【連載小説】ノイズ(仮) 第十五回

なんてきれいなんだろう。その目も、煙草を挟む指も腕も肩も、大人の男の身体は、なんてきれいなんだろう。

「実はよ、おまえのばあちゃんに、会ったことあんのよ」
異様なことを言い出した。オレの目の前に、異様なことを言う、異様な人間が現れた。


「ご飯は?」ドアごしの母さんの声。
 オレは得意技をきめていた。制服のままベッドにもぐりこみ丸まっていた。
 ほんとうは、やけに早く帰るなり自室に籠城した息子に言いたいことは山ほどあるはずだ。
 わかってる! わかってるけど、いまはなんにも誰にも触られたくないんだ! 椎名に死ねなんて思ってない! でも、オレと同じくらいあいつだって苦しむべきだ!
 オレは机の抽斗から眠剤の入った袋を出し、リュックから青い瓶を出した。瓶のなか、赤黒く映る液体がちゃぽんと小さな波を打った。佐々が、うん、とうなずいて飲んだワイン。眠剤をラムネ菓子のようにガリガリ噛み砕き、ワインをラッパ飲みした。むせて吐き出しそうになりながら、むりやり流しこんだ。
 苦しめ苦しめショウちゃんと別れろ苦しめ苦しめ別れろ……。
 呪詛を繰り返しながら、とにかく眠りたかった。寝逃げしたかった。再びベッドに横になり、
 かっとまぶたを開くともう夜だ! 
 皺になった制服を脱ぎ捨てTシャツとジーパンに着替え階下におりるとリビングにはブラインドの隙間から月明かりが射していた。父さんも母さんもすでに眠っているようだった。壁掛け時計にビビった。午前〇時を回っていた。十二時間以上、夢も見ないで眠っていたのか!
 心は軽く活力が漲りじりじりしていた。焦燥のじりじりではなく、楽、とにかく気持ちが楽だった。
 身体は別だった。あちこち痛い。初体験のせい、ぶざまな殴り合いのせい。それを思い出したってオレは楽だった。
 家を出て暗い住宅地を走った。ばあちゃんちへ続く砂利道を走った。リュックにはノートパソコンと眠剤。昼間の初体験なんてどうでもよくなるほど楽なのは、寝逃げに処方より多く飲んだ眠剤のおかげかもしれない。
 昨夜はあんなにこわかった道中も、両側のトウキビ畑がなんだってんだ。バカ。太陽の光がないだけじゃねえか。どこまでだって行ける全能感がオレを走らせた。
 ハンパない息切れと流れる汗の量。だけど楽。じりじり楽。
 ばあちゃんちに着くと、台所の灯りを点けた。床下から梅酒や他の果実酒の瓶を出した。ばあちゃん手製の果実酒の瓶は全て、オレがここにしまいこんだ。他にも、お歳暮やお中元でもらったまま熨斗も取らずにあった高級そうなブランデーなんかも、ここに入れておいた。
 広口瓶を傾けてグラスに注ぐ。赤い液体が盛大に溢れた。磨きあげた床に真っ赤な液体が滴って広がり、血だまりができた。瓶のラベルには手書きで『グスベリ酒』とあった。
 数錠の眠剤を口に放りこみ、甘ったるくとろみのあるグスベリの血を呷った。
 早く全身の細胞に染みわたれ。楽なままでいたい。もう戻りたくない。
『イキった黒ギャルを時を止める能力を得たニートがイジリまくってイカせまくる勇者となった件』を持ってきたノートパソコンにセットして、食卓に置いた。オレは立ったまましごいた。
 いつまでもコシのないちんこを握りながら数種の果実酒を次々グラスに注いでは飲み干した。理解した。喉から胃が焼ける感覚。人間は一本の管。流しこみ続けると、パソコン画面から聞こえるグジュグジュとシズル感のある音に交じって声が聞こえてきた。
 飲め飲め全部飲んじまえ。
 オレの声か? いや、ただ頭で考えているだけかもしれない。止まない声は、一本の管を通る赤や黄や茶色く濁ったような液体と、オレの裡に流れこんで溢れた。
 オレは「色」を知ったんだ。
 直接ではなく間接……。空気で……ムードで……。世界にある色を見つけること……。好きな色を知ること……。あいつがいなければ……、オレはモノクロの世界で生きていた……。自分を包む世界の色を知らずに……。
 奔流する声はどこからくるのかオレがしゃべっているのか? まったくわからない。
 わかったところでなんだってんだ……。
 足は縺れ、階段から転がり落ちた。身体の痛みなんかどうでも良かった。四足歩行の動物になり階段をのぼり二階へ。
 暗いなか和箪笥の抽斗を開け、畳紙の包みを引き抜いた。
 灯りを点けて畳紙の紐を解く。現れた着物を両手に持ち、広げる。藍色の薔薇が、視界一面に咲き乱れた。
 クリームがかった白地に、母さんが丹精して咲かせたような見事な薔薇。その薔薇は薄く明るい藍色で、世界にそういう薔薇が狂い咲いて、ずっと遠くまできれいで……。
 狂い咲く薔薇のなか、佐々が立っていた。
 座っているオレを見おろす佐々の喫っている紫煙の向こう、目はまっ黒で瞳孔が開き、よだれで濡れた黒糖飴のようにつやつやだ。なんてきれいなんだろう。その目も、煙草を挟む指も腕も肩も、大人の男の身体は、なんてきれいなんだろう。
 すると、口のなかに甘い液体が溢れて端から漏れた。グスベリの血に似た舌が痺れるような甘さ。
 そうか、精液って甘いんだ。
 大人の男の精液がこんなにも甘いなんて、知らなければよかった。
 オレは急に悲しくなり、泣いていた。
 知ってしまったら、もう、戻れない……。

 あんなに美しかった薔薇は、精彩を欠いたただの水色の薔薇模様に戻っていた。
 居間の天井が見えた。開け放した縁側から月明かりが射していた。
 オレは着物を着て居間に仰臥していた。
 Tシャツとジーパンが脱ぎ捨てられていた。はだかの素肌に、薔薇模様のすべすべした生地を感じた。
 どうして居間にいるのか、どうして着物を着ているのか、なにも思い出せなかった。
 酒に酔って記憶を失くすってこういうことか? それとも薬のせい? いや、両方か……。
 やっとそこまで考えられるようになると、さっき見た断片が浮かんだ。
 オレは夢でセックスしたかもしれない。
 うっすらと生えている胸毛、細い腰、尾てい骨のあたりにも、乳輪の周りにも、産毛が渦を巻いていた。
 そうか、だからか。
 着物の他にたった一枚着けていたパンツが、粘液で濡れていた。

三.光よりオレは欲しかった欲しくて欲しくて欲しかった


 Tシャツとジーパンに戻ったオレは、パンツを台所で洗い、縁側の軒下に引っかけて干した。
 着物は畳み方がわからないのでハンガーに吊るした。
 パソコンを居間の低いテーブルに置いて起動すると、月明かりの青みが消え、暗闇の宇宙のなか四角く切りとられた画面が現れた。絡み合う裸体、男の息と女の嬌声。眩しい画面に顔を照らされながら、観察した。
 オレが椎名を殴りつけたことと似ている。怒りと性欲の発散は他人に見せてはいけないんだ。こんなに見苦しい、恥ずかしい行為……。
 じわり、行為の音声とはあきらかに違う気配に、オレはゆっくりと縁側を見た。いきなり光に目を射され、
「うあああ!」オレの悲鳴に、
「うおおお!」低く呼応するような声と、
「イクぞイクぞっ。あーっあっあー!」挑みあう男女の声が重なった。
 あわててノートパソコンを閉じると、すべての声は消失した。
 そして、間。間は、魔。魔の刻。
 懐中電灯の光が縁側の床板に幾重かの光の輪を映している。その反射をたよりに浮かびあがったシルエット。
 佐々だった。
 これは夢か? どこかぼんやりするようなのは夢の続きだから?
 佐々は居間のなかを懐中電灯でひと巡り照らした。
「誰かと一緒?」
「いや……」オレが答えると、
「ふーん」佐々はビーチサンダルを脱いであがりこみ、居間の電燈の紐を引っぱった。
 白く明るくなった部屋の隅、薔薇模様の着物がハンガーに吊るしてある。オレはそっちのほうを見ないようにした。
 佐々は台所の床に並ぶ酒の瓶を見て「おお、いいもの飲んでんじゃん」と、食器棚からグラスを出し、酒を注いだ。
「勝手なことするな……」オレは佐々をにらみつけた。
「床下にもっといい酒あるだろ。けちけちすんなよ」
「なんで……」知ってるの? 
 床にこぼれている赤い酒の血だまりに、佐々の裸足が浸かっていた。気にならないのだろうか? オレはぼうっとする頭で考えていた。
「こないだ、だいぶ捨てちゃったけどよ、もっと良く見たほうがいいぞ? 納屋の奥のほうに、ブランドもんのヴィンテージあったからよ」言いながら、佐々は赤い液体を口に含んだ。
 オレは、佐々がなにを言っているのかわからなかった。ただ、グスベリ酒が喉を滑るたびにひくつく佐々の喉仏を見ていた。口のなかにさっき夢で味わった舌が痺れる甘さが蘇った。
 佐々がふっと笑った。
「おばけでも見たような顔してんな」
「ここに出るおばけなら、ばあちゃんかじいちゃんだろ……」
 佐々が爆笑した。グラスを食卓に置いて、本格的に腹を抱えている。そんなに? と見ていたオレに、
「ほんと、かわいいよな、おまえ……」佐々は笑いを引きずりながら、「ひとのカーセックス聞きながらセンズリこいてたろ」
 腹のなか、内臓だけがおりる感覚。
「サイドミラーにばっちり映ってたっ……」佐々は笑いで震える声で言いながら、「別にヤるつもりなかったんだけど、おまえいたから、ちょっとしたサービスだよ」目の端の涙を拭っていた。
 オレの目にも涙が滲んだ。ぞくぞく寒気がするのに、頬から耳にかけてストーブであぶられたように熱い。自分が真っ赤になっているのがわかった。
「あの女に言われたよ。『ひとんち巻きこむようなことしてまで、知りたいの?』って……」
 いま、わたしと幸せならいいじゃない……。
 昨夜、あの女が泣くような声で言ったのを、オレもコキながら聞いていた。
 佐々は宙を見つめ、
「たしかにな……。一緒になったってよかったかもな。もうメスとしては見れねえけど、気心知れたどうし、家族になってもよかったのかも……」
 まるで誰かもうひとりいるかのように話すと、いま気づいたというふうにオレを見た。
「実はよ、おまえのばあちゃんに、会ったことあんのよ」
 異様なことを言い出した。オレの目の前に、異様なことを言う、異様な人間が現れた。
「去年の春、ここに来たんだよ。そんときも、夜だった」

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