて初めてのものを見た。
 大人の男の手。と思った。
 とたん、視線を巡らせるのを止められなくなった。
 顔の造作だけで言えばべつに大したことはない。背が高く頑丈そうな広い肩のうえに載っているのは美丈夫ではない。細い顎にアンバランスなくらい大きな口と厚い唇、崩れた歯並びが覗いていた。筋肉質でたくましい肩、Tシャツの半そでから伸びるしなやかな二の腕、肘から手首は、薄い皮下脂肪を被った青い静脈がでこぼこ浮き出て、怒張したちんこみたい。そして顎にやった手。骨ばった手の甲から伸びている指の節は太く出っ張っているのに他の部分は細く長く、デカくて迫力。
大人の男の手。また思った。
「君は、ここに住んでいるの?」
「いえ!」
 観察していたのをゴマかすため元気いっぱいお返事してしまう。
「ばあちゃんちの、掃除してるだけです!」
「そっか……」
 男は家を見あげてからオレに視線を戻し「じゃあ……」と、静かに背を向けて車のほうへ歩いて行った。車が動き出し、遠く見えなくなっても、エンジン音が聞こえなくなっても、オレはしばらく木陰に立ち尽くしていた。
 それから鎌で草を刈っているあいだ中、男の身体の断片が浮かんでは消えた。
 自分にとって切実なものに接した気がした。同時に、深追いすることは止せと、頭の奥のほうではサイレンが鳴っていた。
 オレにとってあの腕、あの手は……。噴き出す汗が目に辛く沁みた。
 家に入り握り飯を食いながら、庭の草刈りは雑木林の影が庭に落ちる午前中だけにしようと決めた。
午後からは納屋の屋根裏で段ボール類を検分した。
 段ボール箱を開けると、服やらの雑多な生活用品。手当たり次第に古めかしい服たちをいくつか出して拡げたりしていると、また男の断片が浮かんだ。
 そういえば、名前を聞くのを忘れていたのだった。


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