【小説】「ノイズ」 全文


第一部「少年ラック」

   *

久野 早季 様

前略
 不躾ながら突然のお手紙お許し下さい。
 私、明石多果夫、平成九年六月二十日に傷害で逮捕され、岩見沢署に勾留、七月二日、勾留延長となりました。七月十二日起訴され、弁護人選任に関する通知書が届き、金が無く困って居りましたので、国選弁護人の請求を致しました。
 勾置所に移送され、第一回の公判まで約一カ月、判決までは更に一、二週間掛かるとの事です。
 この様な訳で、現在私の名義でお借りしているアパートの部屋へ、暫く帰る事が出来ません。
 家賃の方は、妻の明石エナを通してしっかりお支払い致しますので、どうか部屋はそのままの状態で今まで通り私の名義で借りたままにしておく様、宜しくお願い致します。
 仕事で関係がある佐々と言う男が時々掃除などで出入りすると思いますが、その際はご挨拶に伺わせますので、そちらの方も、宜しくお願い致します。
 重ね重ね厚かましいお願いですが、どうかご温情下さいます様、こうしてお手紙させて頂いた次第です。
 又、何かありましたら、妻か、佐々にでも伝言を預けて頂ければ有難く思います。
                        草々
平成九年七月十四日
                    明石多果夫

   *

一.そんな手紙知らねーオレはとりあえず鏡の前に立っていた


 鏡に映ったオレのはだか。右手に工作用のはさみを握っている。がりがりに痩せて儚い身体の中心にぶらさがっている。色素の薄い陰毛の紅茶色から淡いピンクのグラデーション。グラデちんこ。
 もうすぐ夏休みの夜。オレは風呂場で視界を遮る前髪をひとつかみすると、根もとからはさみで断ち切った。
 鏡の顔。性差も曖昧な童顔。女みてーな。にらみながら、また髪をつかむ。切る。床に黒い猫っ毛の素描。
 オレは十六歳で、胸の奥で膨張し続ける怒りの球体をぶちまけたかった。

 風呂場から出てきた息子を見た父さんと母さんがなにか言うまえに、オレは言った。
「前髪切ってたら失敗しただけだから」
 前髪をグシャッとつかんで根もとで切る。それを四、五回繰り返した。生え際から頭の中央にかけて雑な丸い空き地。ところどころ透けている青ざめた頭皮。空き地の周りは耳にかかる長さの猫っ毛のままなので、皿からまだらに毛が生えた河童のようだった。
 学校での反応は様々。
 変態した珍しい虫のようにじろじろ見られ、訝しがられ、冷たい顔で笑われた。
 思い知った。ヒトを批評するのに、見た目って、髪型って、こんなに大事なんだ。
 華奢でそこらの女子より背も低く中性的な顔立ちはそれまでも「かわいー」なんつって女子にイジられてた。要はナメられてゆるキャラ扱いされていた。そんなオレが「メンヘラくん」「河童」あげく「しりこだま」などと呼ばれ、根も葉もない噂や悪口の的になってしまうのは一瞬だった。
クラスの女子が非難がましい声色でつぶやいていた。
「落ち武者かよ」
 一番気が利いていた。
 まげを切られたざんばら頭の月代に見立てたのだろう。「いつも眠そう」と言われる覇気のないなまっちろいオレの顔は打ち首で数日さらされた生首みたいだしちょうどいい。
 男友達らは好奇心と心配を半々に理由を訊きたがった。
「鏡見ねーで前髪切ったら失敗したさ」
 両親に言うよりいくぶんおどけたつもりだったけどヤツらの反応は引き潮で返す波はなかった。ヤツらにしてみれば好奇心は満たされないし、心配して損した! そんなところだろう。
 オレの周りには誰もいなくなった。
 それでも椎名だけはふたりきりのときに「ほんとうはなんしたのさ?」と食いさがってきたが、そんな椎名にもオレは「失敗した。ダリぃ」としか答えなかった。
 髪を切った理由を説明するのは難しい。
 理由はある。なのに言語化しようとすると頭のなかにもやもや靄が立ちこめて言葉は隠れてしまう。
 強引に靄のなかから言葉をつまみあげたところで、伝わるなんて信じられない。それが悲しいことがまた、面倒くさい。そういうこと。

 ベッドに仰向けになり振りまわしていた腕が、慣性のまま宙に浮いていた。天井が青白い。明け方だ。食いしばっていた口を大きく開きやっと呼吸する。
 わずかに開いたドアの隙間から母さんがこちらを見ていた。かわいそうなリーガン。その目は悪魔憑きの娘でも見ているようだった。
 昼間あんなに眠いのに夜になるとまったく眠れない。一晩中いらいらしたあげく朝方やっとまどろんだ頃、オレはベッドの上、唸り声をあげ腕をぶんぶん振りまわしのけ反ったり転がったりしているらしい。
 オレにその記憶はない。たださっきのように目覚めた視界に腕があり、食いしばり過ぎた歯茎の痺れるような痛みがあるだけだ。夢を見ていた感覚もあるけど、起きたときには忘れている。
 そんなふうに朝方癇癪を起こしたように暴れうなされているオレを、母さんは何度も見ているのだった。
「なにか心配ごとがあるんじゃないの? なにか、学校で……」母さんが皆まで言う前に、「なにもないよ。いじめとか、オレあってねぇし」そこだけははっきりさせておきたかった。オレは別にいじめにあってるわけではない。これはオレだけの問題だ。
 それなのに母さんは担任教師から呼び出された。
 学期末の試験で学年の中間層からいっきに最下層へ成績順位を落とし、突然珍奇な頭髪で現れ、クラスどころか校内でも浮いた存在になってしまった息子(オレ)について。進路指導室で、オレと母さんに担任が言った。
「どうでしょう? お母さん、楽美くんも。学校と提携している小児心療内科の病院があるので、そちらで一度診てもらうというのは?」
 オレを憑きものに侵された娘のように見ていた母さんも、まさか悪魔祓いのメリン神父を呼ぶわけにいかないのだった。
 そしてオレは病院の待ち合い廊下の椅子に座っている。
「沢木楽美さん」
 呼ばれた診察室で対峙したのは若い女医だった。ベリーショートに化粧気のない顔がすっきりしていてかっこよかった。女医の質問に、オレは「はあ」「うーん」とか言って脂下がるしかない。心の裡を掘りさげられるのが恥ずかしいことだとは知らなかった。だいたい「思春期外来」っつー名称からして面映ゆい。
「どうしてそんな髪にしちゃったの?」
「いや、わかんないす」へらへらしてしまう。
「突発的に自分で髪を切っちゃうってことは、いままでなかったのね?」
 へらへらうなずいた。
「これはほんとうに大事なことなんだけど……」女医は端正な顔をさらにきりっとさせ、
「はさみで髪を切っているとき、自分の身体を傷つけようとか、死にたいとか考えていたことはなかった?」
ほんとうに驚いてしまって、すぐに言葉がでなかった。女医にじっと見据えられ、
「そんなこと……考えたこともないです。オレ、死にたくないもん。自分で自分のからだを切るとか、そんな、気持ち悪い。ってか、こわいっす」本音がでた。そんなシリアスなこといきなり言わないで欲しい。
「じゃあ、たぶん、そんなに心配するようなことじゃないかもしれない。もっと小さな頃から自分でも説明のつかない深刻な症状があるなら、もっと大変な、治るのにずーっと時間がかかったり、もしかしたら治らなかったりする病気も考えられるけど、楽美くんのはそれとは違うみたい。一時的に罹ってしまう、心の風邪のようなものだと思うの」
「心の風邪……」
 また、へらへらしてしまった。
 風邪に喩えた女医はそれになぞらえ、薬をちゃんと飲んでよく休めば、時間とともに治まってくると説明を続けた。
 女医の勧めで外に出るときは帽子を被ることにした。それこそ「落ち武者」の月代を隠すため。
 それでもオレはふつうの高一男子には戻れなかった。
 クラスメイトに話しかけると、にやにや顔で無視されるか、過剰な拒否反応を示された。携帯電話に着歴はなくLINEもブロックされたようだった。もともと読む専門だったツイッターも友達の不快な文言が流れてくるのを見たくないので、アカウントを削除してやめてしまった。これはいじめなのか? 思うときもあるけど多分違うだろう。そう結論づけるオレにいまの状況は清々しいくらいだった。オレにはなにもない。ひとりだけの時間を自分のためだけに使う。

 いきなり真夏がやってきた。六月生まれのオレは母さんに「あんたはほんとうにいい季節に生まれてきたのよ」なんて言われてたけど、近年はエゾ梅雨とかいってじめじめ湿度の高い毎日で、この北国の田舎にもさわやかな初夏なんてなかった。
 そこへきて今日の暴力的な太陽の陽射し。世界が眩しく照らされて白飛びしている。オレは庭の隅にある木のベンチに体育座りしていた。父さんと母さんが花壇にブロックを設置している。ゼネコン会社の設立記念でたまたま休業日だった父さんがふだんの習い性で現場監督よろしく母さんに指図しているが、庭仕事をヒトに仕切られるのが嫌いな母さんはうっとおしそうだった。
 「思春期外来」で処方された安定剤のせいで頭がぼーっとする。今日は薬の初日で大事をとって学校を休んだのだけど、明後日から始まる夏休みも、きっと一日中こうやって過ごすのだろうな、これはオレの夏休みの鋳型だな、そう考えていた。
 と、母さんはなにも言わずにオレの頭からニットキャップを取り、つばの広い麦わら帽子を載っけてきた。直射日光が遮られた視界に、いまが盛りを迎えようと漲らせている花たち。ノウゼンカズラ、ゼルフィニウム、ジギタリス、ホリホックらが咲き乱れて、周囲にフロックスの、バニラに清涼感を加えたような香りが漂っている。
 五年前、庭仕事は母さんの生き甲斐になった。
 小学生だったオレは土運びなど簡単な庭仕事を手伝ううち、花の名前に詳しくなってしまった。母さんが作りあげた芸術作品、母さんの小宇宙とも言える庭を眺めるのがオレは好きだ。
 田舎のここは住宅地と言っても隣家が密接しているわけでなし、家の前のだだっ広い通りだって車はもとより人の行き来もそんなにない。庭の花たちと木々の葉擦れや鳥のさえずり、風の音、作業中の両親の会話。オレを脅かすものはなにもなかった。そこへ、ごろごろごろごろごろ……。聞き慣れない音がした。
 転がるような音はしだいに大きくなって近づいてくると、通りからの眼隠しになっている繁茂した薔薇の向こうで止まった。
 淡いピンクの花びらと緑の葉のモザイクに、音の主の断片が覗いていた。女だった。咲き乱れる花々に目を奪われ、足を止め庭先を覗きこんでいる。そんなところだろう。
 うちの庭は小規模ながら母さんの丹精による見事なもので、時折、まったくの他人、たいていは同じように園芸を愛好しているおばさんとかが、見事に咲かせたボニカやバレリーナという薔薇の秘訣を訊ねたり、人家の庭に植わっていることが珍しい山野草のシコタンハコベやヤナギランなどを目ざとく見つけ、同じ趣味人の気安さでもって一時の交流を交わしたりすることもよくあった。
 すると、
「かずみ」
 母さんは持っていたスコップを抛り、長靴を鳴らしながら薔薇の茂みの向こうに走り出た。
「びっくりしたー! 入んなさい! いいから入んなさい!」
 母さんの嬌声にオレと父さんは顔を見合わせた。
 オレはベンチから立ちあがり母さんの嬌声を追いかけた。玄関ドアを開くと、陽にさらされていたせいでいきなり薄暗くなった視界に、ハイヒールを脱いでいる女が現れた。
 困ったように脂下がっているその若い女は、この家のひとり娘であり、オレにとっては姉ちゃん。十八歳で家出した姉ちゃんの、五年ぶりの帰宅だった。
 リビングに通されお客さん然とソファに座っている姉ちゃんは、ふつうの若い娘みたいだった。
 ほんとうにこれが、あの姉ちゃん?
 この陽気では暑かったろうトレンチコートを簡単に畳んでソファの肘掛に置いた「姉ちゃん」。クリーム色のブラウスのノースリーブからまっ白な細い腕が伸びている「姉ちゃん」。黒いスカートの細かいプリーツがソファのくぼみに沿って膨らみそこから伸びた艶のあるパンストの足を斜めに揃えている「姉ちゃん」。
 こういうのは、オレの知ってる姉ちゃんじゃない。
 ついついガン見していると、姉ちゃんが言った。
「ラック。大きくなったねえ」
 ラックとはオレことだ。名前の楽美からきている、小さな頃からの愛称だった。不思議と通りがいいようで高校生になったいまだに友達にもそう呼ばれていた。
「てか、その頭どうしたの?」
 姉ちゃんに言われて頭頂部に手をやると、麦わら帽子がなくなっていた。ベンチから移動している途中に落としたらしい。「河童」の皿、「落ち武者」の月代が露出していた。オレはニットキャップを被りながら、「姉ちゃんも……」と言いかけやめた。いまは噤んだほうがよさそうな気がした。
母さんが庭のハーブを煮出したお茶を淹れると、姉ちゃんはカップを受け取り「ありがとう」とのたまった。
 不安に襲われた。まるで「善良のコスプレをしている姉ちゃん」というコントだ。便乗しようものなら「調子乗ってんじゃねぇ」と冷たいボディブローを食らわされそうな……。
 いつの間にかリビングの隅に父さんが突っ立っていた。やはり、不気味なものを見るような目を娘に向けていた。
 姉ちゃんがバッグから紙袋を取り出し、
「こういうの、好きかどうかわからないけど……」
 受け取った母さんがはしゃいだ声を出した。
「あらあ、かわいい! ねえ、お父さんも、こっちに座ってちょっとお茶しよ。みんなでいただきましょ」
 マカロンだった。透明のプラスチック箱に淡いカラフルな色が並んでいる。
 まじで誰この女。かわいいお土産持ってきてなにしてんの? 知らねえっ……! こんな女知らねえ!
唐突に、
「と ま と」
 父さんの滑舌のいい発音。
「トマトに水やんなきゃ!」父さんは踵を返し、「萎れるべや!」捨て台詞 とともにどたどた玄関から庭へ出て行ってしまった。
 あ! ズリィ逃げた! オレだってこの場から立ち去りたいのに!
 そわそわしている男どもなどよそに、母さんはマカロンに手を伸ばした。次いで姉ちゃんも。
「これ、なんの味なの? おいしいけど、わからないわ」
「それは、塩マカロンだって」
「そうなの? ものすごい青い色。和美の緑のは、なに味?」
「あたしのはピスタチオだって」
 オレが個包装を手に取ると、母さんはすかざす、
「ラックのは、赤い、いちご味?」
「……たぶん」
「ラックのはね、たしかラズベリーだったと思うよ」
「ラズベリーっていえば、ほら、和美がまだちっちゃくて、ラックも赤ちゃんだった頃、野苺つみに行ったの憶えてる? いっぱいとって、ジャムにしたじゃない?」
「あたし憶えてる。あの河原まだあるの?」
「あるよ。ただもう何年も行ってないから、野苺はどうかねえ……」
 小さなマカロンをねちねち食べながらなされるどうでもいい会話。ただ肝心の、
 どうして、いま、なにがあって、ここに帰ってきたの?
 という質問は、母さんも、もちろんオレもできないでいた。もっとも、まだそれを訊く段ではない。母さんを見ればわかる。いま、五年ぶりに娘が帰ってきた。それだけがすべてみたいだった。
 姉ちゃんが食べかけのマカロンを見つめながら言った。
「なんだか、申しわけない。母さんもラックも、気を遣わせて、ごめんね」
 さっきの「ありがとう」といい、この女の口から「申しわけない」だの「ごめんね」だのが飛び出してくるとは!
 オレは心で叫びながら、真顔で歯に絡みついた甘酸っぱいマカロンを舌で舐めとっていた。驚き過ぎて表情が感情に追いつかない。
 姉ちゃんは窓の外に目をやり、父さんがホースでトマトに向けて派手に放水しているのを眺めながら言った。
「ただちょっと帰ってきたかっただけなの」
 嘘だね。オレは黒眼だけを「姉ちゃん」に向けた。

 七歳上の姉ちゃんは、オレが物心ついた頃にはすでに「不良」とか「ヤンキー」とか(それってなに? オレは見たことないけど、大人にはそう)呼ばれる類の娘になっていた。可愛がってもらうどころかまともに会話した記憶すらない。
 オレは姉ちゃんがこわかった。
 姉ちゃんはいつも禍々しい磁気を放出していた。幼いオレは敏感に磁気を感知すると、当時与えられたばかりの自分の部屋に逃げこんだ。家族のなか一番幼く脆い存在だったオレの、消極的な護身術だった。
それでも否応なく磁場に引きずりこまれる。
 小学校にあがったばかりだった。
 当時のオレにとって帰宅後の数時間は家でのびのびできる貴重な時間だった。オレはいつものように「ただいま!」と玄関から奥のリビングに向けて声をかけた。
 その日、母さんからの「おかえり」はなかった。鍵を掛けないで買いものにでも行っているのかな……。
 みょん、と磁場の狂いを感知した。
 玄関の三和土に無造作に脱ぎ捨ててあった。
 バカでかい薄汚れたデッキシューズのようなの。同じように転がっていたのは姉ちゃんのローファーだった。やっぱり姉ちゃんがいる! どうして! こんな早い時間に家にいるんだよ! 玄関の三和土に散乱している二組の靴。つまり、いま家のなかには、姉ちゃんと、姉ちゃんと同じ属性の男がいる、ということだ。
 幼いオレはその男と姉ちゃんが発している磁気に三半規管をやられ、くらくらした。一縷望みで「ただいま!」ともう一度叫んだ。返事はなかった。母さんはいない。逃げようと玄関ドアのノブに手をかけたときだった。
 頭の上から変な声が降ってきた。いたいけな少年ラックの耳にはたしかに「にゃあ」「にゃあうん」と聞こえた。猫カナ? 大きな猫なのカナ? だって鳴き声が大きいもの。甘えるような声だから、大きな仔猫なのカナ? 
 少年ラックは大きな仔猫があげる鳴き声にまとわりつかれ、その場から動くことができなくなっていた。それはつまり姉ちゃんと男の睦み声だったのだけど、当時のオレには幻獣の鳴き声としか理解が及ばなかった。
 玄関で突っ立っていた少年ラックは、事を終えて階下におりてきた姉ちゃんにあっさり見つかったのであった。
「帰って来たなら言えよガキが」
 姉ちゃんは困惑している幼い弟の頭を平手で打った。少年ラックはすすり泣いた。大声で泣くともっとひどい目にあわされることを知っていた。声を殺して泣く日々だった。
 少年ラックの悲劇は続いた。
 その日も、姉ちゃんは家にいないと思いこんでいた。
「うるせえっ! ころすぞ!」ドアを蹴破らんばかりに乱入した姉ちゃんは、悲鳴をあげて逃げ惑う少年たちとそこらのものをめちゃくちゃに蹴散らした。少年ラックと友達は興じていたプレステ3のバイオハザードの世界を現実が凌駕するのを見た。弟だろうがその友達だろうが姉ちゃんには関係なかった。
 以来、「ラックの姉ちゃんこわいからラックんちで遊びたくない」と、友達はうちに遊びに来なくなった。
 そんなふうに幼いオレは、姉ちゃんに理不尽とはどういうものか嫌というほど教わった。
 オレは当たり前に姉ちゃんを嫌悪していった。
 だから姉ちゃんが高校を卒業したら家を出ると言い出したとき、小五になっていたオレは「ヤッター」と無邪気に喜んだ。もちろん姉ちゃんのいないところで。
 けれども姉ちゃんは高三の春の時点で進学も就職も決まっていないどころか、単位が足りず卒業すらあやしかった。
 この頃から父さんVS姉ちゃんの攻防は日常になった。オレはふたりが家のなか接近する気配を感じれば、すぐ自室に逃げこんだ。ドアごしに、父さんと姉ちゃんの怒鳴り合う声、ときには参戦したり懸命に仲裁したりする母さんの声、なにか固いものが崩れたり倒れたり叩きつけられたりして破壊される音が聞こえた。少年ラックにとって、シェルターの外の爆撃音だった。
 いま、オレが思い出すそのビジョンは暗い。喧々諤々どんがらがっしゃんを自室のベッドの上、布団に潜りこんで聞いていたのだから。
 夏になり姉ちゃんは頻繁に外泊するようになり帰ってこない日が増えた。両親は姉ちゃんの高校に呼び出され卒業は絶望的だと伝えられていた。このままでは退学処分も有り得るとも。
 秋には姉ちゃんはほとんど家に寄りつかなくなった。父さんも母さんも探しまわることをやめていた。
 父さんが爆発した。
 三週間ぶりに帰宅した制服姿の姉ちゃんは、ふつうに朝学校へ行って帰ってきたような顔で玄関から堂々と入ってきた。
 いつもなら父さんの「どこへ行っていた」から、金切声と怒声の応酬がはじまるはずだった。オレはそれを機に巣穴に逃げこむ脱兎のごとく自室に向かう。ところが、
 姉ちゃんが浮いていた。
 どすん!
 オレの目の前に落下した姉ちゃんは頬をおさえ父さんを見あげていた。可愛げさえあるきょとん顔。オレも同じような表情をしていたと思う。
 父さんが姉ちゃんの頬を張り飛ばしたのだった。
 匂いがした。香水が立ち昇り、そのかげから煙草やアルコールの匂いが交じって、さらに彼方から、甘ったるい匂いがした。それは体育で女子が着替えをしたあとの教室に漂う匂いと同じだった。
 オレがそういった匂いを感知している間、姉ちゃんは野獣のように叫び声をあげてもがいていた。
 それをおさえつける父さんは無表情のまま娘の口にタオルを詰めると、ぐるり後頭部からガムテープを巻いて口に封をした。びちびち暴れ続ける娘を床にうつ伏せにすると、背中に馬乗りになりタオルでうしろ手に縛ったさらに上から、ビニール紐できつく縛る。両足首も同じようにする。タオルやガムテープ、ビニール紐、それらを切るはさみなどは、あらかじめ玄関の上り框に用意してあった。一連を淡々とこなす父さんの様子は、大きな荷物を運搬に具合よく梱包しているようだった。
 立ち尽くしていたオレは、いつの間にか母さんに頭を抱かれていた。
 口を塞がれ身動きの取れない仕様にされた姉ちゃんは、くぐもった声を洩らしていた。ガムテープに巻きこまれて、顔に髪の毛がぐちゃぐちゃに絡みついている。髪の毛の隙間から覗く真っ赤に充血して見開かれた目は、母さんに助けを求めているようだった。母さんは目の周りの髪の毛を掻き分けてやっただけで、緊縛を解こうとはしなかった。
 父さんが縛られた姉ちゃんを仰向けにして両脇を抱えあげた。
「そっち持て」
 言われて両足を抱えあげた母さんは泣いていた。
 半地下のガレージに続くドアを開けると、姉ちゃんを抱えた父さんと母さんは慎重に階段をおりて行った。
 オレは、それを、ただ、見ていた。
 姉ちゃんが発散した匂いだけが残っていた。
 ガレージのシャッターが開く音。車のエンジンがかかる音。やがてエンジン音が遠ざかる。
 父さんは、姉ちゃんを殺してしまうのだろうか? 
 それなのに心の裡はやけに静かで、誰もいない家のなかうっすらと安堵したのだけは憶えている。
 やっと記憶が繋がるのは翌朝自室のベッドで目覚めたところからだった。
 一階におりると、いつもの朝の光景があった。キッチンのテーブルに用意された朝食と、出勤の支度を終えリビングのソファで新聞を読む父さん。流し台に立っていた母さんが振り返り、「おはよう」と言った。
 オレは「姉ちゃんは……?」と訊いた。
 母さんは背中で「部屋で寝てる」とだけ答えた。
 姉ちゃんは変わった。
 絶望的だと言われていた卒業も、それ以来真面目に高校に通い、冬休みを返上して行われた補習授業でなんとかかなうこととなった。
 冬の間、姉ちゃんは自室に籠り続けた。たまに家のなかで出くわしても、避けるようにすぐ自室に戻ってしまう。まるで立場が逆転したようだった。あるときオレは勇気を出して、それでも消え入るような声で「おはよう」と言ってみた。洗面台に立っていた姉ちゃんと鏡ごしに目が合った。姉ちゃんはうつろな目のまま濡れた顔をタオルで拭っただけだった。
 そして高校の卒業式を終えたその足で、姉ちゃんはどこかへ行ってしまった。
 姉ちゃんの部屋の机の上に、携帯電話が置かれていた。姉ちゃんの家出に家族は慣れていたが、これは戻る気のない、永遠のお別れであるという意志表明だとわかった。
 雪がとけて遅い春が来ても、父さんは捜索願を出さなかった。母さんは霜の混じっている庭の土を耕しはじめた。
 それから姉ちゃんは、五年間、消えた。

 十六歳のオレにとって人生の約三分の一、いなかった姉ちゃん。
脱色を繰り返してぱさぱさだった髪は艶々と素直なセミロングになり、目の周りに塗りたくっていたアイメイクもいまはない。素顔に近いメイクはむしろ当時より幼く見えるみたいだ。全体的につるっとしている。それでも脱皮したって蛇は蛇だろう。オレのなかの少年ラックが言った。
 シソやミョウガを刻んだり錦糸卵を焼いたりしている母さんに先導され、父さんは食器を並べたり作り置きの麺つゆやナスの和えものを冷蔵庫から出したりショウガをすりおろしたりしている。
 テーブルに昼食の準備が整っていくのをオレは黙って席に着いて見ていた。向かいに座っている姉ちゃんを上目づかいにチラ見すると、ふっと目を逸らされた。姉ちゃんはオレの頭、ニットキャップを見ていたようだった。
 開け放した窓から、近所の家の犬の鳴き声や風が木々をさわさわ触っていくのが聞こえてきた。
 受け皿に載った平たい大ざるにそうめんが氷とともに盛られテーブルの中央にあがると、母さんが「さ、食べて」と促した。
「いただきます」父さんに続いて、オレも「……ます」とそうめんを食べはじめた。
「いただきます」姉ちゃんも言った。やっぱり異様だ。
 ずるずるかちゃかちゃそうめんを食う音がテーブル周りに浮遊した。
 突然、父さんが「カズ」と言った。両親の姉ちゃんへの愛称だった。オレは懐かしさにむずがゆくなった。
 言った父さんもかゆそうな変な顔でガラス鉢の麺つゆに、薬味を次々抛りこんでは箸でかきまわしている。
「カズは、東京から来たんだべ?」
「うん」
「カズ」は落ち着いた顔でそうめんを掬いながら答えた。
 そう、姉ちゃんが東京にいることだけはあるときから知っていた。東京で生きている。それだけは知っていた。
「帰ってくるんだったら迎えに行ったのに。千歳空港でしょ?」
「ううん。フェリーで来たから。苫小牧港」
「あ、そうかい……。なんも言ってくれれば、苫小牧にだって車で迎えに行ったのに。父さん、たまたま今日仕事休みでグハッ……!」話しながら薬味どっさりのそうめんをすするという愚行のせいでむせた。
 こいつら誰だっ? げほげほ言ってむせてる父さんと、父さんの背中をさすってやってる母さん、それを見て笑ってる姉ちゃん。知らない大人どもだ。見た覚えがない。こんなふつうな、まともな会話してる父と母と姉は、自分にはいなかった!
 オレはひとり一心にそうめんをすすりあげながらめまいを感じていた。吸いこみ過ぎて息苦しい。
「フェリーって、一晩くらいかかるんでしょ?」母さんが言った。
「うん。大洗を夕方に出て苫小牧に朝早く着くの。そっから電車で札幌まで出て、駅からはバスに乗ったの」
「じゃあ疲れたでしょ。カズの部屋そのままにしてあるから、少し寝ればいいしょ」母さんの言葉に、父さんはうんうんと声もなくうなずきながらそうめんをすすった。
 しばし、間があった。
「部屋、そのままなの……?」
「そうだよ。いつ帰ってきてもいいように」
 母さんははっきりとそう言った。
 再び、間。オレはそうめんと薬味をもぐもぐしながら黒目だけできょろきょろ三人の家族の顔を窺った。
「……だって帰ってきたんでしょう?」母さんが念を押す。
「帰ってきたけど、ずっとここにいるっていうんじゃないよ。東京の部屋だってまだあるし」
「そうだったの……」
 三度、間。間は、魔だった。まさに悪魔的なタイミングだった。
「なんで帰ってきたの」
 言ったオレを父さんと母さんが瞠った。まだ言わなくていいことは百も承知。わざと言ったのだ。
 オレは五年ぶりの姉ちゃんの顔をまっすぐ見た。
「ばあちゃんが死んだときも帰ってこなかったくせに」
 今度は姉ちゃんがオレを瞠った。

   *

久野 早季 様

前略
 八月二十六日に判決があり、懲役十ヶ月となりました。国選弁護人の話では、こちらが一方的に手を出した上、全治三ヶ月の怪我を負わせているので、妥当な結果との事。しかも裁判所の温情で未決勾留日数三十日を刑に算入されているだけましだと言う事です。
 たとえ控訴しても、裁判を長引かせるだけでこちらに有利な判決が出る可能性はまず無いとの事なので、しない心積もりです。
九月十日に刑が確定次第、札幌刑務所に移送となります。
 前回のお手紙にも書き認めましたが、アパートの部屋の方、今までと変わらずそのままにして置いて下さいます様、くれぐれもお願い致します。
 それからもうひとつ、只でさえご迷惑をお掛けしている身で恐縮ですが、お願いがございます。
 実はあれから、妻の明石エナと連絡が取れず困っております。家賃の支払いに伺った際にでも、私が連絡を取りたがっている旨お伝え頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。
                                 草々       
平成九年八月二十七日
                          明石 多果夫

   *

「ばあちゃん、死んだの……?」
 姉ちゃんは小さく洩らすように訊いた。
「いつ?」
「去年の七月十四日」母さんが答えた。
「去年……」姉ちゃんはつぶやくと、「お葬式は?」
「お葬式はしなかったんだよ。だからこのあいだの一周忌も、家族だけで済ませたんだよ」
「なんで」
「密葬だったの。献体に出したから、お骨もまだないし」
「けんたい?」
「ほら、医大の学生さんたちに勉強のために自分の遺体を提供するやつ。ばあちゃんそれに登録してたの。密葬も、全部、ばあちゃんの遺言書通りなんだよ」
「そんな……。そうなの……?」
 それからしばらく、皆黙ってそうめんをすすり続けた。食い終わる頃、姉ちゃんが言った。
「ばあちゃんちに行きたい」
 オレと姉ちゃんは母さんの運転する車に乗りこみ、父さんは庭仕事と昼食の後片付けのため家に残った。父さんの本懐は皆知っている。ばあちゃんの家に行きたくないのだ。
 ばあちゃんちは、姉ちゃんの逃げ場でもあった。学校をサボっては入り浸っている姉ちゃんをたしなめるでもなく受け入れていたばあちゃんを、父さんは「和美がああなったのはお義母さんにも原因がある」などと言ってひそかに嫌っていた。ひそかに、とは本人が思っているだけで、わかりきったことだった。
 車窓の風景は住宅地から大仕掛けに農業を営む土地に変わり、広がる農地に巨大なロールケーキのような牧草を巻いたのが点在していた。農地に挟まれた未舗装の砂利道は、変わる余地もなく、変わる未来も感じさせずに、まっすぐ地平線の向こうまで続いている。そして平坦な田地と雑木林の境に、ばあちゃんちが見えてきた。
 砂利道と交差する小さな川のあちこちから、灌漑用水路が周囲の田地に引かれている。その小さな川に架かるコンクリ製の橋を渡ったところに、ばあちゃんちはあった。
 母さんは車を橋の手前で駐めた。生え放題の下生えが庭の駐車スペースを浸食していた。手入れをしない庭や畑はたった一年で野生化し、雑木林の葉叢との境目があいまいになっていた。
 車をおりた姉ちゃんが、主を失った家を立ち尽くして見ていた。家はまるで森に突如現れた、
「おばけ屋敷みたい……」
 かちんときた。オレも同じことを考えていたくせに姉ちゃんには言われたくなかった。
「そうだねえ、そろそろ、草刈りに来ないととは思ってたんだけど」母さんが言った。
 膝まである下生えをこいで玄関に向かう。母さんは玄関フードのサッシを開きながら、躊躇している姉ちゃんとオレを振り返り「ん」と顎でもって、来い、と示した。
 なんだか他人の家に勝手にあがりこんでいる気がして、玄関扉の横の表札を初めて意識して見た。『久野繁男』とじいちゃんの名の横に『早季』とばあちゃんの名があった。
 こもった匂いが鼻をついた。
「窓、全部開けて」
 母さんに言われオレと姉ちゃんは縁側のシャッターに手をかけた。縁側は北海道の家屋には珍しいものだけど、関東出身のばあちゃんが家を建てるとき大工にリクエストしたものだった。
 土地柄雨戸ではなくシャッターが設置してある。真冬には落雪対策のため斜めに衝立を立てかけてシャッターを覆い、その上を雪が滑り落ちる仕様にする。しかしばあちゃんが亡くなった去年の夏から衝立をせずそのままにしておいたせいで、シャッターは冬の間の屋根からの落雪や降り積もる雪の重みで歪み、開けづらくなっていた。力いっぱい押しあげると、部屋はいっきに光で溢れた。
 粉砂糖をかけたようにほこりっぽい部屋と潤んだ下生えの緑が、縁側を境に、コントラストを作っていた。
 窓を全部開け放つと、居間に続く台所、洗面脱衣所、便所、廊下まで、いっきに外気が流れこみ、一階にこもった匂いが撹拌され薄まった。
 家のなかは荒れていた。台所の壁にはなにかが飛び散ったようなしみ。床はいたるところべたべたで、そうでないところも砂が吹きこんだようにざらざらして、新聞紙や生活で出たゴミが散乱している。
 荒れ様にしばらく絶句していた姉ちゃんが、口を開いた。
「なんで……こんなになってんの? なんかあったの?」
「なんにもないよ。ただ、ばあちゃん最期のほう、ちょっとぼけちゃったんだよ」
「ぼけ……?」姉ちゃんは初めて聞いた言葉のようにつぶやいた。
 ぼけはじめたばあちゃんに最初に気づいたのはオレだった。まだ雪が残る去年の春、冬の間乗れなかった自転車に乗って、久しぶりに訪ねた日のことだった。納屋の前に停めてある車に、ばあちゃんが出たり入ったりを繰り返していた。ぞっとした。すぐ母さんを呼んで家のなかを見ると、すでに、いまの荒れた家になっていた。まもなく要介護認定を受けたばあちゃんは老人ホームに入り、その四ヶ月後の夏、あっけなく亡くなってしまった。
 姉ちゃんはやっとばあちゃんの死にリアリティが出てきたようだった。同時に不満げな顔をしたのを、オレは見逃さなかった。それはまた、間であり、魔だった。待ってましたとばかりに言ってやった。
「勝手にいなくなった人間にはなにも言う資格ないから」
 姉ちゃんとメンチ切り合う。五年前なら考えただけで恐ろしいことだった。
 姉ちゃんとオレのあいだに母さんが割って入り、話を逸らした。
「ここ来る途中に、ばあちゃんがやってたアパートあったの憶えてる?」
「うん。……あ! なくなってた!」姉ちゃんはオレから母さんに視線を移した。
「そうなの。あそこら辺もなんもなかったのに、宅地開発するということで、土地も全部売っちゃってね。いずれ、ここまで開発されて新しい家いっぱい建つんだって。だからここも、まあそのうち、売りに出すかするつもり。壊して更地にするにもお金かかるし家ごと委託してもいいって考えてたんだけど……」
 母さんは家のなかを見まわして気軽な感じでつけ加えた。
「そうだ、カズ、ここきれいにして住めばいいしょや」
「なんで姉ちゃんがっ?」
 オレは自分でも驚くほど大きな声を出していた。
「勝手! それ、超勝手じゃね? 姉ちゃんにそんな権利ないよ! ばあちゃんが死んだのも知らなかったくせに!」
 オレはもう姉ちゃんなんか少しもこわくなかった。姉ちゃんは驚いていた。興奮して大声を出す弟を初めて見たのだ。
「ラック……」
「姉ちゃんが家にいるなら、オレ、帰んないから。オレがここに住む」
「もうやめなさい」
 再び母さんが割って入った。
「ちょっと言ってみただけだから、カズには東京の部屋がまだあるのに、そうなればいいなって、ちょっと思ったこと言っただけ。ね? だからもう、落ち着いて、ね?」
そして母さんが「帰るよ」と早々につけ足したとき、
 閃いた。
「掃除する」
 オレは記憶をたよりに掃除機を探しだした。
「なにを」
「掃除だよ」母さんが質すのを遮って、掃除機の本体から巻き取りコードをのばした。
「もう、やめなさい。今日は帰るよ」
プラグをコンセントに差しこんだ。
 が、動かない。
「電気きてないもの」母さんが言った。
 くふっと、姉ちゃんが笑った。オレは顔をあげることができなかった。悔し涙が滲んだ。母さんがまた「帰るよ」と言い、オレは「やだ」と言った。
「帰るよ」
「やだ」
「帰るよ」
「……」
「ラック……」
「姉ちゃんが東京に帰れ」
「楽美!」
 愛称でなく母さんに一喝されたオレはだんまりを決めこんだ。
「あんた、ひとりで歩いて帰ってきなさいよ」
 母さんはオレに鍵を渡し、姉ちゃんと出ていった。動かない掃除機とほこりの積もった床が潤んだ視界にぼやけて見えた。草を踏み遠ざかって行く母さんと姉ちゃんの気配。やがてエンジン音がし、車は砂利を踏み行ってしまった……。
 ひとりきりになったオレは開け放した縁側を背に、あらためて部屋のなかを見まわした。
 傾きかけた陽に照らされ、雑多なものたちが浮き彫りになり混沌が増したようだった。ものたちは変哲もない生活のための道具やゴミなのに、よく知った室内に散乱している図は現実味が薄まりシュールだった。小川と灌漑用水路の水音が絶え間なく耳へ流れ込んでいた。
 この家を徹底的にきれいにしてやろう。
 思いつきはオレを異様に漲らせた。
 とりあえず荒れ様の全体像を知るべく階段を駆けあがった。
 二階には三部屋。六畳の寝室と四畳半二部屋。溜まった熱気を逃がすのに全部窓を開けたが、一階に比べれば荒れた形跡は少なかった。拍子抜けした視線の先、窓の向こうに木造の納屋があった。
 母屋を飛び出し下生えをこいで納屋まで行くと、案の定、納屋のシャッターも簡単には開かない。冬の積雪の重みで歪んでいた。手掛に指を入れがに股に腰を落とし引き上げる。やっと腰のあたりまで開いた。そこでオレはシャッターの一番下に両肩と両手を押しあて、膝と腰に力をこめた。軋みながら少しずつ開くとふっと抵抗がなくなり、あとは勢いのまま収納部に巻き込まれ全開した。
 がらんとなにもないのは、ばあちゃんの車があったスペースがぽっかり空いていたからだった。右の隅に農機具や除雪機。左の隅には屋根裏に続くはしご段。明りは奥まで届かず、薄暗いなか、オレははしご段をのぼった。屋根裏ははしごをあがりきったすぐそこまで、段ボール箱が山と積まれていた。
 いまはもうない、ばあちゃんが大家をしていたアパートの、店子が置いていったものたちだった。緩い管理につけこまれてはよく夜逃げされていた。捨ててしまえばいいものを律儀に処分せずに取ってあるのだった。
 屋根裏の天井は建材が剥き出しになっていて、腰を折らないと進めないほど低い。小窓から幽かな明かりが射すなか、段ボールの小山を越えて奥へ分け入った。フォークギター、ガラスケースの日本人形、箱から溢れるほど詰めこんである衣服、ブラウン管テレビ、紐でくくってある古雑誌まで……。
 早くもオレは途方に暮れた。これはそうとう大変よ? さっきまで異様なほど漲っていたくせに萎える早さよ。
 と、視界の隅っこに、パシッ! 閃光が走った。フラッシュを焚いたような眩しさに反射的に身体を捻ると、
 小窓から、庭で畑仕事をしているばあちゃんが見えた。
 が、記憶にあった風景はすぐ風になびかれ波打つ下生えに戻った。小さな頃から知っている場所なのに、背筋が寒くなってくる。すでに足もとすら幽かで薄暗いどころではない。にわかにこわくなったオレははしご段を滑り落ちるように駆けおり納屋を出た。
 母屋に戻ると窓を閉め、縁側のシャッターを閉め、鍵をかけて飛び出すと、もう夜がはじまっていた。田地の蛙や虫のブーイングを浴びながら、砂利道をせかせか踏み歩く。振り返ると暗い空と雑木林をバックにしたばあちゃんち。まっ黒の二階の窓から、ひょっと白い顔が現れそうで、すぐ前を向いて歩を早めた。
 街灯の少ない暗い砂利道を歩いていると遠くに車のライトが見えた。迎えに来てくれた母さんだった。
「ちゃんと戸締りしてきたかい?」
 乗りこんだオレがうなずくと、母さんはそれ以上なにも言わなかった。
夕食の席にはまた、やたら明るい父さんと母さん、知らない女みたいな姉ちゃんがいた。

 ばあちゃんとは、母さんの母さん、つまり母方の祖母のことだ。
 父方の祖父母はオレが幼稚園児の頃、突然存在しないことになった。父さんが縁を切ったのだ。その辺の事情は話を進める上でややこしいので、とりあえずいまははしょる。
 ばあちゃんの話である。
 ばあちゃんは、四十八歳で未亡人になった。じいちゃんが癌で死んでしまったのだ。母さんはまだ十八歳。その二年後、母さんは二十歳で父さんと結婚した。以来ばあちゃんは二十三年間、あの家にひとりで暮らしていた。
オレはばあちゃん子だった。幼稚園児が補助輪つき自転車を漕いで、車でも十分はかかる田舎の砂利道をばあちゃん会いたさに日参した。と言っても、庭に続く雑木林で虫捕りしたり、捕まえたクワガタを戦わせたりして過ごすだけだった。ばあちゃんは煙草を喫みながら、採ってきた山菜を新聞紙にひろげて保存食にするための下ごしらえをしたりしていた。
 ばあちゃんに訊いたことがあった。
「ばあちゃん、ひとりでさみしくないの?」
 オレの質問にばあちゃんはふっと笑った。
「お父さんかお母さんがそんなこと言ってたの?」
 オレは素直に「うん」と答えた。
「さみしくない。全然さみしくないよ。気が楽でしょうがないよ。あたしはあんたたちのお母さんのこと大事な娘だと思ってるし、お父さんのことも嫌いじゃないけど、娘が作った家族のなかに入って暮らすくらいなら、いまのほうがよっぽど、気が楽」
「ふーん?」
「じいちゃんがちゃんとした仕事に就いててくれたおかげで年金もたっぷりもらってるし、遺してくれた土地と不動産収入もあるし、親戚もほとんど死んじゃったし、煩わしさから解放されてひとりでいるいまが、ばあちゃん、幸せなんだよ」
 オレはわからない顔をしていたんだろう。そんな孫をにやにや見ながら、ばあちゃんは、
「お父さんとお母さんに言っといて」と言った。
そんな会話の記憶がおぼろげに残っただけで、六歳だったオレが両親に話して伝えることはなかった。
 ばあちゃんはいつもひとりだった。行きたいところには自分で車を運転して行き、のんびりやりたいことをして生きているように見えた。
 そんなばあちゃんがオレも姉ちゃんも大好きだった。

   *

久野 早季 様

前略
 お手紙有難うございます。
 昨日、刑務所に移って初めて妻のエナが面会に来ました。久野さんの口添えがあったと言う事も聞いております。
 只、エナが私ども夫婦の問題まで久野さんに打ち明けていたとは、初めて知りました。
 父親になるのだからしっかりしなさいと言うお言葉、痛いほど沁みました。
 お心を掛けて頂いている分際で大変申し上げ辛いのですが、話が前後している様なので、私の方から、ご報告させて頂きます。
 八月三十日、エナは手術を受け、胎児の掻爬を済ませました。
術後体調を崩し入院が長引いたため、連絡が取れなかった様です。
 全て私の不徳の致すところではございますが、現状を鑑み、夫婦で決めた事です。
 よその夫婦に起こったさほど珍しくない一件と、どうかお忘れ下さいます様お願い致します。
 今更ではございますが、身重だったエナへのお心遣い、お礼申し上げます。
                          草々
平成九年九月二十日
                        明石 多果夫

追伸 アパートの部屋の方、引き続き宜しくお願い致します。

   *

「あんたまじでその頭で学校行ってんのー?」
 翌朝、制服でリビングに現れたオレの頭を指して、姉ちゃんがげらげら笑った。父さんも母さんも各々朝の支度をしている。通常営業。いつも通りの朝に、五年ぶりに加わったクセに溶けこんでやがる。オレが処方された安定剤を飲んでいると、姉ちゃんが言った。
「あんた、ほんとにそれ必要なの? 誰だって病院に行ってナンカカンカ言えばてきとうな薬出るよ」
 返事をしないでいるオレに、姉ちゃんがさらに言った。
「自分でよく考えなよ」
「行ってきます」オレは姉ちゃんに一瞥もくれず家を出た。
 自転車を漕ぎながら考えた。
 わからない。
 正直な感想だった。眠剤のおかげか眠りは深く、朝方、癇癪を起したようにうなされて暴れることもなくなったけど……。
「よく考えなよ」姉ちゃんの声がリフレインした。
 学校にはオレの頭を指して嘲う者がまだ一定数いた。安定剤で頭がぼーっとして、そんなことで傷つくほど気が張り詰めることはなかった。それは良いことなのかもしれない。
 一学期最後の今日、予定では、終業式のあと男友達数人と他校の女子を交えてカラオケに行くはずだった。しかしそれはオレが「しりこだま」「河童」「落ち武者」になる前の予定だった。
 いちおう鞄にニットキャップを忍ばせていたのに、皆、オレの周りからそそくさと逃げるように散っていった。わかるよ、仲間というパッケージングに説明のつかないものが加わってしまうのは面倒くさいもんな。
「バカばっかりぃ。バカばっかりぃ」
 ニットキャップを被ってひとり自転車で帰る鬱展開も全然みじめじゃない。周囲に誰もいないのをいいことにオレは自然にでたらめな歌を口ずさんでいた。歌まで出ちゃって。これだって安定剤のおかげかもしれない。バカばっかり、バカばっかり、バカバカバァカばかりぃ、バカばかりぃ。
 歌いながら家に着くと、姉ちゃんが母さんの庭仕事を手伝っていた。
 母さんと同じ庭仕事用の恰好(つば広の麦わら帽子と長靴、日焼け防止の二の腕まである手袋)をして花畑に馴染んでいる姉ちゃんに、イラッときた。
 自転車を半地下のガレージにしまっていると、姉ちゃんがニットキャップのオレを指してまたげらげら笑っていやがった。オレは自室で制服から家着に着替えながら「バカばっかりぃ」と歌い続けた。
 着替えると昼食のため一階におりた。
 雪どけから初雪がちらつくまで続く母さんの庭仕事は夏のいま時分、一年で一番精が出る。母さんの作業を中断させないよう、オレは昼食を自分で用意することにしている。
 冷凍庫にホワイトシチューが入ったタッパーを見つけ、レンジに入れた。温まるのを待つ間トマトを切っていると、姉ちゃんがキッチンに入って来た。冷蔵庫を開け麦茶をグラスに注ぐ姉ちゃんの視線を背中に感じた。
 炊飯器から飯を大皿に盛り温まったシチューをかけ、トマトの皿とドレッシング、スプーンと箸を盆に載せ、キッチンを出てリビングへ行く。姉ちゃんがついてくる。オレはソファに腰かけテレビを点けた。
 昼のニュース番組を見ながら食事をはじめたオレの反対側の端に、姉ちゃんが腰かけた。オレはテレビから目を逸らさず食い続けた。熱々の白いシチューと飯をスプーンで口に運ぶ。バターの香りがほんのりするけど、旨みとか出汁の味が勝ってる。和食の汁ものっぽいうちのシチューは白飯によく合う。母さんのレシピのなかで、一、二を争うくらい好きなメニューだ。
「お母さんのシチューって、変わってるよね」姉ちゃんが言った。
 返事をしないオレをよそに姉ちゃんは続けた。
「ふつう、ホワイトシチューにしらたきとかゴボウとか豆腐って入れないじゃん。鶏肉じゃなくて豚バラだし。お母さんの作るシチューって、豚汁の具といっしょだもんね」
 それは知っている。うちのシチューは、給食で食べたのやあらゆる媒体で見聞きするものと違う。同じところはジャガイモとニンジンとタマネギぐらいで、姉ちゃんが言うようにあとは豚汁といっしょなのだ。いつだかオレは、母さんにその理由を訊いたことがあった。すると母さんは嬉しそうに笑い、「それはね、ばあちゃんがそうだったからだよ。だから母さんも、小さいときはシチューってこういうものだって思ってた」と教えてくれたのだった。
「あたしさ、それに気づいたの家出てからだったんだよね。無性にシチューが食べたくなって自分で作っても全然食べたかった味と違くて、なんでだろうって考えて、最初、それがおふくろの味ってことなのかと思ってたんだけど、そんなのじゃなくて、根本的に入ってるものが違ってたっていう」
 ふふ、と姉ちゃんがひとりで笑ったとき、オレは思わず「ふうん」と微かに応えてしまった。
「あるときふっと、ゴボウの匂いを思い出したんだよね。そしたらいっきになにが入ってたか思い出してさ」
 ほんとうによくしゃべる。やさしい声のこの女は誰なんだろう? 
 オレはほとんど食べ終わっていた手を止めて、姉ちゃんを見た。
 うわ、こいつ……。いい話してるつもりになってやがる。自分がどんな顔して語ってんのかわかってんのか? 
 オレは残りをかっこむと食器の載った盆を持って立ちあがった。いつもなら食器を洗っておくところをシンクに置いて水道水に浸けただけで行こうとした後ろから、姉ちゃんが訴えるような声を出した。
「父さんも母さんも心配してるよ。父さんと母さんのそばには、いま、ラックしかいないんだから」
「おまえが言うなよ……」
 オレは聞こえるか聞こえないかの声でつぶやき、階段を駆けあがった。

二.鬱展開に浸らないため立ちあがったオレは出会ってしまった


 夏休みがはじまった。
 携帯電話は沈黙を続け、なんの誘いも連絡もなかった。
 それでもオレにはやることがある。
「なにやってんの?」
 姉ちゃんに言われたとき、オレはキッチンで炊飯器に残っていた白飯に刻みネギと揚げ玉と麺つゆをまぜたのを握っていた。
もうさ、無視するから放っておいて。まじで。そういうシステムだって了解して。とは言わず、オレはふたつの握り飯を海苔で巻いてからアルミホイルで包み、さらにクロスに包んだ。それでも姉ちゃんは「どっか行くの? 遠足?」と絡んできた。
「ばあちゃんち、掃除しに行くんだって」リビングで朝刊のチラシをチェックしていた母さんが代わりに答えた。
 姉ちゃんはぎゃは! っと失笑し、
「弁当持ってクワガタでも捕まえに行くのかと思ったわ!」
 まじウッゼ! 構うものか、とオレが握り飯と水筒を持って玄関へ行くと「あれ、なんか本気っぽいんだけど」「気の済むまでやらせればいいのよ」「どうせ壊される家なのにー?」といった、女ふたりの遠慮ない会話が聞こえてきた。それを家のなかに押しこめるよう、オレは玄関ドアを力いっぱい閉めてやった。
 自転車のかごにリュックを突っこんでまたがった。リュックには昨夜のうちに工具箱から持ち出した軍手の束や簡単な工具類が入れてある。
砂利道の轍に沿って自転車を漕いだ。
 夏の陽が正午に向かって本意気になりかかっている。携帯電話を見ると九時半だった。ジーンズのポケットにしまった携帯は、沈黙のあまりデジタル時計と化していた。一瞬、胸の奥の怒りの球体が膨れそうになる。けどすぐに眩しい太陽に目がくらみ、明日からはニットキャップじゃなくつば付きのメッシュキャップにしよう、と気持ちを切り替えられた。
 容赦のないものが追ってくる。オレはそういうものから逃げている。夏休みに集中できることがあれば、そういうものから遠ざけてくれると思っていた。胸の奥の怒りの球体が膨らまないよう、なだめてくれると思っていた。
 それはとんでもない間違いだったのに。
 ばあちゃんちに着くと一階の窓を全部開けた。一昨日と同じ、混乱した家のなかをぐるり見る。やっぱり汚い、と思ってしまう。知らない家みたいだ。縁側から庭を望むと、この時間帯、雑木林が庭にいい具合に影を落としてくれていた。
 まずは草刈りだ。
 去年ばあちゃんが亡くなってからほったらかしていた庭の草木は旺盛に生い茂り、庭と雑木林の境をあいまいにしていた。どこから手をつけようか……。軍手を嵌めた手に鎌を持ち、玄関にあった古いゴム長靴を履き庭をうろついていると、遠くから、車が砂利を踏んでやって来る音が近づいてきた。
 車は家の前を流れる小川に架かる橋を渡ったところ、庭の下生えが迫ってこれ以上侵入できないあたりで停まった。
 車から見知らぬ男がおり立った。
 Tシャツとジーパンにビーチサンダルの男は、オレより少し年上くらいの青年のように見えた。が、直後そのたたずまいに妙なノイズが交じった。
「久野さんのお宅ですよね?」
 男が投げてきた必要十分の声量が、ノイズをあからさまにした。微かな腐臭が漂うほど熟れすぎた果物を思わせるその声は、甘苦く低く響いた。
「久野」はばあちゃんの名字だ。オレはうなずいて見せた。
「早季さんはいらっしゃいますか?」男は膝まである下生えをこいで近づいてきた。
 「早季」はばあちゃんの名前だ。オレは首を横に振って見せた。ばあちゃんはもういない。
 近づくにつれ、青年は幻だったことがはっきりしてきた。たぶん壮年とか言っていいくらいだろう。太陽の下、黒髪のそこここに白い毛が目立っていた。
 対して男の目には、暑さにニットキャップを脱いでいたオレ、「しりこだま」の異名を持つ河童のようなけったいな髪型のこどもが、緑のなか鎌を持って突っ立っているのが映っているんだろう。
 男はオレとふつうの声量で話せるところまで来ると、
「もう、こちらにお住まいでない……?」と訊き、「久野早季さんの御親戚の方ですか?」と継いだ。
「孫です」答えたオレは少し迷いながら、「ばあちゃんは去年死にました」と言った。
「亡くなった?」独り言のようにつぶやく男の声にも、オレはうなずいて見せた。
 男は仰ぎ、しばし静止した。それから取り繕うように姿勢を戻すと、
「ご病気かなにかで?」
「病気っていうか、突然……」涼しい木陰に立っているのに、ベタついたいやな汗が滲んできた。
「えっと……」思い出す。あの晩、病院から電話があり、母さんと父さんとオレが病院に到着したときには、ばあちゃんはすでに死んでいたのだった。
「脳出血でした。老人ホームに入ってたんだけど、いきなり、そうなっちゃって……。救急車で病院に運ばれて……」
 初めて会った他人にどうしてこんな話をしてるんだ? 変な感じ。こんなの大人みたいだ。こういうやりとりは父さんか母さんのすることで、自分は関係はあるけど関係のない、まだ、こどもなのだ。
「いや、あのね……」男は話しはじめた。
「おばあさんがやっていたアパートあるでしょ。昔、親戚が部屋を借りていたんです。今日はちょっと、近くまで来たので、ご挨拶に寄らせてもらったのですが……。そうですか。お亡くなりに……」
 そして男が顎に手をやったとき、オレは生まれて初めてのものを見た。
 大人の男の手。と思った。
 とたん、視線を巡らせるのを止められなくなった。
 顔の造作だけで言えばべつに大したことはない。背が高く頑丈そうな広い肩のうえに載っているのは美丈夫ではない。細い顎にアンバランスなくらい大きな口と厚い唇、崩れた歯並びが覗いていた。筋肉質でたくましい肩、Tシャツの半そでから伸びるしなやかな二の腕、肘から手首は、薄い皮下脂肪を被った青い静脈がでこぼこ浮き出て、怒張したちんこみたい。そして顎にやった手。骨ばった手の甲から伸びている指の節は太く出っ張っているのに他の部分は細く長く、デカくて迫力。
 大人の男の手。また思った。
「君は、ここに住んでいるの?」
「いえ!」
 観察していたのをゴマかすため元気いっぱいお返事してしまう。
「ばあちゃんちの、掃除してるだけです!」
「そっか……」
 男は家を見あげてからオレに視線を戻し「じゃあ……」と、静かに背を向けて車のほうへ歩いて行った。車が動き出し、遠く見えなくなっても、エンジン音が聞こえなくなっても、オレはしばらく木陰に立ち尽くしていた。
 それから鎌で草を刈っているあいだ中、男の身体の断片が浮かんでは消えた。
 自分にとって切実なものに接した気がした。同時に、深追いすることは止せと、頭の奥のほうではサイレンが鳴っていた。
 オレにとってあの腕、あの手は……。噴き出す汗が目に辛く沁みた。
 家に入り握り飯を食いながら、庭の草刈りは雑木林の影が庭に落ちる午前中だけにしようと決めた。
 午後からは納屋の屋根裏で段ボール類を検分した。
 段ボール箱を開けると、服やらの雑多な生活用品。手当たり次第に古めかしい服たちをいくつか出して拡げたりしていると、また男の断片が浮かんだ。
 そういえば、名前を聞くのを忘れていたのだった。

   *

久野 早季 様

前略
 突然の事に混乱しております。
 先日、明石エナの弁護士だと言う男が面会に来て、離婚届を置いて行ったのです。
 エナに手紙を出しても、戻って来て仕舞います。受け取りを拒否している様です。
 エナが何を考えて離婚届など寄こしたのか分かりません。行く当ても無いのです。当ての無い者同士だから一緒になったのです。
 エナはきっと、子供を産みたかったのでしょう。けれど私だって辛いのです。よくよく考えても、処置したのは正解だったと思うのです。
 これまで好き勝手に生きて来たつけがとうとう回って来たのかも知れません。
 泣き事の乱筆、お許し下さい。今の私には話し相手も無く、せめて手紙を書く事で気持ちを落ち着かせたいのです。
 エナの様子を見に行く様、佐々にも言ってありますが、久野さんの方でも、何かありましたら直ぐに教えて下さい。
 一体何が起こっているのか、皆目分からず途方に暮れています。
                            草々
平成九年十月十日
                          明石 多果夫

   *

 姉ちゃんも四日目には、弁当を作るオレになにも言わなくなった。
「行ってきます」
 ほっといてもらえればオレだってふつうにそれぐらい言える。
 上り框にかけてコンバースの靴紐を結んでいると、母さんが背後に立った。
「今日から電気と水道とガス、ばあちゃんちで使えるようになるから。業者さんが来たら立ち会いお願いね」
「え」
「だってあんた、こんな暑いのに水も扇風機も使えなかったら熱中症になるしょや」
「いいの? まじ?」
「電気つくからってあんまり遅くまでいたらだめだからね。そういうときは電話しなさいよ。迎えに行くから」
 母さんがリビングに戻ると、「甘いんじゃない?」と姉ちゃんが言っているのが聞こえた。忌々しく立ちあがり行こうとしたとき、「いいのよ」と母さんが答えた。
 玄関ドアを閉める間際、また姉ちゃんが言っていた。
「でもさ、意味があることなのかね?」
 草刈りをしていると間もなく正午になり世界が真っ白に照らされた。真下の影が黒い水溜りのようになっている。陽にさらされた身体の表面が痛くなってきたところで、草刈りはやめて屋内作業に移った。
 母屋の一階の荒れ方は、汚れているというより、死んでいるようだった。家が死んで、そのものの機能を果たしていない。大好きなばあちゃんが暮らしていた家がなぜこうなったかいちいち考えると感傷に浸ってしまう。ゴミはゴミと割り切って仕分ける。ゴミを縁側から庭に出して集める。ゴミのジャングルを掻きわけ伐採していくのが快感になってくる。オレは作業に没頭していった。
 今朝母さんが言った通り、台所の蛇口をひねると水が出てきた。初めは薄い紅茶のような色をしていた水も、すぐ透明な冷たい水になった。バケツに水を溜め、ゴミがなくなり露わになった床のぞうきんがけをはじめた。板張りの一階廊下と縁側をごしごし拭った。
 隅々まで完璧にきれいにしたい。そうなると居間にある家具は邪魔だ。家具の下に敷いてある絨毯を剥がす必要がある。ソファやテーブルを隣の台所に移動した。ストーブも煙突を外して解体し、台所に移した。
 織り模様のついた絨毯は汚れてしらっちゃけていた。端から巻いて剥がすと、その下は一面畳敷きだった。
 ものがなくなった居間はいっきに広く感じた。居間から縁側まで、すこーんと抜けるような空間ができた。空間は庭へと繋がり、家のなかと外との区別が消えたようだった。
 舞ったほこりがきらきら光るのを薄暗い台所からぼんやり眺めていると、ひとつ、目立って光る綿毛のようなのがあった。くるくる円を描いて浮遊したり、震えながら宙空の一点に留まったりしている。気流で生じる偶然にしては、まるで意志を持っているような。その光の綿毛が、ひゅんっと縁側の外へ移動した。オレに驚いて逃げるみたいだった。近づくと綿毛は一瞬光を増し、短い光芒を引いた。縁側まで出て仰ぎ見ると、すでに空高く、ゆっくりと昇るほうき星のように消えてしまった。
 オレはしばらくアホみたく口を開けて見てたけど、虫かな? と結論づけた。かかずらわるひまはない。
 居間は夕陽のオレンジ色に染まっていった。熱気もしぼみ、冷たい風が吹いてきている。
 そのなかで四つん這いになってひたすら畳の目に沿ってぞうきんがけ。なんとなく、
「しみったれてんな……」
 息を吐きながらつぶやいたけど、オレは楽しんでいた。結果が目に見える作業に愛着が芽生え、不思議と気分がアガってくるのだった。
 水も電気も通ったし、ここで暮らせるんじゃない? ばあちゃんのように、自由に暮らす。夢想すると、庭仕事の合間に縁側で煙草を喫うばあちゃんが現れた。
 ばあちゃんの真似ごとをしてみたくなった。
 なにもない箱のようになった居間の奥、暗がりになっている台所へ目を凝らした。無造作に移動した家具や解体したストーブの煙突のぼんやりとした輪郭。立ちあがり輪郭のひとつである飾り棚を漁るとあった。煙草セット。ライターと灰皿と、くすんだブルーと白のデザインの紙箱。ばあちゃんが喫っていたハイライト。
 一本出して咥えてみたけど、ゴツめの香水瓶みたいなガラスの置き型ライターは火花が散るだけで点火しなかった。燃料がないのかもしれない。 
 ライターの中身をよく見ようと暗がりから夕陽の射す縁側に出たところで、咥えていた煙草を庭の草叢へ抛った。なんと母さんの車がすぐそこまで来ていた。
 あわてて煙草セットを飾り棚へ戻した。車を停めておりて来た母さんが「すごいすっきりしたねー」と縁側から声をかけてきた。
オレは煙草を咥えていたのを見られてないかどきどきしながら、「う、うん」と、縁側に出ていった。
「今夜バーベキューするから、もう帰ってきなさい」
「バーベキュー?」
「明日も来るんだったら送ってあげるから、自転車は置いてきなさい。ほら、帽子被って、早く帰るよ」
 オレは言われた通りメッシュキャップを被り、戸締りをして、母さんの車に乗った。

 ガレージの前にはすでにバーベキューのセッティングがしてあった。見覚えのあるテーブルや椅子はオレがまだ小学生だった頃、キャンプで使ったものだった。庭先のバーベキューやキャンプは家族三人の思い出だった。姉ちゃんは家族行事に参加するような娘ではなかったので。
 テーブルには、ラム肉、エビ、塩むすび、ボウルいっぱい採れた、赤や黄や紫色のミニトマト、切り分けた野菜がそれぞれ皿に盛られ、ぎっしり並んでいた。
 トーチバーナーでバーベキューコンロの炭を熾していた父さんはオレに気づくと、
「おかえり、疲れたしょ」
「なんで今日バーベキューなの?」
「ジュース冷えてるから飲みな」
 オレの質問を無視した。母さんもそうだった。ナニかきなくさい。
 氷水を張ったバケツにジュースと、缶ビール。姉ちゃんの分なのだろう。父さんも母さんも酒は飲めない。たまに父さんがビールを飲んで顔を真っ赤にしているくらいだ。オレは両親と同じ下戸であるような気がするけど、なぜか姉ちゃんだけは平気でがぶがぶ飲むのを想像できた。
「手、洗ってくる」と家に入ろうとしたオレに、「いいから座ってなさい。ほら、もう炭もいい感じだから、座ってなさい」父さんは椅子に座るよう促した。オレは、周囲に漂っている空気、これからはじまる家族団欒的なものに、さっそくいたたまれなさを感じていた。
 黙って椅子に座ったオレに、
「もうすぐ来るから」と父さんが言った。
「誰が? 姉ちゃん? あ、姉ちゃんは?」
「だから、もう来る頃だから」
 父さんが言いかけたところへ、姉ちゃんが庭の目隠しになっている薔薇の茂みの向こうから現れた。と、続いて知らない男。低姿勢で会釈を繰り返しながらやって来るその男に、父さんはにわかにあわてて、「あ、いらっしゃい! はやかったねー。座って座って」と、身体を開いてテーブルの周りに並んだ椅子を勧めた。
「飛行機、夏休みだから混んでたでしょ。あ、なに飲みます? ビール? 東京と違ってこっちは涼しいでしょ」父さんが矢継ぎ早に話しかけるたび、異常に痩せて白い肌をした恵比須顔の男は、「あ、はい! あ、はい!」 と、細かい会釈を繰り返している。
 粉っぽい中年オヤジ……。オレの第一印象だった。
 玄関から母さんが小走りに出て来た。役者が揃ったようだった。
「和美、じゃあ紹介して?」母さんに促された姉ちゃんは男を手で示し、
「貫井薫さんです」そしてオレら家族に手を返して、「父さん、母さん、弟の楽美」
「楽美くん。会えて良かった」
 粉っぽいオヤジはそれでも、笑うと内側からほっくりとあったかい湿気が滲んでくるようで、不思議な心地好さを感じさせる男だった。
「お姉ちゃんの婚約者さんよ」母さんが言い、
「東京で、一緒に住んでるの」姉ちゃんが言った。
「ああ、そう」
 父さんをチラ見すると、まったくもっておだやかな顔をして火ばさみで炭をいじっていた。ほう、オレ以外は知ってたわけか。意味のねぇサプライズだなおい! 
 無表情の裏で毒づいていると、姉ちゃんが肘で小突いてきた。
「ちょっとー、もっと反応の仕方があるんじゃないのー?」
 すると、うふふ、オレ以外がさざ波のような笑いを立てた。
 別にふて腐れているわけじゃない。どういう顔をしていいかわからないだけだ。とりあえず、被っていたキャップのつばで顔が半分隠れているのが救いだった。
 そんな弟を指して姉ちゃんが言った。
「少しね、シャイなとこある子なの」
 皆、やはり一様にうふふ、貫井さんの恵比須顔が伝染したように脂下がっている。
「なにがシャイ……」オレのつぶやきはいそいそと飲みものを配る父さんの「じゃ、乾杯しましょう」にかき消され、オレの持ってるウーロン茶が入った紙コップにも、方々から乾杯、と打ちつけられた。
 キャンプ用の椅子に皆が座ると、父さんと母さんがコンロの網と鉄板に肉や野菜をどんどん載せていった。オレの周りで、団欒、のようなものがはじまってしまった。なんなんだこのノリは。姉ちゃんはやっぱり知らない女のようだし、粉っぽいオヤジが婚約者とか言うし、父さんも母さんもなにが嬉しいのかにこにこしているし、オレはひとり現実のなりゆきについてゆけずくらくらめまいがするようだった。
 と、薔薇の茂みの向こうから、「あら、カズちゃん? まーきれいになって。帰ってきたのかい? あら、もしかしてダンナさんかい? あらー」と、あらあら連発しながら近所のおばさんが登場した。
 夕涼みの散歩ついでに採ってきた山菜のおすそわけに寄ったというそのおばさんは、やはりあらあら言いながら姉ちゃんに「立派になってー。きれいになってー」と、ふつうに話しかけていた。それを見てオレは、な、なんてナチュラルになりゆきに溶けこんでいるのだ! と、近所のおばさんのスルースキルの高さに畏敬の念を抱いた。ここらの人間なら、姉ちゃんの家出も知っているし、狂犬のようだった姉ちゃんに少なからず吠えつかれたことくらいあるはずなのだ。
 近所のおばさんに話しかけられて脂下がっている姉ちゃんだっておかしい。あんたはこういうとき、まるっきり黙殺するか、「あ?」とドスを利かせた一声で無闇に威嚇するような女だったでしょ! まさかほんとに照れてんのぉ? オレは和やかな周囲を三白眼で眺めながら、黙々と焼きたてのトウキビにかじりついていた。
「いいわねえ。家族そろってねえ」そう言って近所のおばさんは退場した。
 気持ち悪い。偽物だ。けれどもそれは、なりゆきについてゆけないまだこどもの自分が感じているメランコリィだと、オレは言語化できないまでも、観念でわかっているつもりではいた。
 うなだれているオレに最初に気づいたのは、貫井さんだった。
「どうしたの?」
「なんか、吐きそう……」
 小さな声で答えた。食い過ぎた。所在なさに目の前でどんどん焼かれるものを片っ端から口に入れていたのだ。それでもオレはこれ幸い、「もう家に入る」と、その場から逃げた。
 母さんが出してくれた強力わかもとを飲んでリビングのソファで横になっているうち、オレはいつのまにか眠っていた。
 目を覚ますと父さんがテレビで野球中継を観ていた。父さんは身を起こしたオレに気づき、「まだ、気持ち悪いか?」と訊いた。「だいじょぶ」ほんとうに悪心は消えていた。
「もう平気だったら、外の片付け、カズと貫井さんがやってるから、手伝ってやって」
「えー……」オレは面倒くさいありありの態度を示した。
「ラック、まだ貫井さんと、ちゃんと話してないしょ」
「ちゃんと話す? なにを?」きょとんとしている息子に父さんは「おまえは……」とあきれ、「姉ちゃんと結婚するひとだぞ?」と言った。
 オレはてきとうに「あー」と返事をしたけど、父さんがなにを言っているのかよくわからなかった。
 外に出ると、姉ちゃんと貫井さんがバーベキューコンロのそばに並んで座っていた。コンロの炭はまだ赤く、そこだけ温かそうに灯っていた。姉ちゃんが、「もう大丈夫なの?」と言った。「ん」オレは畳んであったキャンプ用の椅子をひとつ開いて、自分もコンロのそばに座った。コンロを挟んで姉ちゃんと姉ちゃんの男と、対峙する。
「結婚するんだ?」
 オレは父さんの言っていたよくわからないお題目をさっさと済ませてしまいたかった。唐突に水を向けたオレに姉ちゃんは少し笑って、
「うん。東京に帰ったら籍入れるの」
怖気た。初めて見る姉ちゃんのメスの表情。隣の貫井さんはメスの表情に応え、細い目をさらに細くしている。カンベンしろよ。目で会話してやがる。
 シャイな弟の前ででれでれするヤツには爆弾を投下してやる。
「姉ちゃん」
「ん?」
「まだ、家のなかで爆竹したりしてんの?」
 姉ちゃんが中学生のとき、父子喧嘩の報復に父さんと母さんが寝ている寝室に爆竹を投げこんだことがあった。それを婚約者の前で言ってやったのだ。
 姉ちゃんと貫井さんがぽかんとしている。ヨッシャ! オレは心のなかでガッツポーズを決めた。ところが、
「やだー! そんなこともうしてないよ!」
 姉ちゃんは笑い、貫井さんも同じように笑うのだった。
 そうか。姉ちゃんがどんな娘だったか貫井さんは知っているのか。もしかして姉ちゃんがこんな、まともに見えるようになったのは、この、恵比須顔の粉っぽいオヤジの矯正によるものなのか? とたん、ふたりがどんなふうに知り合って現在に至ったか知りたくなった。野良犬を拾ってしまった手前、責任を持って調教し世話する感じだろうか……? オレの想像では、姉ちゃんと婚約者の関係に、愛、は埒外だった。
 爆弾の不発に鬱屈したオレは次の手に出た。
「うちに泊まるの?」貫井さんに訊ねた。
「いや、僕は、札幌にホテルとってあるんです。仕事の出張も兼ねてるので」
「ふーん。よかった」
「いやな子ね」と姉ちゃんが言った。
「だって、他人だもん」
 姉ちゃんの、はあーっ! うんざり、といったため息。貫井さんは困り笑いのような顔で、
「楽美くん」
「はい?」
「その髪、どうしたの?」
 さっき寝ていたときキャップを脱いだままだった。が、まさかこの空気のなかで訊かれるとは。オレが黙っていると、貫井さんは優しい声色でこう言った。
「いや、パンクな髪型しているから。かっこいいね」
「あんたに関係ねぇんだよ」
「てめえ……」
 低くうなった姉ちゃんの炭火に赤く照らされた顔に、憶えのある血に飢えた野犬を見た。コワイッ! 瞬時にオレは少年ラックに後退した。
「なにも訊くなって母さんに言われたから黙ってたけど、みんなあんたにどんだけ気遣ってるかわかってんの? 甘えんのも大概にしなよ」
「ごめんなさい」
 速攻で謝ったオレを見て、貫井さんは、あっはっは、と声をあげて笑った。すると赤く染まった野犬はみるみるもとの、オレにとってはまだ馴染みのないただのお嬢さんのような顔に戻って、貫井さんと一緒に笑った。
 オレは、あ、そういうことなのか、となんとなく得心がいった。笑った姉ちゃんは野犬になる前より、いくぶん機嫌の良い顔になっているのだった。
「バーベキュー、いまでもしょっちゅうやってんの?」
「は? これは、姉ちゃんと」オレは言いづらく詰まってから、「貫井さんのためでしょ」と答えた。
「あー……。そうなの……」
 夜風は冷たく、寒いくらいだった。虫の声が周りで響いて、貫井さんが「いいねえ」としみじみ言った。
「さ、片付けよっか」
 姉ちゃんが立ちあがった。
 片付けを済ませ風呂からあがると、通りかかった母さんの部屋のドアが開け放してあった。なかからお鈴の音が染みるように響いた。チラと覗き見た。姉ちゃんと貫井さんが、じいちゃんとばあちゃんの遺影に手を合わせていた。母さんもいた。線香の煙と母さんの声が流れてきた。
「戒名も位牌もいらないっていうのも、ばあちゃんの遺言書通り。あとはご献体からお骨が戻ってくるのを待つだけ」
 家に仏壇はない。母さんの部屋の小さなテーブルに、母さんの育てた花を小さな花瓶に生けて、ばあちゃんが使っていた湯呑に水を入れ、じいちゃんの位牌と、じいちゃんとばあちゃんの写真が立ててある、それだけ。
「そういう、つつましい最期って、理想だなあ」と姉ちゃん。
「なかなかできることじゃないよ」と母さん。
 リビングから、父さんが観ているテレビの音。野球中継は終わり、洋画の吹替になっていた。
 いずれ身内になる予定の他人に、うちはどういうふうに映ってるんだろう?

 磨きあげてぴかぴかになった廊下や、ものがなくなり見渡すように広くなった畳敷きの居間を見て、姉ちゃんが「もうこんなにきれいにしたのぉ?」と感嘆の声をあげた。
 朝、母さんに車で送ってもらうついでにガレージの奥でほこりをかぶっていたCDラジカセを持ちだしたところを姉ちゃんに見つかってしまったのがいけなかった。
「なつかしー。これ、むかしリビングに置いてあったやつじゃん」言いながら当たり前のように後部座席に乗りこんできたのだった。
「ついてくんなよ」
「いいじゃん。すぐ帰るから」
 姉ちゃんのてきとうな返事に、ウゼー、と思った通り、オレが作業をはじめても姉ちゃんと母さんはきれいになった縁側で勝手にくつろぎはじめたのだった。
 貫井さんは札幌にある出張先(結局、オレは姉の婚約者がなんの仕事をしているのか訊けないままでいる)で仕事らしく、姉ちゃんは夜までひまなのだという。知るかよ。かんけーねぇじゃん。オレが汗だくになって庭の草刈りをしているのを見ながら、姉ちゃんと母さんは優雅に駄弁っている。
「なんか、お母さん、満たされた気分」
「なにそれ。どうしたの」
「和美が貫井さんつれて来て、家族みんなでバーベキューとかして、そういうふつうなこと、ないと思ってたから。まともなこと。だから、満たされてるの」
「そっか……」
 作業に没頭しているふりをしていたオレにも、母さんの言葉は特別に聞こえた。……ふつうなこと。オレは、そういう満足を母さんにさせてやることができるだろうか。
「やりがい見出してんじゃん」姉ちゃんが声をかけてきた。
 図星。黙って手を動かしていれば結果が目に見える作業への愛着。見透かされシャクなオレは、
「別に見出してねーし。つーかひまなら手伝えよ」と言ってやった。
「安定期入ったらね」
「なんだよそれ……」
 またてきとうな返事しやがって。
 ……と、オレの裡がざわざわ騒いだ。あまりの不穏さに思わず顔をあげ母さんを見ると、あー、言っちゃった、って感じのおどけた顔。
「赤ちゃんいるの」姉ちゃんが言った。
「げぇ! まじでェっ?」
 とんでもなく忌まわしい事実を知らされたような気分に、素直に反応してしまった。そんな弟を見て、姉ちゃんは脱力したように「おいおい……」と言った。
「虐待とか、しそう」オレは言った。
「そういうこと言う?」
「ふつうに産む流れってこと?」
「そうだよ」
 ドン引き。まだ平たい姉ちゃんの腹をうたぐり深く見ていると、
「たしかに虐待は巡るとか聞くけど、父さんがしたことは……」
 言いかけて姉ちゃんがフリーズした。
 なんだ? 虐待は巡る? どっかで聞きかじった知識でエラそうに一席ぶつつもりが容量パンクしたのか? 
 オレが再び作業に戻ると、
「とにかく」姉ちゃんが再起動した。「ヒトがヒトを育てるのは大変で、みんなそんなお上品な教育を受けていたわけじゃないと思う」
 なにを言っているのかまったくわからないオレは、伸びた草を握って根もとから刈り取る、を繰り返していた。

   *

久野 早季 様

前略
 弁護士を通さないとエナと連絡が取れない事になりました。
 エナの様子や仕事の事など報告させていた佐々とも、何故か連絡が取れません。
 仮釈放まで三ヶ月程ありますが、身元引受人が決まらず困っています。釧路の方で水商売をしている旧くからの知り合いが申し出てくれたのですが、遠方で大変だから止めました。
 勝手ながら、引受先はお借りしているアパートに伺える近場でなくてはなりませんから。どなたか、そういう方はいませんでしょうか。
 近況ご報告まで。又お便りさせて頂きます。
                           草々
平成十年二月十五日                    
                         明石 多果夫

   *

 夏休みになって一週間が過ぎても、オレの携帯電話に友達からの履歴はなかった。それでもオレにはこの家がある。掃除をして次の段取りを決めて予定を立てて没頭できる作業がある。ばあちゃんちは救いだった。
 友達から誘いの声がかからないのは、このルックス、髪が理由なのは知っている。自分では変わったのは髪型だけだと思ってたけど、見た目の変化の影響は甚大で、そばにいるだけで変な目で見られてしまうらしい。一緒に購買にパンを買いに行くのも拒否られた。いまとなっては、そんなヤツら、つまり携帯電話のアドレス帳に名前が並んでいるだけのヤツらと、切れて良かったと思う。
 それなのに。作業中、ふっと例の、間は、滑りこんでくる。魔のタイミング。思考が忍びこんできて、手が止まってしまう。
 ヤツらと腹を抱えて笑い合ったり、くだらないことに熱中したり。ささいでくだらないことほど、胸の奥の怒りの球体が膨らんで苦しくなる。それをなだめるために、オレは作業中、音楽を聴くことにした。耳から入れた音で、魔が入りこむ余地がなくなるくらい頭蓋を満たしてやるのだ。
 CDラジカセにTSUTAYAで借りてきたCDをセットする。洋楽のロックコーナーでてきとうにそれっぽいジャケットを選んで借りたCDたちは、音数が多くひたすらやかましく、どの曲も同じに聴こえるような、良し悪しのわからない、いくら聴いても意味を結ばない、まくしたてる外国語歌詞が好ましかった。大音量で音楽を聴きながら仕事に没頭するのが快かった。
 そんな調子で作業しているところに、またもや母さんがやってきた。
「いくらなんでも、うるさ過ぎなんじゃないの?」
 近隣に家がないからといって、と言っているのだった。うるさいのには意味があるのに。そりゃ携帯電話に音楽入れてイヤホンで聴いたっていいけど、汗みどろの作業中耳に突っこむのはうっとうしい。しかしそういう諸々を説明するのも面倒くさい。オレは大人しく少しボリュームをさげた。
「なに。なんの用」
「んー。別にー」
 母さんは昨日と同じく縁側に腰かける。なんだよもー。帰れよ。
 居間の絨毯を洗っている途中だった。庭の下生えの上に広げた絨毯に、畑作業用の水道のホースから水をかけ洗剤を撒いてたわしで汚れをこする。洗い流すとくっきり、青を基調とした織り模様が現れた。
 オレが納屋から物干し台と竹竿を持って来て庭の真ん中に組み立てていると、母さんは刈り揃えられた芝生を確認するように、うろうろ歩きだした。
「なんでいるの。姉ちゃんは」
「今日は、貫井さんと札幌観光だって」
 組み立てた物干し台に洗った絨毯をかけると、竹竿が折れそうにしなった。水を吸いこんだ絨毯は重く、裾からぽたぽた水が滴っている。
母さんは「いいじゃん」と言った。「たまには。母さん、なんにも手出ししないから」
「いいけどさー……」しぶしぶ言うと、母さんは「ラックさー」と話しかけてきた。手ェ出さないけど口出してくるじゃん! オレはイラついたまま、「なにさ!」と返事した。
「ああいうのは、だめだよ」
「なに?」見ると、母さんはまだ下を向いたままうろうろしていた。
「ああいうときは、お姉ちゃんに、おめでとうって言わなくちゃ」
 ゆっくり歩く母さんの背中。
「ラック、もう少し、カズにやさしくしてあげて。あんた、もっとやさしくて、かしこい子だったしょや。母さん、がっかりするしょや……」
 外国人の喚き散らすような歌声とかき鳴らされるエレキギターの旋律のなか、母さんがしょんぼり立っていた。
「ごめん……」自分でもあんな態度どうかと思う。でも、止められなかった。忌まわしいなんて思っちゃうオレがどうかしてるんだ……。言えない言葉に、喉の奥がぎゅっとして、油断すると泣きそうだった。
 急に母さんがくるっと振り向いた。オレはあわてて顔を逸らした。目鼻が赤くなっているのが自分でもわかっていたから。
「ねえ、なんであそこら辺だけ草残してるの?」
 母さんが一画を指して言った。そこは畑のあった部分なので、納屋にあった農機でいっきに耕してしまおうと思って残しておいたのだった。作業しながらそう説明すると、
「ちょっと見てきていい?」母さんはすでに腰を屈めて物色しはじめていた。「これ、ギョウジャニンニクだわ」言いながら雑草を掻き分け根もとの赤い草をつみとっている。
「えー。それ食えんの?」
「火通せば大丈夫よ。あ、ちょっとちょっと、これ見て」母さんが足もとを指した。近寄って見ると雑草の間からにょきっと伸びている。アスパラだった。
「そこら辺あんま歩き回らないでよ!」駆け出した母さんは家にあがりこみ台所からざるや竹かごをいくつか抱え、また畑だった一画へ戻ってきた。
 TSUTAYAの「ハードロック/メタル」の棚で発見したジャケットの、頭に包帯を巻いた男が医療器具のように改造したフォークの先端を両目に装着させられ咆哮しながらガラスを突き破っている、説明だけだといかにもこけおどしの恐ろしさを煽る悪趣味みたいだけど、実際は繊細で美しい、真摯に映る写実的なイラストに惹かれて借りたCDから流れる少し高い男性ヴォーカルと、草叢にしゃがみこんでいる母さんのセッション。
「苺が生ってる!」
 Dynamite!
「これ、ミョウガの花じゃない?」
 Dynamite!
「立派なウド!」
 You’re Dynamite!
 雑草の隙間のたくましい成長ぶりが、園芸好きの導火線に火を点けてしまったようだった。母さんは茂った下生えを掻き分けてはうずくまるを繰り返し、それは日暮れまで続いた。
 オレは今日の目標だった居間の家具やストーブを磨きあげる作業を満足いくところまで終わらせた。
 母さんの様子を見に行くと、ざると竹かごに、雑草のなかから丁寧に選りとられたいろいろがこんもりと収穫してあった。
「アスパラ、ニラ、これはウド。フキ、ミツバ、ミョウガ、シソ。あー、今日来て良かったわ。あんたなんにも知らないで、全部刈っちゃうところだったんでしょ?」
「そうだけど」
「もったいないじゃないの」そう言って母さんは、畑についてはそれらの植物を避けつつ周りの雑草をむしるだけにするよう指示してきた。
「はー? めんどくせーよ」
「じゃあ母さんが毎日来てやってあげようか?」
 そっちのほうが面倒くさいわい。と返事しないでいると、
「ここは手をつけなければいいじゃないの。そしたら母さんたまに来てまたアスパラとか採っていくから」
 オレはしぶしぶ折衷案に従ったけれど、収穫した量に、「すげぇ。ほっといてもこんなに育つんだ」とあらためて素直に感心してしまった。
「これで今日の晩ごはん作れるわ」母さんが言いだした。
「これで? これだけで?」
「アスパラ、バターで炒めるでしょ、シソとミツバとミョウガはそうめんの薬味、フキは煮物、ウドは……これはもう育ち過ぎてあくが出て食べられないかもしれないけど、まあ、酢味噌で。それからニラはニラ玉でいいじゃん」
「ニラ玉いいねえ!」甘辛しょうゆ味のニラ玉は、オレの好物だ。
「じゃあ玉子切らしてたから、それだけ買って帰ろうか」
「オレ作るよ!」
 と、母さんはオレを見て、
「ラックのそういう顔、久しぶりに見た」
 お互い様だと思った。また、喉の奥がぎゅっとしそうになった。

 竹かごに盛られた苺やニラやアスパラが膝のうえ、車の振動に震えている。「宝の山」という言葉がオレの裡に浮かんだ。宝の山を手に入れた。アガる。植物と土の匂いが漂う車で、母さんとオレはなんだか少し浮かれていた。
 TSUTAYAも入っている巨大な複合施設型ショッピングモールに着くと、オレはメッシュキャップを被り、「待ってて」と車から飛び出しだだっ広い駐車場を要塞のような建物に向かって走った。店内をそのまま小走りで玉子のある食品売り場へ向かっていたときだった。
 視界の隅に映った。
 ヤツらがいた。携帯電話のアドレス帳の友人たち。ヤツらは季節の催事スペースにぎっしり並んでいる花火を物色していた。
 宝の山に泥水をぶっかけられたようだった。
 平気だ、と自分に言い聞かせた。まだ軽いかすり傷だ。だから、見つからないように迂回すればいい。
 オレは方向転換して遠回りの経路へ歩きだした。それなのに。
 絶望。
 方向転換した先に、ヤツらのひとり、椎名がいた。一目瞭然、気張った格好。買ったばかりと思しきかちかちのデニムに、ウォレットチェーンなんぞ。オレは椎名がそんなものをつけているのを、初めて見た。
「おー、なにしてんの」調子コイた歩き方でチェーンをじゃらじゃら鳴らしながら近づいてきた。
「買いもの」つぶやくと、玉子を買って母親の待つ車に戻るという行為がとてつもなくみじめな気がした。そのうえ、わざわざ迂回したせいで嘘をついているようなうしろめたさ。なんでオレがこんな気分に! 
 オレはキャップを目深に被り顔を隠した。
「これから花火するの。ほら、こないだの女子高のコたちも一緒に」
「ふうん……」
 それは、オレが誘われなかった終業式の日の放課後、カラオケに行ったメンバーのことらしかった。「ほら」じゃねーよ。オレは知らねーんだよ。
「よかったらくる?」
 言葉とはうらはらに完全な拒絶がありありと匂った。
 もうだめだ。かすり傷どころか、えぐられてしまった。
「や、いい……」やっと言い、椎名に背を向け、足早にその場を離れた。ほんとうは全速力で走りたいけど、逃げたと思われたくなかった。結果、競歩のように腰が左右にくねくね揺れる奇妙な歩き方になってしまった。
 遠くから前のめりになって腕をふりふり腰をくねくねものすごい速さで接近してくるオレに気づいた母さんは、なにごと? と運転席で身を伸ばした。
 くねくねするたび、情けなくて涙が出そうだった。

「頭痛いから寝る」家に着くなりベッドにもぐりこんだ。服についた土の匂いと、布団に染みたいろんな体液、こもった体臭。普段は意識することもない匂いを、布団のなかでスーハーした。
 手ぶらで戻ったオレに、母さんはなにも言わなかった。オレが言わせない態度をとっていたから。
 なんだか、消えたいなー、と思った。死にたい、とは違う。別に死にたくはない。けど、自分以外になりたい。アタラシクナリタイ。新しく? 新しいってなんだ? 
「もう寝てんの?」
 姉ちゃんの声と乱暴にドアが開かれた音。
 オレは布団のなか身を固くした。暴れる姉ちゃんの凶行を震えて聞いていた少年ラックのように。布団ごしに頭を指で突つかれるのを感じた。オレはそのまま固まっていた。「おい」ドスの利いた声がして、抵抗も空しく姉ちゃんに力づくで布団を剥がされた。この女には弟が昔日を思い恐怖しているなんて思いもよらないのだろう。
「今日さ、薫さんと札幌観光行ってきたんだわ。で、これさ」
 姉ちゃんは手に持っていたものを掲げ、
 どつかれる! オレは反射的に身を縮め両手で頭を庇った。
「なに……?」
 姉ちゃんはやっと、オレが怯えていることに気づいたらしかった。思い知れ。自分のしてきたことが弟にこんな反応をさせているのを。
 それなのに姉ちゃんはふふっと笑うとやさしい声色で、
「大丈夫だから」
 と持っていた箱を差し出した。電動のバリカンだった。
「おいで」
 庭の花壇の真ん中にある鉄製のアーチの下に、バーベキューのとき使った折り畳み椅子があった。クレマチスの絡むアーチのスポットライトが、折り畳み椅子をぽつん、と丸く照らしていた。ライトは暗くなってからも作業できるよう、母さんが設置したものだった。
 夜のお花畑でスポットライトを浴びたオレ。メルヘンチックな物語に闖入した河童。
 なにをされるかわかってたけど抵抗しなかった。
「まかしとけって」
 姉ちゃんはなんの脈絡もなくそう言うと、バリカンのスイッチを入れ、オレの頭を刈りはじめた。
 黙ってされるがままになっているオレの裡に、椎名たちが花火をしている光景が爆ぜた。いつもよりめかしていつもより調子コイて艶めかしい予感のなか海綿の充血をなだめつつ火花を散らしてはしゃいでいた。
「よし」と頭皮をかいぐりまわされる感触に相当短く刈られたのがわかった。渡された手鏡と、姉ちゃんがもうひとつ持って合わせ鏡をした。後頭部の渦巻いたつむじと、ボウズ頭のオレが映っていた。
 姉ちゃんは満足げに「かわいいかわいい」と言った。髪型はたしかに、オレにふつうに似合っていた。
 もうたえられなかった。鏡のなかの顔が歪み、涙が溢れ、
「うん、いい、けど、いやだ」声を出すとぽとぽと落ちた。
「なんでよ。なに泣いてんのよ」
「わかんない」いますぐ姉ちゃんの手からバリカンを取りあげ遠くに放り投げてしまいたかった。
「口で説明しろよ。おまえ、赤ちゃんじゃねえだろ?」
 赤ちゃん。姉ちゃんの胎にいるもの。いまはまだ平たい腹を見るに、現実味はない。
「姉ちゃん、ほんとうに赤ちゃんいるの?」
「ほんとだよ」
「すごいね」
「なにが」
 自分がなにを言いたいのかわからない。自分でもなにが? と思う。
 姉ちゃんはめそめそ泣き続けるオレを見てため息をつき、
「あんたって、わかんない」

三.ボウズ頭になったオレだったけれどアタラシクナリタイは遠い


 庭の草刈りも母さんに言われた畑部分、「宝の山」を除いてすべて終わった。経年劣化や積年の手垢、ほこりで汚れていた家具も、ひとつひとつ丁寧に、分解ができるものはばらして、隅々まで磨き、またもとに組み直した。やかましい音楽を聴きながら淡々と。
 壊して更地になるのを待つばかりだった家は、家具をもと通り配置した居間だけ見れば、いまでも健全に暮しが営まれているようだった。
 成果の実感は次の作業の糧になる。
 ばあちゃんが亡くなりいっさいがっさい当時のままほうっておかれていた家のなかで台所は一番の難所だった。(ちなみに一番腰が引けていた便所はきれいだった。ばあちゃんが老人ホームに入った直後に母さんが掃除を済ませていた。「これだけはね」と、母さんは言っていた。)特に冷蔵庫はいやな存在感を放っていた。電気が通ってからもコンセントは入れていなかった。
 いざ、冷蔵庫の扉を開けてみる。
 ほとんどの食材は原型をなくし、すでに液状化を通り越して干からびて、なんだかよくわからない茶色い塊が入ったビニール袋がいくつかあった。端っこをつまみあげると、染み出た粘液が乾いたのがこびりついていて、べりべり剥がれた。
 食材の屍たちが横たわる冷蔵庫内をおそるおそる検分しつつ、そのまま捨てられそうなものは、三重にしたゴミ袋に入れていく。分別に迷ったら燃えているところを想像できるかどうかで決めた。調味料などの中身も袋にどろどろ流し入れた。結果、四五リットルゴミ袋満々の恐ろしい袋詰ができあがった。これらが巨大なゴミ焼却炉で燃えてゆくところは想像できるけど、かつて摂取すれば体内の工場でカロリーに変換される食物であったことは、もう想像できなかった。
 天気予報の通り昼近くには今年一番の暑さになった。気温の上昇に比例してキツイ匂いもますます立ち昇ってきた。匂いと暑さとの戦いだったが、ゴミ袋を外へ出してしまうと開け放した窓から通る風がだいぶ匂いを流してくれた。
 空になった冷蔵庫は磨きあげても染みついた匂いが残った。冷やすことで匂いが薄まるのを期待しつつコンセントをプラグに差すと、ウゥーンと息を吹き返した。
 ぴかぴかに蘇生した冷蔵庫の横には、がびがびいろんなものがこびりついている流し台。かがんで下の収納部の引き戸を開くと、暗がりに大小の瓶詰が並んでいた。べたべたの床に四つん這いになってよく見ると、それは手作りの保存食や果実酒だった。果実酒の瓶は納屋や二階でも見かけた。ばあちゃんは生前、ひとりでどんだけ漬けこんでいたのか。もはや目的は保存ではなく作ることだったのだろう。
 保存食の仕込みをするばあちゃん。縁側に新聞紙を敷いて、山菜やら山の果物やら野草やらを拡げ、皮を剥いたり洗ったりしていた、静かな背中。
 食卓に瓶詰を並べてみた。天板を占拠してもまだ余る量で、大きな瓶の果実酒などは床に並べた。
 昼食の握り飯を食べながらひとつひとつ取り上げて見ていると、ガムテープのラベルに油性ペンで記した二年前の日付と「三升漬」の文字を発見した。
 蓋を捻ると、ぽんっと密封が解かれ記憶にある辛い空気が漂った。鼻を近づける。キケンは感じない。漬け汁に浸した箸の先を舐めてみた。うまい。飴色に漬かった具を箸で掬って握り飯に載せ、頬張った。咀嚼するたび飯と甘辛い三升漬の具が絡まって旨みが増し、三升漬と飯を交互に口に運ぶのが止まらなくなった。と、猛烈な辛さが時間差でやってきた。流しのシンクに屈みこんで水道水をがぶ飲みした。辛さに舌を噛むように息をしていると、CDラジカセから耳に心地いい不思議な旋律が流れてきた。世界一有名なバンドのCDだった。やはりジャケットに惹かれてレンタルしたのだった。耳に残る旋律が気に入って、リピートボタンを押した。
 さすがの天才四人組……。四人? 四人だよな? 思い出そうとしても中学のときの音楽の教科書に載っていた写真すらおぼろげだった。不気味な印象なのにやけにキャッチーなその曲に、癖になる心地好さに、最初ほんの鼻歌だったのがいつのまにかでたらめな英語をあわせ歌っていた。
 あ~るくおーざっろんりーぴーぽー!
 あ~るくおーざっろんりーぴーぽー!
 ……えりなりぐびにゃにゃにゃにゃーにゃー、
「ごめんください!」
 重く固い塊のような声に背中を打たれ飛びあがった。あわててラジカセを止めると、開け放した縁側の額装されたような庭の緑のなか、男は申しわけなさそうな顔をして立っていた。
 あの男だった。大人の男の手を持つ男。
 オレは流し台に寄りかかり、ばくばくいっている心臓を押さえた。なに驚かしてんだよっ! 舌打ちしたいのをおさえ、「なんなんスかっ?」と口に出るまま言った。
 男は縁側に両手をついて家のなかを覗きこみ、
「おー、頑張ってるね」
 なにが「頑張ってるね」だ、馴れ馴れしいヤツめ。思いながら、やはりその腕が気にかかった。見ていると苛立ちが不思議と鎮まっていく。
「良かったらなんだけど、全然、都合とかあると思うし、こっちが趣味で言いだしただけだから、気を遣わないで断ってもらっていいんだけど」
 投げつけられた塊はほぐれ、憶えのある声になった。微かな腐臭が漂うほど熟れすぎた果物を思わせる、甘苦く低い響き。その引力に縁側へ引き寄せられたオレに男は、
「お手伝い、必要ないですか?」と言った。
「おてつだい?」
「早季さんには、親戚がお世話になったし、良かったら、なんだけど」
 男はそれしか言わなかったが、どうやら、オレがいまやっているこの作業、ばあちゃんちの掃除に、協力したいと申し出ているようだった。
 はっきり言ってない。母さんでさえあんだけウザかったのにありえない。
「えーと……」オレはそれでもいちおう考えるふりをした。
「どうも、ありがとうございます。でも、いいです」言いながらダルくなる。断るのも面倒くさいんだからそんな申し出すんなよな。
 男は視線だけ下に向けなにか考えているようだった。汗で束になった髪の毛に滴が一粒伝っていた。なにぼーっとしてんだよ、帰れよ。なぜか突っ立ったまま動かない男に微かな恐ろしさを感じた。さっさとこの時間から逃れたくて、オレは男が立ち去るのを待たず、「じゃ」と小さくつぶやき背を向けた。
 ああ、さっきの曲はなんていうんだろう? あ~るくおーざっろんりーぴーぽー! 
「これ、良かったらどうぞ」
 振り返ると、男は持っていたものを縁側に置いた。
「ミルクプリン。うちで使ってる余りモノで悪いんだけど……」
 オレは足もとに置かれた白い小箱を見た。目の前の男は、縁側に立ったオレと同じくらいの目線になったせいか、前に対峙したときよりも若く見えた。プリン……? 余りモノ……?
「なに屋さん……レストラン?」オレが訊くと、男は少し笑って、
「会社で不動産扱ってて、そのプリンはうちで管理してるホテルのウェルカムスイーツ」
「ホテル……」
「ちょっと前にリニューアルした『Z』ってラブホテル」
 Zと書いて「ズィー」と読む。行ったことがあると吹聴しているヤツから聞いたことがあった。ラブホテル。現実味がないくせにやたら生臭いその単語は、男の声、甘苦く低い響きにいやに似合って臭みが増すようだった。その生臭さへのリアクションを知らないオレは、返す言葉もない。
「じゃ、それだけなんで」男は軽く会釈して縁側を離れた。
 あっ名前……、思ったが、追いかけて訊くことはしなかった。男の車が遠くなるのを、縁側に立って見ていた。
 どっと疲れた。オレは縁側に座りこむと、小箱を乱暴に開けた。透明のプラスチック容器。白いプリンふたつ。
 食器棚からガラスの皿とスプーンを出して洗い、皿にプリンを移した。つやつやの白い円錐台をスプーンで崩そうとしたところで、思いついた。
 リュックから小さなタッパーを取り出し、なかの赤いどろっとしたものをプリンにかけた。「宝の山」に生っていた苺を半殺しにつぶして砂糖をまぶし、一晩寝かせたもの。母さん直伝のすっぱい苺をおいしくいただく方法だった。出がけに母さんが「デザート」と、タッパーに入れて持たせてくれたのだった。ひとさじ口に入れると、甘酸っぱい苺が淡白なミルクプリンと溶けあった。
 小さな後悔。
 ぽつぽつ白髪の交じった髪に汗の滴が伝っていたあの男にも、食わせたかった。
 オレはまた、再び現れた男のことを誰にも言わなかった。

 いろんな色の花びらにくっついてはしたたる水の粒は透明な粘液のよう。
 オレは庭の隅にあるベンチに座って、花たちが粘液をからませきらきらしているのを見ていた。母さんがホースのシャワーヘッドから散水していた。薄暮のオレンジの光を反射する飛沫に包まれる母さんの横顔。託している、横顔。母さんが花にのめりこむようになったのは、姉ちゃんがいなくなってからだ。五年前のオレは、いない姉ちゃんに母さんを奪われ続けているようなさみしさを感じていた。
「ごはんできたよ」
 姉ちゃんが庭に出てきた。
 母さんは軍手や帽子を脱ぎながら、
「カズが夕飯作ってくれたから、今日は集中して作業できたわ」と、オレの隣に腰をおろした。
「母さん、こんなに花好きだったっけ?」と姉ちゃんが言った。
 弟が当時の孤独を思い出していたことなどわからないだろうが、せめて母さんが花に託している気持ちを想像するくらいできないのか?
 しらけたオレを見返す姉ちゃんの顔には、なんのわだかまりもなかった。そのままベンチに座ると、母と姉に挟まれ居心地悪いオレの顔を覗きこみ、
「あんた太った?」
「まじで?」だしぬけに言われ、オレは自分の身体をまさぐった。
「ぜんぜん太ってないよ。むしろシュッとしたんじゃない?」
 逆に痩せたのでは? という母さんの意見に、姉ちゃんは、「ああ、そっか」と得心し「たくましくなったんだ」と言った。
 たった一週間ほどの作業で、たしかにオレの身体は陽に焼けて艶を帯び、皮下脂肪が薄くなって筋肉がついたようだった。
「え~超やなんだけど~」オレはえらく辱められたような気がした。すると姉ちゃんは面白がって「気をつけなよ~。父さんのほうのじいちゃん、いかにも土方って感じのゴツイ身体してたけど、腹も出てたし肥満も入ってたじゃん。隔世遺伝ってあるからね」
 父方の祖父母の記憶は、まだ幼稚園児の頃のひどくおぼろげなものだったけど、それでも、力士のような固太りのシルエットは憶えている。
「やだなー。あんなん豚じゃん」とオレ。
「また、そういう言い方しないの!」と母さん。
「ぎゃはは!」と姉ちゃん。
「花の色が東京より濃いでしょ。昼と夜の寒暖の差が、花を濃く咲かせるんだよ」と母さん。
「ふーん」と姉ちゃん。
 花を眺めながら、夏のたびにこうしていたような錯覚。
 ありえない。
 姉ちゃんはついこの間までいなかったのだから。

 今日から補習授業がはじまる。一学期の期末試験で派手に成績を落としたせいだ。制服を着てリビングにおりると、「はい、これ」と姉ちゃんが弁当箱を差し出してきた。
「午前中で終わるし。昼はうちで食うから」
「えっ! そうなの?」
 姉ちゃんは弁当箱を宙に浮かせたまま、自分は高三の冬休み終日補習授業を受けていたと、ぶつぶつ独り言のようにつぶやいていた。
「帰ってきてから食べるから。ありがとう」
 なにも知らず弁当を作ってくれた姉ちゃんへ、自然と言葉が出た。
 自分の口から出てきたのが嘘みたいだった。
 言われた姉ちゃんも意外そうな顔をしていた。一瞬目が合った。姉ちゃんが嬉しそうに笑った。オレはあわてて目を逸らした。
 危なかった。笑い合うことはまだできない。オレは真顔が崩れないように意識しながら「行ってきます」と家を出た。
 夏休みの教室はなにかが変だった。
いつもより人数が少ないとか、違うクラスの生徒が混ざっているとか、そういうことじゃなく。オレに触れないようにしている級友たちの態度も夏休み前と変わらない。ボウズ頭になったのを、お? と見るくらいで、誰もオレに「おはよう」を言わない。そんなもんではなく、とにかくなんか変。
 気づいたのは授業がはじまってからだった。教室には、オレの携帯アドレスにも名をつらねる、かつてはいつもつるんでたヤツらもいるのに、椎名だけ、葡萄の房からぽろりと一粒転げ落ちたみたいに、まったくひとり離れた席で窓の外を見ているのだった。
 と、椎名が振り返り、こちらに目配せしてきた。なんだ? 思ったが、オレはすぐに配られたプリントに集中した。
 補習が終わり、さっさと帰ろうと駐輪場で自転車にまたがったとき、遠くから椎名がこちらへ小走りで来るのが見えた。
向こうのほうで、つるんでいたヤツら数人がこちらを窺っていた。ウカガッてんじゃねーよ気色ワリぃ。面倒くさい予感。
「今日、なんか用事ある?」
 追いついた椎名が訊いてきた。帰ったらいつものようにばあちゃんちに行く。だけど、「なんも」と答えた。
「マック行かね?」椎名が言った。
「あー」あいまいな返事をしただけでオレたちはショッピングモールへ向かった。玉子を買いに行って椎名と出くわした巨大ショッピングモール。ここらには高校生が立ち寄るところと言ったらそれぐらいしかない。オレがぼっちになる前は椎名含めヤツらとの王道コースだった。
 自転車を二ケツで走っていると、後ろの椎名が言った。
「髪、切ったんだな」
「ああ、うん、ボウズ……」
「涼しくていんじゃね?」
 大通りに出たところで椎名がおりた。
 自転車を押すオレと並んで歩く椎名はショッピングモールに着くまでなにも話さなかった。ので、オレもなにも言わなかった。
 マクドナルドでバーガーセットを買ってフードコートの席に着いたところで、やっとオレは訊いた。
「なんで椎名がハブられてんの?」
 教室や駐輪場でのヤツらの態度は、髪を切ったときのオレに対する遠巻きにただ様子を窺う感じと違った。あきらかな敵意や悪意を醸していた。
 椎名はテリヤキバーガーをもぐもぐしながら、ぼそぼそ話しはじめた。
 発端は一学期の終業式のあとのカラオケ合コンだった。知らない固有名詞や呼称の女子が何人か出てきたが、てきとうに受け流して聞いていた。つまるところ、その合コンで目をつけた女子が椎名とカブったヤツがいたと。で、椎名がその女子に、みんなで花火をした日に告白し、つきあうことになったと。それを抜け駆けだ卑怯だと非難されて、こういう仕打ちを受けていると。面倒くせーの極致じゃねーか。オレを巻きこむんじゃねーよ。
「それって椎名が悪いの?」いちおう訊いてやった。
「さあー。知らね」椎名は言ったあと一拍あけ、
「でもさ、オレがやんなかったら、やられてたことだろ? どっちみち、どっちかが選ばれるしかねーじゃん。早いもん勝ち、やったもん勝ちだろーがよー」
 勢いこんでまくし立てる欲望丸出しで理性の欠けた貌。昔話でつづらを独り占めしようとしたいじわるババァみてーだ。強欲ババァのつづらのなかには魍魎が詰まっている。蓋を開けてはいけない。原色のmothやwormがうごめいている。オレは目の前の食いかけのハンバーガーの断面から「ミミズバーガー」という都市伝説を連想し、気色悪さに閉口した。
 すると椎名が吐き捨てるように言った。
「おまえにはわかんないか」
 言い方は失敬だがその通りだった。
 オレが語るのならそんなのではない。少なくとも、いまは語りたくない。おいそれと語れない。語れないものに好きだの恋だの、そんなストロングな言葉を充てるのは恐れ多い。正直、おまえよく平気でそんな話、と思う。
思いながら固いシェークを頬がこけるほどストローで吸いこんでいると、カシャッ。籠った機械音。椎名が携帯でオレを撮っていた。
「なんだよ」携帯電話を手で払うと、椎名は「ショウちゃんに送っていい?」と、指先で画面を操作している。ショウちゃんとは、椎名が抜け駆けした(とされている)女子の名だった。
「はー? なんで」
「ラックのこと見たいっつってたから。でもおまえ、もうふつうにボウズだからなー」
「そうやってかげ口言ってたんだべ」
「ちがうって」椎名はへらへら笑っている。
「消せや。ショウゾウケンのシンガイ」椎名から携帯電話を奪い、オレは自分の画像を消去した。と、見つけてしまった。椎名は無邪気に「あ、それショウちゃん。かわいいしょ」と言った。楽しそうに花火をしている男女の画像。
 目の当たりにするとあっさりオチていく。なのに見るのを止められない。楽しそうに輝く、見知った連中の笑顔。見入ってしまっていたオレに、椎名が言った。
「おまえ、最近なにしてた? なんか陽に焼けてね? どっか行ってたの?」
「んー。べつに……」
 ばあちゃんちの掃除、とは言わない。言いたくない。
 オレから携帯を取り返した椎名が、つまらなそうに言った。
「おまえはひとりでも平気だもんな」
 平気なわけない。でもどうしていいかわからんし、そういう自分でもわかんないことを口に出してヒトに聞いてもらうなんて、やっていいことだと思えない。だいたい、言葉で説明できるなんて思えない。それができるなら……。
 言葉が出ないオレを見て椎名は、
「いいけどさー。どうでも」あきらめたようだった。
 あきらめなんなバカヤロウ! もっと掘りさげろよバカヤロウ! それにつきあえバカヤロウ!
 オレは自転車をかっとばす。バカヤロウバカヤロウ! 家に帰ると、姉ちゃんと貫井さんがいた。なにやってんだこいつらいつまでいるんだいい加減にしろよバカヤロウ! オレはキッチンに寄って姉ちゃんが作ってくれた弁当を持って二階の自室へ行き弁当をかっこんだ。甘い玉子焼き母さんのと違う味の知らない家の味の弁当バカヤロウ! 満腹バカヤロウ! しばらくベッドに横になったけど、大人しくしてられるかバカヤロウ!
 制服を脱ぎ捨て、ジャージのハーフパンツとTシャツになると、スニーカーで家を飛び出した。
 リビングの窓から、姉ちゃんと貫井さんがオレを見ていた。こっち見んなバカヤロウ! もうすぐ結婚するふたりに見送られ、オレはめちゃくちゃに走って遠くに行きたかった。
 オレは走った。バカヤロウバカヤロウと走った。一歩一歩、全身の肉が震える。すぐ息があがる。満腹で走ったため下腹が痛くなってくる。おさえながら走り続ける。こめかみがどくどく脈打っている。幹線道路の地平線の向こうに、紺色の夏の空が広がっていた。
 オレのそばを大きなトラックが追い越していく。
 腹痛ぇしうんこしてぇ。だけど背筋を伸ばして風を感じると、少しだけすっきりした。
 けど気のせいかもしれない。

   *

久野 早季 様

拝啓
 立春を過ぎたのも暦の上だけ。まだまだ寒さ厳しい毎日ですが、お変わりございませんか。
 手紙の受け取りを拒否していたエナですが、身元引受人の件で保護司が調整に行ったところ、すでに引っ越したあとで会えなかったとの事。書類提出のためにも新しい住所を突き止めなければならないのですが、それも弁護士を通して断られました。
 やはり早季さんに身元引受人になって頂くしかない様です。
 仕事で世話になっていた人間に頼もうかとも思いましたが、職業等いろいろ条件がある様で、早季さんの方が仮釈もしやすいとの事です。
 数日内に保護司がそちらに伺うかと思いますが、右、ご承諾頂ければ幸いに存じます。
 文末ながら、時節柄御身おいたわり下さいます様。
                            敬具
平成十年二月二四日
                           明石 多果夫

   *

 朝、オレと椎名は補習の教室で会っても、軽い挨拶をしただけだった。
 午後は予定通りばあちゃんちへ向かった。CDラジカセから作業用BGMのやかましい音楽が大音量で流れるなか、鍋や調理道具を、ひとつひとつ丁寧に洗っていく。食器はほとんど捨てることになるのだから洗う必要ないと母さんから言われていたけど、オレはすべてきれいにしたい。
 食器洗いにひと区切りつけ、居間に積んだいくつかの段ボール箱を開けてみた。薄暗い納屋の屋根裏がなんとなくいやで、数日前から少しずつ移動しておいたのだ。
 箱の中身を仕分けていると、不自然に膨らんだ黒い革財布が出てきた。
 なかにはカード類がぱんぱんに詰まっていた。数枚しかないキャッシュカードは、よく見るとすべて名義人の名前が違った。その他ほとんどがスナックやキャバクラのホステスの名刺だった。
 二つ折りにしたピンクの厚紙でできた『警察手帳』を開くと、
『COSTUME CLUB セクシーポリス 担当刑事 エナ』
 とあり、その下に手書き文字の『また来てね♡』。
 コスチュームクラブ……。担当刑事のコスプレ……? デカに制服ってあるの……? 担当デカのコスプレとは……? 想像しかけて空しくなりすぐにカード類を集めて黒い革財布に戻した。
 と、作業用BGMの隙間から電子の余韻。
 革財布を箱に抛り、リュックから携帯電話を出した。久しぶりで空耳かと思った余韻は着信音だった。画面に椎名からの着信履歴。すぐバックしようと画面に指を滑らせると、今度はLINEの通知が入った。
椎名「今夜ひま? 飲み行かね?」
 返信せず、帰り支度をはじめた。

 家に帰って改めてLINEを開くと、オレと椎名のトークルームに知らない名前からメッセージが入っていた。
ショウコ「7時に集合」おおた☆マリ「り」おおた☆マリ「ラッコも」椎名「ラックだから」おおた☆マリ「www」ショウコ「てかラックってなにwww」
 いや、そんなこったろーと思ってましたよ。椎名は現状、他の仲間を誘えないだろうし。
 プロフ画面のアイコンを見るに、椎名の言っていたショウちゃんとは、このショウコのことだろう。花火の写真のなかにこの顔を見た憶えがあった。おおた☆マリのほうのアイコンは、これは人間の顔? ってくらい加工が過ぎて原型がわからない。
 ヒトの名前に草生やしてんじゃねぇよ。オレは闖入者をトークルームに招待した椎名に怒りが湧いた。トークルームを非表示にしようとして、手が止まった。考えて、オレは椎名に電話をかけてみた。
「一寸一杯横丁に行くの?」
 一寸一杯横丁とは、地元の高校生には有名な飲み屋だった。どういう料簡か治外法権のように未成年にも酒を出すのだ。オレはまだ行ったことはなかった。興味がないではないが母さんがそんなことを許してくれるわけがない。正直にそう言ったオレに、
「そのあとうちに来ればいいべ。ただうちに泊まることにすれば?」わけもない、というふうに椎名は言った。
 言われたとおり訊いてみると、母さんはあっさり許してくれた。なんだか嬉しそうなのは、オレにまだ友達がいることに安心しているようだった。
 母さん、嘘ついてごめん。
 待ち合わせの駅に自転車で行くと、ウォレットチェーンをつけてニューエラのパチもんキャップのつばのうえにサングラスをかけた、いやな感じにグレードアップした椎名が待っていた。オレはまずキャップをひったくり、真っ平らのつばを真ん中から二つ折りにしてやった。「ああ!」椎名は悲鳴のような声をあげ、オレのメッシュキャップも同じようにしようとひったくったが、古着屋で買ったメッシュキャップはもともとつばに深めのカーブのあるデザインで被るというよりボウズ頭に載せてるだけだし痛くもかゆくもない。バカめ。
「オレのことば見世物にしようとしてるんだべ」
「おまえ、ほんとひくつな」
 椎名は情けない顔でつばを一生懸命平たく戻そうとしていた。
 一寸一杯横丁に入ると、椎名の後ろについて行った。初めてで物珍しいオレは店内を見まわした。小さなカウンターの屋台ふうの飲み屋が何件も並んで入っている。祭りの仲見世通りのようだ。そこここのカウンターに、同じ高校の生徒や地元の見知った顔がちらほらあった。焼き鳥屋ののれんを出しているカウンターに着くと、すでにショウちゃんとおおた☆マリが長椅子に座って待っていた。
「ショウちゃんと、マリちゃん」椎名がオレに紹介した。オレが「どうも」と微妙な笑顔のような表情を作って会釈すると、ひじきみたいな太く長いまつ毛のショウちゃんは「あー、はじめましてー。ラックでしょー。なに飲むー?」と、なぜだか満面の笑顔で言ってきた。
 ドリンクメニューを見てもよくわからない。居心地悪く落ち着けないでいると、「椎名の友達か!」カウンターごしにこの焼き鳥屋の店主らしきおじさんが声をかけてきた。威勢のいい声に圧され、またも微妙な笑顔で会釈した。おじさんの人の良さそうな笑顔に、映画のなかでしか見たことのない、夜の人間とか裏の社会とかジョー・ペシとか、そういうヒトたちの持つ独特の癇症が透けてて少しこわかった。オレたちが未成年なのはもちろんバレているのだろう。おじさんと仲良さそうに話す椎名は、何度か来たことがあるみたいだった。
「あんま飲めないの?」話しかけてきたおおた☆マリは、すでに目の周りが赤かった。
「それ、なに飲んでんの?」オレが訊くと、ショウちゃんはビール、おおた☆マリは梅酒サワーだと答えた。一口ずつ飲ませてもらっても、どっちもうまいと思えなかった。が、梅酒サワーは知っている味だ。ばあちゃんが毎年漬けていた梅酒を飲ませてもらったことがある。青い梅のへたをつまようじで取りながら、「梅も女も、酒に漬けるにゃ若いうちがいい」とばあちゃんが言っていたけど、いまだにどういう意味かわからない。
 オレは梅酒サワー、椎名は「カシオレー」と注文した。
「ラックって、なんでラックなの」とショウちゃんが椎名に訊いている。
「名前が楽美だから」オレは自分で答えた。
「椎名くんに話聞いてたからどんなんだよって思ってたら、ぜんぜんふつうだよね」ショウちゃんが言った。
「なんかもっとヤバめなのかと思ってた」おおた☆マリが言うと、
「山田みたいな?」ショウちゃんが受けた。
「山田ってだれ?」椎名が訊くと、
「うちの高校に、耳にピアス十個開けて停学になったコがいてー」
ショウちゃんとおおた☆マリは、いきなり左右の耳に五カ所ずつピアスを穿って登校してきた「山田」という女子の話をした。耳たぶは赤く腫れあがり、透明樹脂のシークレットピアスが食いこんだ周りに血が滲んでいたという。「まじキモかった」「まじ吐きそうになったんだけど」ショウちゃんとおおた☆マリは言い、けたけた笑った。
 「山田」は以前にも突然金髪で登校してきたりで、すっかり校内のメンヘラキャラとして定着しているらしい。どうやら、椎名はオレのことを、その「山田」的な存在として説明していたみたいだ。
「てか山田、もう学校辞めるらしいよ」「はー? バカじゃん」そういう会話をしている女子ふたりを、オレは、死ねばいいのにと思いながら見ていた。「山田」がおまえらになんかしたのか? なんで椎名はこんなヤツ好きなんだろ。
 梅酒サワーを舐めながら聞いているふりをしていると、ショウちゃんが突然オレのキャップをひっぺがし、うなじの刈りあげを「ジョリジョリ~」と言いながら撫であげた。
「やめろよっ」
 思わずシリアスな声を出してしまった。女子ふたりはいきなり無口になった。ヤバイ。変な雰囲気になってしまった。
「ショウちゃん、ナンコツ揚げ好きでしょ? 頼む?」椎名はあからさまに機嫌をとろうとしている。
 別にオレ悪くねーし。いきなり身体に触ってくるとかキモいし。オレは意地でも取り繕うことはしないぞ、と梅酒サワーを呷った。
 数分後にはなにがきっかけか場は盛りあがり、雰囲気ももとに戻っていた。オレも椎名もあっけなく酔っぱらってしまった。
「ラックはさあー!」とおおた☆マリにいきなり馴れ馴れしく肩をつかまれても、もう不快ではなかった。
「実はかっこいいよね」おおた☆マリは言い放った。
「なんだそれ。黙ってろよ」
 多少スゴんでみたけど、無反応でおおた☆マリは続けた。
「目立たないタイプっぽいけど、よく見ると顔も整ってるし、てか、きれいな顔」
「ほんとう。女の子みたい」
女子ふたりにまじまじと顔を見つめられ、「うるせーな」オレはおおた☆マリをヘッドロックした。
「ヤバイー」ショウちゃんが携帯電話で撮りだしたので、椎名とふたりで変顔を披露した。女子ふたりは特有のキンキンした嬌声をあげている。
ものすごく顔が熱くて身体がふわふわする。初めての酩酊。椎名はいつの間にかショウちゃんのミニスカートから剥き出しの太腿に頭を置いて、うっとり目を閉じていた。
「おーい、だいじょうぶー?」ショウちゃんの呼びかけにも、椎名は応えない。
「タヌキ寝入りだろ」オレが言っても、椎名は目を開けなかった。まじで酔いつぶれてんのか? オレは少し不安になった。
「今日、オレ、椎名のうちに泊まるんだけど、どうしよう」
「うち、そろそろ親が車で迎えに来るんだよね」
「え、親が?」
「そー。マリも一緒に帰るの」
「それってオレらも一緒に行っちゃだめなの?」
「うちの親、酒飲むのはアリだけど、男の子つれてくのはさすがにナイわー」
 親の庇護のもと酒飲んで、しかも言うことも聞いてるわけか。オレはいっきに興醒めした。
 しつこく「あとでLINEするね」と言ってくるおおた☆マリを無視し「いーからさっさと帰れよ」と女子ふたりを追い払うように帰らせ秒で「ショウコ」と「おおた☆マリ」をブロックした。
 ショウちゃんの太腿がなくなっても椎名は固い木の長椅子の上、まだ横になって寝ていた。女どもが残していったカルピスサワーを飲んでいたオレの前に、店のおじさんが湯呑を置いた。熱いお茶の白い湯気。
「女の子帰っちゃったのか。おまえらどうすんだ? 家どこだ? 汽車の時間だいじょうぶか?」
「自転車で帰れる距離なんで。しょうがないからこいつもうちにつれて帰ります」
 とは言っても母さんに見つかるわけにいかない。家を経由して鍵をこっそり持ち出し、ばあちゃんちに行くしかないか……。
「自転車気をつけろよ。この時期、パトカーまわってるから」
 それ以前の問題だろうと思ったが、ビビったオレは「ショウちゃんは?」と寝ぼけ眼でほざいている椎名に、「帰るぞ」と言った。

 十一時を過ぎたところだった。自転車を押して歩くオレの後ろを、椎名がふらふらついてきた。
「あー、まじでやだ。まじできもいぅオロロロロ」吐いた。「おまえよく、あんなふうに正直に言えるよな」そしてまたオロロロロ……。
「なにがだよもう。きたねーなー。まじでだいじょうぶかよ」
 自販機で買った水を渡すと、椎名は歩道に座りこんで飲み、うなだれた。
「自分が童貞とかよー。キスもしたことないとかよー。よく言えるよなー」
 店でオレは女子ふたりに訊かれるままなんの経験もないことをぶっちゃけていた。ついさっきのことなのに、なんだか遠い記憶のようだった。
「だってしょうがないじゃん。ほんとうなんだから」
 言いながら立たせようと椎名の腕をつかんだ。ただでさえ家まで歩いたら三十分以上かかる距離、このままでは朝になってしまう。店のおじさんに言われたことも気になっていた。こんな時間、人気のない田舎の住宅地で座りこんでいれば、即職務質問だ。
「オレ、できねえ、おまえみたく、ほんとのこと、言えねえ。ショウちゃん、オレのまえにつきあってたヤツいたんだって」
 そう言って椎名はうううっと唸った。また吐くか、と身を引いた。 っつーか泣いてんじゃん! そんなことで泣くのか? てか、そんなに好きなのか? あの下手な化粧のちんちくりんが?
「ショウちゃん、処女じゃねーんだよ」
 オレは椎名が女子と交際経験があるのを知っている。ペッティングとやらの経験があることも。それでも童貞は童貞なのだった。
「でも椎名は言う必要ないじゃん?」
「いつかバレんべ」
「バレたっていいべや。てか、黙ってればバレないんじゃね? タイミングとかあるし、とにかくあの場で言う必要はないよね」
「でも、ふたりとも、オレを笑ってた」
「はー?」
 なんなのその自意識過剰。聞いているだけで悪心が感染するようで、オレまで気持ち悪くなってくる。
「はいはいそうだね、おまえ包茎だしな」
 おざなりな相槌を打つと、涙目の椎名がしらけた声で言った。
「おまえみたいのが友達でよかったよ……」

 家の灯りは消えていて、皆寝ているようだった。オレは音を立てないよう玄関ドアを開け、ふらついている椎名を上り框に座らせた。
 ぱっと灯りが点いた。
「あんたら、酒飲んでたね?」
 現れたのは姉ちゃんだった。
 テンパったこどもふたりは、静かに佇む女ににらまれて固まった。
 姉ちゃんはふっと吹き出すと、
「とりあえず、部屋に行く前に風呂に入んな。匂いがすごいから」
 椎名は初対面の女の迫力に圧され、気持ち悪さも手伝いまっ白い顔をしている。姉ちゃんは怯える椎名の脇に首を入れ背負いこみ立たせると、そのまま風呂場へつれて行ってしまった。
 シャワーの音と、椎名のえづき声が聞こえてきた。
 リビングではソファに座ったオレが、仁王立ちの姉ちゃんに見おろされていた。
「友達の家に泊まるんじゃなかったの?」
「なんか、なりゆきでつれて来ちゃったから……。ばあちゃんちに行こうと思って……」
「あんな状態の子をつれて? どうやって? 歩いて行くわけ?」
 オレはおそるおそる、微かにうなずいて見せた。
「バカかよ。野たれ死ねよ」姉ちゃんは怒っているようだった。オレはにわかに身を固くした。と、姉ちゃんが鼻をくんくん鳴らした。
「酒の匂い、焼き鳥の匂い、それから、女の匂い」
 どうしてそこまでわかるんだっ? オレは驚いて姉ちゃんを見あげた。
「父さんにバレたら、たぶん、泣くわ」姉ちゃんはふん、と鼻を鳴らし、「あたしなんて初めての朝帰りのとき、バイタ呼ばわりされて泣かれたかんね。中学生の娘にバイタて、笑えるよね」
 オレは笑えなかった。姉ちゃんも真顔だった。
「あんた、寝る前の薬、飲むんじゃないよ。ああいう薬は酒入ってると危ないから」
 オレは「はい」と返事はしたが、そういえばここ二、三日、飲むのをやめていた。飲まなくてもぐっすり眠れていた。
 目が覚めると、床に目覚まし時計が転がっていた。三時間くらい経っていた。ベッドの上、椎名がガキ大将ばりに大の字になって占領している。オレは床で寝たため固くなった身体をゆっくり起こした。ドアのところに、オレと椎名の服が畳んであった。
 オレたちが寝ている間に、姉ちゃんが洗濯して乾燥機にかけ、部屋まで持ってきてくれたのだった。
 早朝の冷たい朝靄のなか、自転車の後ろに椎名を乗せて駅まで送った。無人駅の駅舎には誰もいなかった。
「ラックの姉ちゃん、超いい人じゃん。かわいいし」
「そうかー? ああいうの、かわいいって言うかー?」
「……てか、姉ちゃんいたんだ」
 オレは友達に姉ちゃんの話をしたことがない。なので高校で初めて知りあった友達は姉ちゃんの存在を知らないのだった。
 まだ具合の悪そうな椎名は「今日補習休むわ」と始発に乗って帰っていった。
 オレはそのまま自転車でばあちゃんちに向かった。もともとそのつもりでばあちゃんちの鍵を持ってきていた。
 玄関扉を開いた瞬間、なにか、不自然な感じがした。昼間よりずっと静かなのに、誰かがいるような気配。
 見慣れない早朝の薄暗さのせいだ。自分に言い聞かせ、台所に行って水を飲んだ。
 ガサッ……。
 物音に振り返ると、昨日仕分けた段ボール箱があるだけだった。
 だいじょうぶだべ。いるとしてもばあちゃんかじいちゃんのおばけだべ。思いつつばあちゃんちを飛び出していた。
 仕方なく帰ったオレに、母さんは「あれ、椎名くんの家から直接学校行くんでなかった?」と言っただけだった。
 姉ちゃんは澄ました顔をしてキッチンでコーヒーを飲んでいた。

   *

久野 早季 様

前略
 この度は私の身元引受人になって下さり、本当に感謝しております。
 残す所二ヵ月、出所後の事ばかり考え暮らしております。
 ここに入る前に世話になっていた社長に使って貰うか、或いは、一緒に仕事をしていた佐々を手伝ってやるか、いずれにせよ、エナの居所を突き止めてからの話だと思います。
 出ましたら、御恩は必ず返させて頂きます。
 本当に有難うございました。
                        草々
平成十年三月四日                         
                         明石 多果夫

   *

 庭の草刈り、床磨き、居間の復旧を終え、難所の台所作業はまだ続いている。
 溶けて変形したプラスチックの容器がオーブンレンジに入れっぱなしになっているのとか、鍋を火にかけたまま忘れたゆで玉子が破裂してできたと思しき壁の跡などを見るたびに、ばあちゃんは正気に戻ることもあったけどやっぱりぼけていたんだ、と思い知った。
 ただ、元気だった頃のばあちゃんちを再現したいとか、センチメンタルな気持ちでやっているわけではない。
 少しずつ「家」の様相を取り戻しつつあるこの家、目に見える実感は、オレをぐっすり眠らせてくれる。「思春期外来」で処方された薬よりも、オレには効いているようだ。
 薬を飲まなくたって、いまはなんだかふつうだ。特別ではなくていつも通り。オレは戻ってきているのかもしれない。女医に言わせれば、心の風邪が治ってきている、ということかもしれない。
 ……なんて、単純に済めばいい。

   *

久野 早季 様

 エナを探しに行きます。
 見つけ次第出頭する事も考えましたが、私が刑務所に戻った途端、また雲隠れされるかも知れません。しかし出頭しなければ、刑期が終わらないまま一生逃げ続けなければなりません。もしかしたら保護観察停止となり時効が発生するかも知れません。私の場合、調べたところ時効成立まで五年かと思われます。
 いつとはお約束できませんが、晴れてお会いできるその日まで、あれを預かっておいて欲しいのです。
 あれは私とエナの未来を明るくする宝物なのです。
 御恩は、いつかきっとお返し致しますので、どうか私を信じて、お願いを聞いて下さい。
 この手紙は読んだら焼くなりして処分して下さい。
 勝手ばかりで、もう謝罪の言葉も見付かりません。

   *

 お盆にはまだ少し日があるが、今日は家族で墓参り。
 貫井さんの札幌出張が終われば、姉ちゃんは東京に帰ってしまう。その前に、ふたりも一緒につれて行くためだった。
 水を汲んだ桶を持って迷路のような墓地の敷地内を歩いていると、同じように桶を持った女が前を歩いていた。
 若作りの服装や髪型が痛々しいほど、腕や手はしみだらけで骨ばっていた。手前で曲がった先で女は桶を置いた。その墓に、他には誰もいなかった。ひとりの墓参り。それはどんな気持ちがするんだろう。未来のオレは誰と墓参りをするのだろうか。
 現在のオレが戻った墓前には、父さん、母さん、姉ちゃんと婚約者がいて、地べたにビニールシートを敷いて日除けのカラフルなパラソルを立てていた。
 桶の水を柄杓でかけて墓石を洗っていると、父さんと母さんが「さっき本家のお墓お参りしたときにもあった?」「近所の農家さんかね?」と言いあっていた。墓前に一本の青い瓶。うちの一家が来る前に誰かが供えていったものらしい。
「ワインなんてばあちゃんもじいちゃんも飲む人じゃなかったのに」と母さんが不思議そうに掲げて言った。
 父さんがろうそくに火を点けて、皆で手を合わせた。
 姉ちゃんと母さんは墓前のビニールシートに座り、フルーツ盛りをひろげている。庭で育てたミニトマトや、買ってきたぶどうやプラムがつやつや光っていた。
「ばあちゃんの骨は入ってないんだよね」姉ちゃんが言った。
「じいちゃんのお骨だけ。次男だから」と母さんが答えた。
「まあ、貫井さんも和美から聞いて知っていると思うけど……」
 父さんが話しはじめた。
 どうしてうちは父方の祖父母の墓参りをしないのか。
「自分の父と母が亡くなってからは、沢木の家とは、絶縁しているんです。だから親戚も、妻のほうとしかつきあいはありません」
 理由はオレも知っていた。
 母さんが姑や小姑の義妹たちからひどくいびられいじめられていたのだ。それが許せなかった父さんは、自分の両親が亡くなると、妹たち含め親戚とは一切縁を切ったのだった。
「家族は妻とこどもたちだけで良いと決めたんです。大切にできるものは少ないですから」
 そして父さんは「和美をよろしくお願いします」と、貫井さんに頭をさげた。
 父さんが絶縁した当時、オレはまだ幼稚園にあがったばかりで母さんが置かれた状況をわかってなかった。だけど七つ年上の姉ちゃんは、母さんが義母や義妹たちになにをされているか、きっともうわかっていた。どうしていままで、そのことに思い至らなかったんだろう。
「赤ちゃんが生まれたら、また来るからね」姉ちゃんが墓石に向かって言った。
 墓参りの最後に、デジカメを脚立にセットして皆で墓前に並んだ。
 もしかしたら、初めて全員が揃った家族写真かもしれない。

第二部「グッドラック」

   **

久野 早季 様

 逃亡中の身ゆえ、名を偽り、一方的な手紙になります事お許し下さい。
 エナはまだ見付かりません。
 血より濃い関係と言うものを信じて生きて来ましたが、幻想だったのでしょうか。
 恥ずかしながら、身元引受人になって下さると早季さんからお返事頂いた時、私は、何かしらの見返りを期待しているのでは、と疑いました。預かって頂いているあれを狙っているのではないか、とまで考えました。
 しかし、嫁ぎ先で辛い思いをされている娘さんとエナが重なって放っておけなかったと聞いて、納得したのです。娘さんが長子に女児を産んでから、姑や小姑からの排斥が益々非道くなっているとおっしゃっていましたね。男児でなかったばかりに姑や小姑から可愛がってもらえないお孫さんも不憫でなりません。
 今は何も出来ない身ですが、娘さんとお孫さんの幸せをお祈りしています。

   **

一.まだ手紙を知らねーオレはやっぱり鏡の前に立っていた


 鏡に映ったオレのはだか。変化していた。浮き出ていた肋骨に筋膜が張り、つるっと薄いだけだった腹にも胸からへそにむけて一本溝ができ腹筋が現れた。身体の中心には変わらずぶらさがっている。陰毛の紅茶色から淡いピンクのグラデーション。グラデちんこ。
 姉ちゃんに「たくましくなった」と言われたとき、恥ずかしかった。けど同時に、自分の身体がどういうふうに変わるのか興味が湧いた。
 アタラシクナリタイ。
 オレは夏休みの日課に夕食前のランニングを加えることにした。
 住宅地を走り抜け幹線道路に出る。いっきに景色が開ける。農地に挟まれた道路は、ずーっと地平線まで続く。それを覆うたそがれの曇り空は、ピンクと水色、その間の淡い紫を映している。
 走りながらオレは、こんな模様のTシャツが欲しいなあと思った。
 走るうちたそがれは青く色を増し暮夜になり霧雨が降りだした。遠くで爆ぜる音が聞こえた。そういえば母さんが「せっかくの花火大会なのにねえ」と言っていた。
 音の方向を仰ぐと、雨でけぶる空の花火は紗がかかって光の粒がまばらだった。片側半分しか開ききらないようなのもあった。
 四車線ある広い路面は雨に濡れ黒い鏡のようになり、等間隔の街灯の橙色をいつもよりくっきりと映していた。霧雨のなか、数台の車が行き来している。
 と、暮夜に覆われた農地に、ぽつん。鈍く白光しているのを見つけた。晴れたたそがれ時には気にもかからなかったのに、今日は曇った夜のはじまりに目立って見えた。それは飼藁を刈った平坦な農地に不時着したUFOのようだった。
 気をとられながら歩道を走るオレの斜め後ろを、いつからか一台の車が徐行していた。車がオレの右側につけたので見ると、
「あっ……」
 助手席の窓が開いた。「こんばんは」甘苦く低い響き。
 大人の手を持つ男だった。
 オレは小さく、「ども……」と会釈した。
「マラソン?」
「あ、はい」いや、ただひとりで走っているだけだから「ランニング」だろうか? 
「雨降ってるのに?」
「こんくらいなら、気持ちいいくらいだから……」
 走るオレの横を、男の車が並走している。乗用車が一台、男の車を追い抜いて行った。
「じゃあ、あの……」と、先の方向を指さして、オレは走るスピードをあげた。
「乗りなよ。送って行くから」
 男の声に、とんでもない、と上半身だけ振り返り手をぶんぶん振って見せた。
 霧のようだった雨が粒になり強く降りだした。
 遠く、開ききらない花火がフィナーレの連発をはじめた。
 男はもう一度、「乗りなよ」と言った。
 オレは立ち止って幾重もの半開の花火を見た。車へ一歩踏み出すと、男がなかからドアを開けた。助手席に乗りこんだオレに、男は後部座席からタオルを取って渡してくれた。身体についた水の粒を拭っていると、男が車を出した。
「なにかスポーツしてるの?」
「え、してない。ですけど」
「そうなの? 走ってるし、陸上でもしてるのかと思った」
「走ってるのは、」
 身体の変化に興味を持ったから。アタラシクナリタイ。そんなの説明できない。「趣味で」とだけ言った。
 ハンドルを握る陽に焼けた男の腕。オレの腕もだいぶ焼けているけど、全然違う。男の腕は表面だけでなく内側から火が通った焼け方みたいだ。
 オレは、アタラシクナリタイ。
「ここらの農家が管理してるのかな?」
「え?」訊き返すと、男はバックミラーを指した。遠く、さっきのUFOが映っていた。
「ああ、なんなんすかね?」
「DVDの無人販売でしょ? よくここ車で通るけど、昼間はのぼり立ってんだよね」
「DVD売ってんの? あんなとこで?」
「ちょっと寄ってみる?」
 男は面白いものを見るような目でオレを見ると、いきなりハンドルを切ってUターンした。
 路肩に停めた車をおりると、暮れきった空の下でさっきよりもずっと白く存在感を放っていた。農道か畑かおぼつかない暗闇のなかUFOを道しるべにずんずん行く後ろ姿を、オレもあわてて追いかけて行った。
 反射した雨が金色の針のように映るくらい近づくと、UFOなんてとんでもない、台風でもくればひしゃげてしまいそうな、ちゃちな作りの小屋だった。半透明のプラスチック製の波板を継ぎ接ぎした外壁がなかの灯りを通して、まるで小屋自体が鈍く白光しているように見えていたのだった。
 扉の煽り止めを外し、先に男が入った。おそるおそるオレがあとに続くと、なかには数台の自動販売機が並んでいた。乳、尻、腿、腰。柔らかな曲線の複合体、女のくねる裸体が陳列されていた。アダルトソフトの自動販売機。
 四畳ほどの空間はオレと男が入るともう狭くて、オレは目の前に並ぶ写真、いろんな恰好でいろんなことになっている女たちにも圧倒され、息苦しくなっていた。
 オレの耳もとに、男がささやいた。
「買ってやろうか」
 振り返ると、男は薄ら笑いを浮かべていた。反応を楽しんでいる。痛かった。胸の奥の怒りの球体に尖がったものを押しあてられた。
「どういうのが好き?」
 答えずうつむいていると、男はわははっと笑い、オレの肩をばしっと叩いた。
「なーに恥ずかしがってんだよっ」
 そういうふうに見えたのかと、オレはほっとした。
 男は一分ほど選んで買ったDVDを渡してきた。
『イキった黒ギャルを時を止める能力を得たニートがイジリまくってイカせまくる勇者となった件』
「良かったら貸して」男はまた、わははっと笑った。オレも笑顔を作ってみたけど、頬がひきつっているのが自分でわかった。
 車に戻って再び走り出すと、この男がラブホテル関係の仕事をしているのを思い出した。まだ知らぬ生臭さに、また息苦しくなる。
「プリン食った?」
「あ、はい。おいしかったです」
 固まりかけた血のような、半殺しにつぶした苺をかけたプリン。
「君のおばあさんの家って、いま、誰も住んでないの?」
「え? はい」
「いや、いま、久野早季さんの家のほう向かってるけど、君の家はこっち方面でいいの?」
「ええっと。方向は同じなんだけど……」
「じゃあ、ナビして。家の前までは行かないから。知らない人の車に乗って帰ったら、うちの人に叱られたりするんでない?」
 オレが女ならともかく、ずいぶんこども扱いされている。
 ほどなく近所になり、オレは「あれ」と、自分の家を指した。男は認めて車を停めた。
「おばあさんの家の整理は、君ひとりでしているの?」
「はい」
「そう。えらいね」と、男はダッシュボードから名刺を出してオレに渡した。
「DVD、飽きたら電話してよ。ホテルのレンタルで使うから」
 男の車が行ってしまうと、オレはDVDをハーフパンツの腰のゴムに挟んで上からTシャツを被せて隠し、名刺をポケットに入れた。
 雨はあがっていた。雲間から欠けた月がこちらを覗いていた。

   **

久野 早季 様

 全て合点が行き、ようやくご報告できる段になったので、お手紙致します。
 方々を調べ回るうち、佐々の悪い噂を耳にしました。どうやら会社の金を横領して雲隠れしたらしいのです。今頃どこかで殺されているに違いないと言う者もいました。そういう金に佐々は手を出したのです。しかし、佐々は生きています。エナが行方をくらました時期と一致するのが何よりの証拠です。

 これまで早季さんに隠していた事があります。
 私が仮釈放で出る直前、エナは子供を産みました。私が刑務所にいて手も足も出せないのをいい事に、掻爬したと嘘をついていたのです。
 弁護士からその事実を聞かされたのは、産後の肥立ちが悪いとかで入院していた病院から、エナが赤ん坊を連れて抜け出した後の事でした。
 病院には入院費やらの金を置いて行き、弁護士には着手金の二十万が振り込まれていました。エナは私が暴力を振るうのを材料に離婚訴訟を有利に進めようとしていたのです。
 かっと来て、あの女に攻撃誘発性があるのがいけない、と弁護士に口走ったのはまずかったが、今となってはどうでもいい。
 弁護士はこのままでは戸籍の無い子供になってしまいそれがいかに酷であるか能書き垂れたが知った事か!

 エナは子供をつれて佐々とにげた!
 おどろきだ! 女ばかりか兄弟にまで裏切られるとは!

   **

 不動産関係らしい会社名が印刷された名刺には、『佐々 聡作』とあった。オレは名刺とDVDを自分の部屋に置いておくのはなんとなくいやで、ばあちゃんちの納屋の段ボール箱、店子が置いていった荷物のなかにあったセカンドバッグ(その筋の男たちがなにを入れているのか始終大事そうに小粋に小脇に抱えているタイプの)に入れ、他の荷物に紛れこませるように隠した。
 今日はばあちゃんちに、母さん、姉ちゃん、貫井さんが来ていた。
 出張の終えた貫井さんと、姉ちゃんが東京に帰るのだ。仕事で行けない父さんの代わりに母さんが車で空港まで送って行くので、その前に寄ったのだった。
 姉ちゃんはこの家がどれほどひどい状態だったか(ビフォー)を説明し、貫井さんはオレがひとりでここまできれいにしたこと(アフター)に驚いていた。そんなふたりに褒められて、オレは悪い気はしなかった。
 きれいになった居間に通し、冷蔵庫で冷やしておいた麦茶を出した。ティーバッグもティーサーバーもグラスも、もともとあったものたちだ。
「このグラス、懐かしい。憶えてる」「もう、すっかりラックの家みたいね」などと姉ちゃんと母さんが話している。
「僕も時間があったら、なにか手伝えたら良かったんだけど」
「違うの。ラックは、ひとりで、やりたいんだもんね」貫井さんの言葉に、姉ちゃんが応えた。
 図星のオレは気恥ずかしさをゴマかしたくて、
「そうだよ。手出しすんじゃねーよ」と悪態をついてしまった。
姉ちゃんはイーッと歯を剥き出して、
「出さねーよ。もう帰るんだから」
 憎たらしい顔に「ブッサ!」とオレは笑ってしまった。姉ちゃんも笑っている。オレと姉ちゃんは同じ顔で笑いあった。
 ばあちゃんが暮らした居間で、母さんと、姉ちゃんと、姉ちゃんの婚約者と、笑いあう。不思議だった。
 帰ってきてからの姉ちゃんは、父さんと映画を観に行ったり、母さんと夕飯を作ったり、まるでもともとなんの問題もない家族みたいだった。また、めまいがしそうになった。現実感が遠退いていき、吐きそうになる。ヤバイかも。本格的に喉もとに酸っぱいものがあがりそうになったとき、姉ちゃんが言った。
「あたしが家出するの、ばあちゃん知ってたんだよね」
「え?」
 オレは母さんと貫井さんを見た。オレと同じく、黙って姉ちゃんの言葉を待っているようだった。
「家出する直前、ばあちゃんに相談したの。ばあちゃん、『止めないよ』って言って、『それほどのことするなら、絶対に帰ってくるんじゃないよ。その覚悟できてるのかい』って。あたしなんか、覚悟もなにも、ただ家から、地元から出て、自分のこと誰も知らないところに行きたいって、それしかなかったから」
 それはオレの、アタラシクナリタイ、と似ているのかもしれない。
「覚悟なんてできてなかった。できてたらばあちゃんに相談なんてしてなかったもん。そしたらばあちゃん、あたしのそういう半端な気持ち見透かしたみたいに、『困ったら、すぐ連絡するんだよ』って、銀行の通帳とカード渡してくれたの」
 そして上京した姉ちゃんは、保証人不要の部屋を借り、「いろんな仕事をして」暮らしていたのだと言った。
「ばあちゃんのカードを使ったのは一回だけ。身体壊して入院したの。仕事があたしに合ってなかったんだと思う。別の仕事はじめるまで、自分の貯金は病院代に消えてしまったし、お金に困って、ばあちゃんのカードでお金おろした。ばあちゃんのお金がなかったら、あたし、いまここにいなかったかもしれない」
 姉ちゃんは仕事のことも病気のことも詳しく言わなかったけど、オレは聞かなくてもいい、と思った。
 それから間もなく貫井さんと出会って同棲するようになり、もう心配いらないという一筆とともに、姉ちゃんは通帳とカードをばあちゃんに送り返していた。それが、上京して二年が過ぎた頃のことだったという。
 そうか。オレは思い出していた。中学一年の初夏だった。
 封筒には差し出し人の住所はなかった。ただ、姉ちゃんの名前と、東京のある町から出されたことを示す消印が押してあった。手紙の内容についてばあちゃんは、「元気でやってるって」としか教えてくれなかった。
「オレ、それ憶えてる。ばあちゃんのところに東京から姉ちゃんの手紙が来たって母さんと話してたら、父さんが帰って来て」
 三年前のそのとき、オレと母さんはとっさに噤んだ。
「どうした?」と呑気に訊いてきた父さんに、母さんが気まずそうに手紙のことを話した。父さんの顔がまっ白になった。帰って来てゼネコン会社のロゴが入った作業着姿のままかじりついていた白桃が、握りつぶされてどろどろとフローリングに滴った。
「ちょっとお父さんっ?」母さんが足もとに散らばるピューレ状の果肉をふきんで拭っている間、父さんはぐちゃぐちゃの桃を持ったまま突っ立っていた。口の端から溢れた果汁が襟まで垂れている。「あーもう、桃の汁はシミついたら取れないんだから」母さんに言われ着替えにバスルームに行く父さんは、白い真顔でゆっくりと動くゾンビになってしまった。
 父さんをゾンビにしてはいけない。オレと母さんは決心した。
「それ以来、姉ちゃんの話、家では御法度だった」オレが言うと、
「父さんって、普段はあんなにおっとりとした感じなのに、すごく烈しいところあるのよ」姉ちゃんは応えるともなく言った。
 そして姉ちゃんは、あの夜のことを話しはじめた。
 父さんは、姉ちゃんを殺してしまうのだろうか? 誰もいない家のなか小学生だったオレが不思議と安堵していた、あの夜。

 ガムテープで口を塞がれ手足を縛られた姉ちゃんは、車の後部座席に寝かされ毛布をかけられていた。
 姉ちゃんの様子を見るため母さんが毛布をめくったとき、車窓から見えたのはまったくの暗闇だった。ダンピングを繰り返しながら進んで行く。舗装された道を走っていないのだけはわかった。常夜灯もない漆黒の闇を、いったいどこに向かっているのか? 
「ほんとうにこんなところにあるの?」母さんの声。
 父さんの返事はない。「お父さん、」と再びの母さんの声に、
「おまえは黙ってろ」はっきりとした父さんの声。(父さんが母さんをおまえ呼ばわりするところなんて、オレは見たことがない。)
 すると、「カズ」父さんが姉ちゃんを愛称で呼んだ。しばらくぶりに聞くおだやかな声だった。
「これからどこに行くか、わかるかい?」
 後部座席の姉ちゃんは毛布の下で首を振った。塞がれた口にはタオルが詰められている。喉からぐぐっと変な音を出すことしかできない。
「ごめんな」
 おだやかな声で言われ、姉ちゃんの身体はがたがた震えはじめた。
 時間の感覚は消失して、家を出てからどれくらい経ったのかわからない。とにかく長い間、車は走り続けた。
 やっと車が停まりエンジンを切ると、周囲は無音となった。いきなり毛布が剥がされた。仰向けで見た窓の外に、白い壁が見えた。
 姉ちゃんは泣き叫びたかったが、ううっと、くぐもった唸り声にしかならなかった。
「ねえ、せめて……」涙声を詰まらせた母さんを、
「うるさい!」父さんが怒鳴りつけた。
 暗闇にぬっと現れたその白い建物は、壁に装飾が施され、おとぎ話のお城のようだった。
 姉ちゃんは父さんに担がれ運ばれた。もがきながら見た先に建物の入り口があった。鉄の門扉が迫ってきた。その先はまったく見えなかった。黒い布を張ったような闇。姉ちゃんは恐ろしさに目を閉じた。錆びついた扉の開く不協和音。力の限り暴れたが、父さんの力は緩まなかった。
 暴れ続けていると、浮遊するような感覚のあと、身体中に衝撃が走った。投げ落されたのだ。泣いていた姉ちゃんは後頭部化からぐるり巻かれたガムテープで口を塞がれていたので、鼻水が詰まって呼吸ができなくなっていた。苦しさに痙攣しているのに気づいた父さんがガムテープを剥がすと、ぶちぶちと髪の毛が抜けた。口に詰められていたタオルを引き抜かれ、水気のない唾液が糸を引いた。姉ちゃんは喘ぐように呼吸をし、目を開けた。目の前に、表情のない父さんの顔があった。
やああああああーーーーっ! ああああああーーーーっ!
 姉ちゃんはやっと叫んだ。父さんが持っている懐中電灯の明かりをたよりに、姉ちゃんは首を可動域いっぱい巡らせた。壁も床もコンクリート剥きだしの空間は、地下駐車場のようだったが、抜けの向こうは闇が迫ってきて、ほんとうの広さはわからない。
 ここはなんなのか? どこなのか? 恐ろしさに這いずって逃げようとした姉ちゃんを、父さんは背中を踏みつけて押さえた。
「カズ」うつ伏せの姉ちゃんの頭の上、父さんの声がふわりと被さった。踏みつけられたまま姉ちゃんが首を捻って見た先、見下ろす父さんの向こうに、三つの白い輪がぼやけて見えた。目を凝らす。焦点が定まった。白いロープだった。丸く輪が作られているロープ。吊るされた先は闇に溶けて見えない。姉ちゃんは悟った。
「やだっ! やだっ! やだっ!」
 姉ちゃんは必死に這いずった。足首を縛ったビニール紐が緩んでいる。夢中で足を擦り合わせると、片足が抜けた。立ちあがったそのとき、背後から物音がした。反射的に見ると、
 闇の彼方、幽かな光があった。
 出口だ! 姉ちゃんは全力で走った。
 少しでも光に近づこうと、両腕を後ろ手に縛られたまま必死に走る。バランスを崩し転びそうになったとき、後ろからタックルされ父さんに捕まった。父さんはそのまま上半身を締めつけるよう姉ちゃんを抱き上げ向きを変えた。後ろから抱えられた姉ちゃんの方へ、さっきの三つの輪が、黒い闇のなかに浮かんで迫ってきた。
 父さんは姉ちゃんを抱え、ゆっくりと、吊るされた白い輪のほうへ近づいていった。三つ並んだ輪。その真ん中の真下、足もとに木箱があった。
 父さんは姉ちゃんの首を輪に通すと、木箱の上に姉ちゃんをそっとおろした。ぎりぎりのつま先立ち。少しでもバランスを崩せば首が締まってしまう。
「父さんと母さんも、すぐ行くから」
「くそやろう」姉ちゃんは息を吐きながらやっと言った。
 父さんが木箱に足をかけた。
 時間が鈍く重く、進みがのろくなった。
 まるでスロー再生のようだった。父さんの髪が後ろから煽られたようにゆっくりと顔にかかり、白眼の部分がじわーっとピンク色に充血し、眼球が盛り上がり飛び出しそうになるのを、姉ちゃんは見た。
 そのまま父さんの身体は前のめりに倒れ、後頭部を押さえうずくまった。
 後ろから、懐中電灯を振りおろした姿勢のまま息を切らせている母さんが現れた。
 暗くぼやけだした視界のなか、姉ちゃんは魔法使いを見た。自分の首が縊られたロープの先が縛り付けられていたのは、魔法使いのステッキの先だった。喜色満面。頬の肉が丸く持ちあがるほど口角を引き上げた顔で振りかざしていた。
 目を開けると闇は消えていた。白い壁に薄い緑のタイルの床。嵌め殺しの小さな四角い窓から弱く光が射している。
 姉ちゃんは自分がうつ伏せに倒れているのに気づいた。起きあがろうとすると、身体中に痛みが走った。緊縛は解かれていた。
 薄暗い、長い廊下を、歩きはじめた。
 コンクリート剥きだしの壁も床もなく、建物のなかは、どこまでも白かった。
 麻痺したように、心のなかは静かだった。
 やっと外へ出ると、一面、どこまでも続く屋外駐車場だった。朽ちてひび割れたアスファルトのいたるところから、背の高い雑草が生えていた。夜明けの濃い水色の空に、七色の虹を模した大きな入園ゲートや錆びついた観覧車が見えた。崩れかけた遊具が、恐竜の骨格標本のようだった。そこは、太古に廃業した魔法の国のテーマパークの廃墟だった。遠くに、糸ほどに細く、高速道路の高架バイパスが確認できた。
 開けた景色に一台、車が停まっていた。そのそばで父さんが煙草を喫っていた。(父さんが煙草を喫っているところを、オレは見たことがない。)
姉ちゃんは父さんに背を向けたが、足がもつれて、もう走ることができなかった。
「まて、まて」父さんののんびりとした大きな声。それでも逃れようと、姉ちゃんはふらつく足で廃墟に戻ろうとした。
「かずみ!」
 母さんの声だった。振り返ると両手を広げた母さんが掛け寄ってきた。母さんの胸に、姉ちゃんは食らいついた。だいじょうぶだから、もうだいじょうぶだから、だいじょうぶ……。繰り返す母さんの胸のなか、姉ちゃんの震えは止まらなかった。

 姉ちゃんは、一点を見つめたまま話している。
「ラックに話せるようになるまで時間かかっちゃってごめんね。自分がどうしてあんなふうだったか自分でもわからないんだよね。いまだに。ただ、ここにいてもわからないまま、変わらないままな気がしてた……」
 そして姉ちゃんは、こう、話を結んだ。
「父さんの烈しさは、あたしを守るためだったんだって思うことにしたの。正しいかどうかは関係ないの」
 母さんを守るために、妹たちや自分の血縁すべてと絶縁した父さん。烈しさがないとできないことなのかもしれなかった。
 しん、と、間。魔の刻がおりた。神妙な顔の母さん、姉ちゃん、姉ちゃんの婚約者。なにこの緊張感。思ったとたん、こみあげてきてしまった。くくくっと、おさえられない笑いを洩らすオレを、三人が不思議そうに見た。笑いながらオレは言った。
「そんなことされて、自分はそういう親にならない自信があるの? 姉ちゃんに似たこどもが生まれてきたら、姉ちゃんも、父さんがやったみたいなこと、するんじゃないの?」
「楽美! またあんたはそういう……」
「ラックは母さんが思ってるほど、かしこくもやさしくもないみたいよ」母さんを遮って、姉ちゃんが言った。
オレはへらへら笑いながら、そう、その通り。と思っていた。
「人一倍繊細でヤワなくせに、平気でそういうこと言えるなんてただのクソガキじゃん」
 そして姉ちゃんの決定打。
「もうそういうの通用しないってほんとうはわかってるんだろ?」
 強い口調だったけど、姉ちゃんの表情はやさしかった。
 わかってるし、知ってる。なのに、ふつうにお説教されてしまった恥ずかしさに素直になれなかった。
「見え見え」と姉ちゃんが笑うと、母さんはほっと息を吐いた。貫井さんは恵比須顔をさらに緩めていた。
 母さんの車に乗りこんだ姉ちゃんがオレに言った。
「ほんとうに、会えて良かった。生まれたら、会いに来てね」
「次は何年後かね」
「生まれたら会いに来いっつってんじゃん」
 笑顔で姉ちゃんは行ってしまった。
 自分だけすっきりした顔しちゃってさ。クソガキのオレを置き去りにして行っちゃうのかよ。
 オレは新しく帰るところを見つけた姉ちゃんが羨ましく、さみしかった。

   **

 俺を裏切ったふたりの事、どうしてやろうかとじっくり考えています。
 釧路で風俗女を拾ったなどと俺をお人好し呼ばわりした奴らが居たが、まったくその通りだったと言う事でしょう。
 それにしても、俺が出たら、どうなるか考えなかったのでしょうか?
 俺がどんな人間かわかっていれば、逃げても無駄なのは承知のはず。

 家族を作りたいとエナは言っていた。ずっとひとりだったから、俺と一緒になることで、やっとそれがかなえられて、うれしいと言っていた。俺にはエナの言っていることがひとつもわからない。俺の服役中にガキを産むのは間が悪いからおろせと言ったが、シャバにいたとしても同じこと。ずっとひとりだったからこそ、家族を作ることになんの疑いも抱かないエナがわからない。家族になることで幸せになれると考える女の単細胞だ。

   **

 気づいたのは、姉ちゃんが東京に帰った次の日、納屋で作業しているときだった。
 あの男からもらった名刺とDVDを隠したセカンドバッグが、記憶とは違う段ボール箱に入っていた。ガチでおかしい。奇っ怪だ。
 奇っ怪なことは納屋の整理にとりかかってから、顕著になってきた。毎日なにかが移動しているような感じ。誰かがいるような気配。ときどき目の端に映る閃光……。そのたびに、出るとしたってばあちゃんかじいちゃんのおばけだと自分に言い聞かせてきましたが、基本そっち系は受け付けないのです。
 作業用BGMのCDラジカセを止める。今日に限って雑木林から蝉の大合唱がない。納屋の屋根裏は薄暗くひんやりしている。背筋が寒くなってくる。
 整理途中の段ボール箱をそのままに、DVDと名刺の入ったセカンドバッグをひっつかむと、飛ぶようにはしご段をおり、納屋から出た。いきなりの白い陽に目が眩み、
「お手伝い、必要ないですか?」甘苦く低い響きを思い出した。
 この瞬間、自分への言いわけができたのだった。
 オレは台所の床下収納から梅酒の瓶を取り出すと、グラスに氷を入れ、梅酒を注いだ。溶けだした氷の透明と梅酒の金色がグラスのなかでマーブル模様に対流していた。いっきに飲むと、冷たく甘い感触が喉を通って胃袋の形に収まった。
 バッグから男の名刺を取り出した。『佐々 聡作』の文字。見つめるだけで脇から汗がじゅっと漏れた。
 もう一杯、梅酒を呷った。
リュックから携帯電話を出し、名刺のmobile phoneとある番号にかける。コール音に鼓動が速くなる。
「もしもし」
 憶えのある声に、オレの緊張は頂点に達した。
「あ、あのっ!」声が裏返ってしまった。「あの……。久野早季の、孫です」
「あー、ははっ、誰かと思った」声が軟化した。「どした?」
「ばあちゃんの家の掃除やっぱ手伝ってもらえませんかっ?」オレは一息に言った。
「いいよ」
 携帯電話が手汗でぬるぬる濡れてきた。男の体温が伝わってくるようで、熱い。
 何時からはじめるか、必要なものはないかと訊かれ、しどろもどろになっていると、「じゃ、とりあえず明日、昼すぎに行くから」ということになった。
 人生が動いていると感じた。全身の血がぎゅんぎゅん巡った。 
 ……オレは、完全に酔っぱらっていた。

 翌日、ほんとうに男はやってきた。
 小川に架かるコンクリ製の橋で待っていたオレは、遠くに男の車を認めると大きく両手を振り、車を納屋の前に停めるよう誘導した。
 おりて来た男を見て、叫んでしまった。
「なにそれっ?」
 男の顔は、鼻から下が赤く腫れあがっていた。ただでさえ厚い唇がさらに分厚くなり、発情期のメス猿の尻みたいな色になっている。
「いや、間抜けな話、昨日ちょっと、酔っぱらって転んださ」
 開きづらい口で舌足らずの男は、右手には包帯まで巻いていた。
「まじで? 派手に転び過ぎでしょ」オレの心配をよそに、
「さ、はじめようか」と男は軍手を嵌めた。
「あの、仕事はいいんですか?」オレは自分でもどうかと思うくらいおどおどしていた。「いいのいいの」男は軽く応えた。
「じゃ、なにしようか?」
 納屋の屋根裏に案内し、作業の段取りを説明した。そこで男は「ごめん」と言い、
「名前、聞いてなかった」
「沢木です。沢木楽美」
「らくみくん?」
「ラックでいいです。なんか、みんなそう呼ぶんで」
「わかった。念のために訊くけど、わかるよね?」と、男は自分の胸のあたりを指した。
「佐々さん?」
「そう。言いづらいだろ」
 佐々は、オレが選り分けたものたちを次々と外に運び出した。
 途中、「そういえば」と佐々が言った。「おばあさん、なんかペットとか飼ってなかった? アパート借りてた親戚がさ、一時期預かってもらってたらしいんだよね」
 初耳だった。だいたいばあちゃんは、畑を荒らすからという理由で動物の類は好きではなかったはずだ。
「まあ、大昔の話だから、もう死んでるとは思うんだけど」
「それっていつの話ですか? 犬とか猫とか?」
「さあ……、知らないんだよね」作業の手を止めずに佐々が答えた。そして、「知らないならいいんだ」と言った。
今日は作業用BGMをかけなかった。黙々と作業していると、なにか話さなきゃ、と焦れた。
「いままでひとりで作業してたんですけど、ときどき、妙な感じがするんすよ」
「へえ? こわい話?」
「ちょっと違くて、なんつーか……」
 オレは自分から話をふったくせにやめてしまった。たしかにものが移動していたり、視界の隅に変な光を感じたりはするけれども、だけれども! ヒトにそれを話すのはどうなんだろう? 佐々に話して変に思われるのがいやだった。いま、ふつうに接してくれる佐々との時間を壊したくなかった。
佐々は「なんだよ?」と言ったが、それ以上訊いてこなかった。
 再び黙って作業を続けていると、突然、下のガレージからエンジン音が轟いた。はしご段の架かっている床穴から覗くと、佐々が草刈り機を動かしていた。
「そんなのどこにあった?」
「そこ」と佐々はいろいろな農機具がかたまって置いてある一画を指した。
「なんだ、苦労して鎌で草刈る必要なかったよ」
「あそこらへん、まだぼうぼうに草残ってるけど」
 佐々が草刈り機の回転刃の先をもとは畑だった部分に向けた。
「あそこは、宝の山だから」
「宝?」佐々が仰いでこちらを見た。
「や、大したアレじゃなくて。雑草の下に、苺とかアスパラとか、食えるもんがいっぱいあるんすよ」
 佐々は宝の山のほうを見ながら言った。
「ラックは、どうして掃除してるの?」
 どうして。退屈な夏休みから逃げるため、だろうか? だけど言いたくなかった。長い話になるし、どっから説明していいのかわからない。佐々に話して少しでも引いたそぶりをされたら、オチる。
「ばあちゃんが好きだったから……」無難に答えてみた。
「そうか。ばあちゃん子だったんだな」
 佐々の言葉にほっとした。いまはそれでいい。
 佐々が作業に戻ったのも束の間、
「うお! ほんもののお宝発見!」
 大声にビクッとなった。見ると、佐々が冊子のページを広げてこちらに向けた。曲線でできた裸体が迫ってきた。
「ビニ本てヤツ? すげえ年代もの。うわ、これなんか洋ピンじゃん」
 建材が剥き出しの低い天井の下、腰を折った姿勢のまま佐々が熱心にビニ本をぺらぺらめくるのを、オレは横目で見ていた。原色と古くさいデザインフォントで構成された安っぽい紙面。振り切ったダサさは、ひと昔まえを模倣したポップアートのよう。
 佐々はオレがまだ中身を確かめてない段ボール箱を開けて見ていたのだった。勝手に開けて、そんなもん見てんじゃねーよ。面白くない、と顔を逸らすと、
「ほら」佐々が押しつけてきた。
 なにがどうなっているのか? わからず目を凝らす。大写しの接合部。オレは反射的に身を引いた。佐々は気にもかけず見ている。
「おお。すげえ。ブスだなー。えっぐー」
 オレは背中を向け、作業に戻った。
「こないだのDVD見た?」
「あー……」オレはてきとうに声を洩らしただけだった。
 佐々はビニ本を段ボール箱に戻すと、やっと作業に集中した。
 男手がひとり増えただけで予想以上にはかどり、屋根裏は早々にすっきりした。大量に出た古紙や段ボールは、佐々が車で収集所まで運んでくれることになった。それらを車に積めるだけ積むともう夕暮れどきで、肌寒い風にさみしくなってくる。
「次はいつにする?」
「え?」さみしさがふっ飛んだ。
 驚いているオレを見て、佐々は拍子抜けしたようだった。
「あれ、もう、手伝いいらないの?」
「オレは毎日、昼ごろから来てるけど……」
「じゃ、明日もこんくらいの時間で」
「ちょっと待っててください!」
 ダッシュで家に入ると、冷蔵庫からプリンと、母さん直伝の苺をつぶしたのを出した。早く早くと気が急いた。皿に盛り付けグラスに注いだ麦茶とともに盆に載せ、慎重に運んだ。
 差し出された佐々は、
「もしかしてこの間のプリン?」と、さっそく一口食べた。
 オレは佐々の反応を逃すまいと見つめた。もしかしたら、にらみつけているようだったかもしれない。
 と、佐々は顔をしかめた。口のなかの傷に沁みたようだった。
「すんません! 無理しないで残してください」オレが盆を引っこめようとすると、佐々はいやいや、と小さく首を振り、
「うまいじゃん! 苺のソース? 作ったの?」
 言いながら、あっというまにプリンをかっこんで麦茶を飲み干した。細い顎にアンバランスな大きな口、覗くふぞろいな歯並び、スプーンが小さく見える大きな手、筋張った腕、飲みこむたびに転がる喉仏。自分のことは棚にあげ品評してしまうのは仕方のないことだ。頭のなかは、誰にも支配できない無法地帯なのだから。
「ごちそうさん」
 佐々の赤く腫れた唇の端に、傷口から滲んだ血か、苺のソース。
 空の皿とグラスの載った盆を持ちオレはまた、仕方のないことだ。自分に言い聞かせた。
 佐々が帰ったあと、片付いた屋根裏の床をデッキブラシで磨いた。足元もおぼつかないほど暗いなかひとりでこんなことをしていると、現場からずらかる前、痕跡を消す殺人犯みたいだ、と思った。執拗に磨く。起きたことをなしにするために。自分を騙すことはできないのに。
 なにもかもきれいにして隠したい。
 オレは、ビニ本を見ている佐々に興奮したのだ。

 補習終わりに椎名に誘われたオレは懲りずにショッピングモールのフードコートでハンバーガーを食べていた。
「ショウちゃんと、したさ」
 のこのこついてきたオレが悪い。ハンバーガーを置き、手で口をおさえた。
「なに? そんなびっくりした?」椎名が覗きこんできた。
 歯型のついたハンバーガーの断面と昨日見たビニ本の接合部が重なった。口のなかの肉とパンをこれ以上咀嚼できない。オレは吐きだしたいのを我慢してスプライトで流しこんだ。
「だいじょうぶかよ?」さすがに椎名も心配そうにしている。
 まだ口のなかに肉の匂いが残っている。再びスプライトを含んでグジュグジュグジュッ! うがいしたあと飲んだ。
「うわっ。きたねえ!」
「これ、クソマズ」オレは半分も食ってないハンバーガーを包み紙のなかに隠した。
 椎名はおかまいなしに話をはじめた。そう、それでいい。涙目はクソマズハンバーガーのせいだ。
 たまたまショウちゃんの家に誰もいないときがあったのでチャンスとばかり致したという、しょうもない話を聞きながら、オレは氷だけになった紙コップの底をストローでずるずる吸い続けていた。
「ヤベー、思い出したらパキッてきた」
 オレはいますぐ帰りたく立ち上がった。
「うそうそ」言いながら椎名はオレの腕をつかんだ。
 うそじゃねーだろ、腰引いてんじゃん。ほんもののバカかよ。オレが仕方なく腰をおろすと、椎名が言った。
「それっきりなんだよなー。家は親バレが面倒くさいべ」
「『Z』とかいうラブホあるじゃん。そこ行けば」
「そんなもんいちいち行けるかよ。金ねーよ。高けーべ」
「ふーん」オレはそこのウェルカムスイーツとやらを食ったけどね。とは言わず、
「じゃあそこらへんでコスってろよ」
「ショウちゃん、外はやだってやらせてくんねーもん」
 バカめ。食いかけのハンバーガーはゴミ箱に捨てた。椎名とはもうハンバーガーは食わないと決めた。

「なんか、疲れてないか?」
 佐々に言われ、自覚した。そうか、オレ、オチてんのか。椎名の話を聞いて?
 作業は母屋の二階へ移り、仏間だった四畳半を掃除しているところだった。
「元気ないように見えるぞ」
 掃除機をかけながら言った佐々の口もとの腫れは昨日よりひいていたけど、唇にはまだ生乾きのかさぶたが痛々しかった。
「だいじょうぶっすよ。動きづらい恰好だから、調子でないだけっすよ」
 椎名と別れたその足でここに来たオレは制服のままだった。
 佐々は掃除機のスイッチを切ると、「ちょっと待ってな」と階段をおりて行った。
 ほんと、だいじょうぶ……。ひとり口のなかで言いながら、もうひとつの四畳半のほうへ行った。箪笥になにか残ってるかもしれない。抽斗のなか、懐かしいあずき色が目に飛びこんだ。それは、ばあちゃんが畑仕事のときによく履いていたジャージだった。仕方なくそれに履き換えて戻ると、「洗濯してあるから」と佐々がTシャツを渡してきた。車から持ってきたらしい。
Tシャツはオレの肩幅には余って、ぶかぶかのオーバーサイズだった。佐々が少し笑ったのを、オレは見逃さなかった。しょせん姉ちゃんにたくましくなったと言われただけ。Tシャツごしにもわかる佐々の精悍な肉体には及ばない。
 観音開きの壁収納にぽっかり空いたスペースはじいちゃんの仏壇があったところだった。その仏壇はばあちゃんが二年前「終活」と言って処分したのだった。それからはいまの母さんのように、居間の飾り棚の上に位牌を置いて花と水を供えていたのだった。
 オレはなにも入っていないそこを丁寧に拭きながら、掃除機をかける佐々をちらちら見た。これ見よがしに、と映ってしまう。「そっちが誘ってきたくせに」と、痴漢が歪んだ持論を吐く気持ちがわかるようで、自分が嫌になる。
「今日、夕めし食いに行くか?」佐々の自らの引力に無自覚な発言。
「ええ? いいすよ。悪いす」オレは両手をぶんぶん振った。
「遠慮すんな。言っとくけどファミレス程度だぞ」
「オレ、こんな恰好だし」
 身体に合わないぶかぶかのTシャツと膝あてで繕ってあるあずき色のジャージを穿いたオレが、佐々とファミレスにいる図。それを知り合いに見られたら面倒くさい。
「制服に着替えれば? それもまずいか。高校生つれまわしてるみたいで」
 引力に引きこまれたオレは賭けに出た。
「あの、それじゃあ、ここで食べませんか?」
 都合の良過ぎる展開は不安になる。
 暮れかけた空の下、宝の山から採ってきた食材を、佐々とふたりで納屋のそばにある畑作業用の水道で洗っていた。やっぱり都合が良過ぎて少しこわかった。「いろいろあるんで、良かったら」そう提案したけど、まさかうまくいくとは。
 梅酒のグラスで乾杯し、ふたりだけの夕餉がはじまった。
 大量の漬けこみ瓶のなかから、三升漬とニンニクのしょうゆ漬を小皿に出した。炒めて塩コショウしたアスパラ、薄口しょうゆで炊いたフキ、ミツバのおひたし、ミョウガのてんぷら。ジャガイモをふかし、三升漬をそえた。食器も調味料も、すべてこの家にもともとあったもので事足りた。ほんとうは出汁も昆布と鰹節でひきたかったけど、時間がかかるので顆粒の出汁の素を使ったのは残念だった。
 縁側に並べたそれらは、オレが執拗なほど丁寧に洗った食器たちに盛られている。古い鍋や食器の、レトロ特有のかわいいおもちゃっぽさ、縁側というロケーション、庭に自生していた食材でこしらえた惣菜。なんだか豪勢なままごと遊びのようだった。
「なんか、楽しいな」佐々は言った。
「そうすか?」とぼけたけども、だいぶ楽しくなっていた。心地いい夜風も、さっき隠れて梅酒をグラス一杯ストレートで呷ったのも、少しずつ作用していた。
「イモ、甘くてうまいな。この三升漬って、手作り?」
「ばあちゃんが大量に作ってあったの見つけたんです。イモも、ほら、ほんとはこんなん」
 オレは調理前のイモを見せた。しわしわに縮んで野放図に芽が伸び放題になったそれは、萎びたきんたまからなぞの植物が伸びている悪夢の奇病のようだった。
「こんなのが食えるのか」
「納屋に大量に残ってたんで。きっとばあちゃんが老人ホームに入る前に箱買いして、そのまま納屋で越冬したんですね」
 佐々がやはり硬めの海綿のような手触りのイモをためつすがめつしている。
「芋の干物みたいなもんらしいです。うまみが凝縮されるんだって」
 目の前でうまそうに食う佐々を見ていると、胸の奥の怒りの球体はきゅっと小さくなって、ぴかぴか光る玉になった。幸せだ、と思った。
「訊いてもいい?」湯気の立つ黄色いイモにかぶりついた佐々は、痛てて、とまだ腫れの残る唇をさすった。
「久野早季さんは、お母さんのほうのおばあちゃんなの?」
「そうです」
「だよね。君の名字と違うもんね。ふーん……」佐々はなにか考えているようだった。「や」と一拍おいて、
「母方のおばあちゃんの家が近いって珍しいんじゃない?」
「さあ、どうなんだろ? ただ、父方のじいちゃんばあちゃん死んでから、親父は自分の親戚と絶縁したんですよね。それと関係あるのかもしれないけど」
 佐々と酒を交わし語りあう状況に高揚していたオレは、舌が滑らかになっていた。
「絶縁? きょうだいとかも全部ってこと?」
「オレは小さかったから憶えてないけど、お袋が、姑と小姑にエゲつないくらいイビられてて。そんで親父がキレて。繋がりは全部切ったって」
 オレは自然に「親父」「お袋」と呼んでいた。この場にふさわしい呼称だと思った。
「親父、ばあちゃんの葬式のあと、家にあった仏壇ハンマーで叩き壊したんすよ」
「どういうこと?」煙草に火を点けながら言った佐々の腫れた唇から、紫の煙がふーっと夜気に溶けた。
「葬式から帰ってきて喪服の黒いスーツのまま、いきなりハンマー持ちだして仏間に籠って、ものすごい音させてなんかやってるんすよ。オレこわくて見に行けなくて。そしたらすでに半分壊れた仏壇を、こう、」
 と、オレは大きなものをおんぶするようなジェスチャーをして見せ、
「担いで庭に運びだして……」
 父さんが振りおろすたび、砕け散る金細工や木片。つぶされた仏壇の残骸が、ただの木屑になるまで繰り返していたのを、幼稚園児だったオレは見ていた。あのとき、母さんと姉ちゃんはどうしていたんだろう?
「だからうちには仏壇ってないんです」
「そんだけ、奥さんのこと愛してるってことか」
 愛してる。自分の両親にあてはめるとすごい浮世離れ感!
「じゃあ、君にとっては、じいちゃんばあちゃんはここだけなんだ?」
「じいちゃんはオレが生まれるずっと前に死んじゃったんで知らないんだけど、オレはばあちゃん子でした」
「婆っ子は三文安って言葉知ってるか?」
「知らない」
 佐々はにやにやしていたけどオレは気にならなかった。
「ばあちゃんがぼけはじめたとき、最初お袋が泊まりこんで世話してたんだけど、それも限界がきて、うちで一緒に暮らそうって言ってたんだけど、まだらぼけで正気に戻ることもあったばあちゃんが自分で『老人ホームに入れてくれ』って、お袋に頼んだって。オレ、なんもしてやれなかったのが悔しかった」
 酒のせいか、簡単に自分の語りにしんみりとしてしまった。佐々も同じように目線をさげて梅酒を飲んでいた。
 と、「そうだ、忘れてた」佐々が足もとにあった青い瓶を掲げた。瓶のなか、黒く映る液体が流動していた。佐々はジーパンのポケットから出した十徳ナイフのコルクスクリューをねじこみながら、「ホテルで出してるワイン」と言った。昨日と違い包帯のないはだかの右手は、指の付け根の関節が紫や茶色のでこぼこになっていた。オレはコルクを引き抜く腕にむりむり浮き出る筋を見つめていた。
 佐々はグラスに注ぎひと口含むと、うん、と小さくうなずいた。オレも飲んでみたけどよくわからなかった。ふいに、佐々が言った。
「ファーストフードとか、うまいけど、毎日食べてるとバカになりそうだよね」
「は?」
「久しぶりに手作りの料理食って思った。前の女が料理上手だったんだよね」
 キタ! オレは自分の家族の話なんかどうでもよくて、佐々のことが知りたかった。
「それがさ、最初は便利だし良かったんだけど、だんだん重くなってきてさ。手のこんだ料理が出て来るたびに、なにか期待されてるんじゃないかって。冷蔵庫のなかはいつも食いもんで溢れてるのに整然としてた。作り置きのおかずに日付を書いた付箋したり、ジップロックに入れて冷凍したカレーとか、冷凍のご飯とか、解凍して弁当に詰められるようになってる出汁巻き卵とか……。キッチンにはいつも、下ごしらえ済みの、あとは調理するだけの食材があってさ。帰ったら、すぐできたてのうまいもんが出た」
「いい彼女すね」
「でもそれでどうしろっていうの? どうしたいの?」
 結婚……? 言おうとしたけど、なんだか話が難しい方向へ向かっている。友達との猥談や椎名の話を聞くのとは次元が違った。脳にぎゅっと力を入れて、身の丈にあった回答を絞り出す。
「料理が好きなだけじゃないすか?」オレはうまさのわからない赤ワインをぐびぐび飲んだ。
「ほう?」
「だって、オレだってそうだもん。趣味なんすよ。整えるのも、自分が気持ちよくなるためで、趣味の一環なんすよ。現に、オレにとってここの台所なんて聖域っすよ。サンクチュアリっすよ。誰にも邪魔されたくないし、趣味の世界に没頭したいから、誰かに口出しされること、オレは良しとしないっす」
 なんでオレが女の肩を持ってんだ? 自分でも謎の力説をしているオレを見て、佐々は吹きだした。こども扱いされている……。
「佐々さんて、いくつなんすか?」
「いくつに見える?」
「三十……、一、二、三、四、五、くらい?」
「てきとうかよ」
「でも二十代って言われれば、ギリギリ」
「見えなくもない?」
「いや……」佐々を初めて見たときのノイズ。あれは服装のせいだけではなかった。いま、間近で見ると、
「顔が……」
「老けてるって?」佐々はガクッと大げさに肩を落として見せた。
 オレはあわてて「違うんすよ」と言った。どう説明していいかわからなかった。話を戻そうと「ガチで何歳なんすか?」と訊いた。
「いいよ、もう。想像にまかせるよ」佐々の拗ねたような口ぶりと、甘苦く低い響きとのギャップがおかしかった。オレは笑いながら、「三十? 三十一? てかもう後半?」としつこく絡んだ。勢いこんで「あ! まさか、四十オーバーとか?」
 ぴしゃっ!
 突然、二の腕を叩かれた。
「蚊」佐々の掌にべっとり血と一緒につぶれていた。
「たしかムヒがあったわ」佐々は立ちあがり、車のほうに歩いて行った。ビビった。おしおきかと思った。夜空に雑木林の葉擦れがさわさわしていた。さわさわ、畏怖していた。
 戻って来た佐々がオレの二の腕にムヒを塗る。
「あちこち刺されてるじゃん。刺されやすい体質か?」
 佐々がオレの身体を点検している。ムヒを塗っている。オレは黙ってされている。佐々の汗の匂い。清涼感とかゆみが混ざった快感。首筋に染みた。たまらなくなった。
 突然立ちあがったオレを、佐々が不思議そうに見あげた。
「オレ、そろそろ帰らないと!」縁側に並んでいるものを盆に重ね、台所に運びはじめた。
「片づけるの、明日でいいんじゃねえか?」佐々が言った。
「オレ、ひとりで片づけるんで、帰ってください」背中を向けたまま言った。
「や、手伝うよ」そう言って佐々が立ちあがる気配を感じ、
「いいから!」
 オレの大きな声に、しん、となった。さわさわしていた。
「じゃあ、帰るけど」身体が跳ねた。佐々が音もなく後ろに立っていた。
 ほんの二、三秒だった。佐々と見つめあった。わかった。目だ。目が、ノイズの正体だ。ばあちゃんもこんな目をしていた。目だけが大人を通り越して老人になってしまっている。
「酒入っているから、車、置いてってもいいかな?」
 そう言って、佐々は大きな手でオレのボウズ頭をつかむように撫でた。オレはまだ佐々のTシャツを着ていたけど言い出せなかった。佐々は縁側から出ていき、砂利を踏み歩く音が遠くなっていった。
 小一時間は歩かないとタクシーのつかまるような道に出ないが、電話して呼ぶなりなんなりするだろ。オレはもう、全然楽しくなかった。興醒め。おだち過ぎ。会ったばっかりの他人と酒飲んでぺらぺらしゃべって、あー恥ずかしい!
 帰ると母さんが待ち構えていた。
「遅くなるなら電話しなさいよ」
 オレはてきとうに返事して風呂場へ向かった。酒の匂いを洗い流したかった。シャワーを済ませ、すぐ自分のベッドで丸まった。
 オレは、触れたかった。オレのそういういやらしさに、佐々は気づいていただろうか。

   **

 あのあばら家で一生を終える。欲長けず望まなければ、人生には何度だってやり直しがきく。生きていればいい。
 ム所に面会に来たあんたがそう言ってたのおぼえてるか?
 何があばら家だあんな立派な家でそこら土地持ちが、欲長けず望まずなんて笑わせるな。仮釈のためにこっちがへりくだってやってるのも気づかないで、説教のつもりか? 見下してるんだろ! 
 あんたが俺になにを期待してたか言ってやろうか? 早々に旦那に先立たれて、さみしい思いをしてたんだろ。持て余してたんだろ。でなきゃ、赤の他人の身元引受人なんてなるわけないだろうが! 

   **

二.ついに手紙とのカイコウを果たしたオレはたまらなくたまっていった


 カッターで亀をバラしていた。
 縁側の窓を閉めきった居間は、CDラジカセから流れる大音量の音楽に満たされている。オレは亀に刃をあてながら、早く、もと通りに、ひとりの時間を取り戻したかった。
 五円硬貨の穴に糸を通しいくつも繋げて作ったその亀は、店子が置いていった荷物のなかから出てきた。金モールを織りこんだ糸は意外と丈夫で、オレはカッターの刃をじりじり押しあてながら、
 佐々はもう来ないかもしれない。
 と考えていた。
 補習を終えて家で着替えて来ると、すでに佐々の車はなかった。午前中に取りに来たのだろう。玄関フードに、昨日外の水道で野菜を洗ったときに使ったざるやたわしが、きちんとまとめて置いてあった。思い知らされた。オレなんて、ほんとうにただのこどもなんだ。もとに戻っただけ、佐々がいた二日間が非日常だったんだ。昨夜、佐々が、うん、とうなずいて飲んだワインはほとんど残ったままだった。
 ぎっちぎちの結び目を断ち切りバラし終えた亀の残骸は、数えてみると千円にもならなかった。この程度の額でどんな良縁を期待したのか。
 オレは昨日まで佐々とやっていた作業の続きにかかるため、CDラジカセを持って二階の四畳半へ行った。
 和箪笥の抽斗を開くと、畳紙に包まれた和服が重なっていた。着物はあとで母さんに訊いて整理してもらうことにしよう。と、抽斗を点検していた手が止まった。
 整然と重ねてある白い畳紙の間から、薄茶色いものが覗いている。抜き取ってみるとそれは、口を紐で閉じた大判の書類封筒だった。
 さんざんそこらのものを独断でゴミかそうでないか分別していたくせに、なぜかオレはためらった。書類封筒は封印を解かれるのを待っているようだった。中身が知りたくてたまらないのに、こう積極的に来られるとためらってしまう。
 さっきまで晴れていた空は暗くなり、生ぬるい風がつれてきた雨がぱたぱたと畳を叩きはじめた。二階の窓を全部閉めたとたん、音楽が耳触りになった。
 ラジカセを止める。
 雨が屋根を打つ音だけがする。
 誰もいない二階の四畳半で正座する。
 目の前のものと対峙するお膳立てが整った。
 書類封筒の演出だと思った。
 身を委ねたオレは口紐を解き、逆さに持ちあげ、中身を畳の上にぶちまけた。
 それは、人間の肌が面積のほどんどを占める写真だった。
 反射的に目を背けながら、まてまて、なんでばあちゃんがヌード写真をしまいこんでるんだよ。オレは、ふっと過剰な自分を嘲い、散乱している写真たちに目を戻した。
 一枚の写真に囚われた。
 はだかの男の上半身。肩から肘の、赤や青。びっしり入った刺青。その上に載っている顔。
 佐々さん! 
 なのに手に取った写真の肉体は、オレが触れたいと思ったそれとは決定的に違っていた。胸や腹周りに脂肪がまとわりついた、若さのない身体つき。よく見れば、佐々よりはっきり老けがわかる顔つきをしている。まるで佐々の十数年後のようだ。笑みなのか眠いのか、どこを見ているのかわからない目つき。薄気味悪さに写真を抛ると、ついっと空を切り散乱したなかに落ちた。墨の入った背中や腕、何枚もの写真たちは、被写体となった男の刺青を写すために撮ったようだった。
 同じく上半身を真正面からとらえた構図、別の男の写真があった。やはり肩から肘まで刺青が入っている。顔はまったくの別人だが、精悍にしまった身体つきや雰囲気は、佐々に通ずるものがあった。
 こいつら誰? なんの写真? なんでばあちゃんが? なんで和箪笥から? 立て続けに「?」が浮かんだ。
 皺だらけでくたびれた書類封筒はまだ重みがあった。なかを覗くと、札束……? そう見えたのは、紐で括られた紙の束だった。奥にもなにか見えるがよくわからない。封筒の外側から感触を確かめる。固い、皿?
 なにかわからないものを取り出すために書類封筒に手を突っこむのはこわい。なのでもう一度、逆さにした。
 バサリとまとめられた紙の束が落ちた。
 さらに、コトッ。軽い音をさせて散らばった写真のうえに転がったのは、掌大の白い瀬戸物の、皿……?
 浅い内側をうえにして静止したそれに、オレはおそるおそる手を伸ばした。
 裏返すと、丸い糸底のなか、朱の筆文字で『寿』とある。
 糸底を挟んで左右に黒の筆文字で『平成六年』『十二月吉日』
 同じく上下に横書き黒で『兄 明石多果夫』『弟 佐々満』
 初めて会ったとき佐々は言っっていた。
「おばあさんがやっていたアパートあるでしょ。昔、親戚が部屋を借りていたんです」
 脳味噌がむずがゆくなるような感覚。もう少しで答えに行きつきそうな……。
 紐で括った紙の束を手に取った。ばあちゃんに宛てた葉書や手紙、封筒の束。ためらいは消えていた。
 最初の手紙の書き出しはこうだった。
『前略
  不躾ながら突然のお手紙お許し下さい。
  私、明石多果夫、平成九年六月二十日に傷害で逮捕され――』

**

 言っておく。お前も共犯だ。
 佐々をかばい俺だけが実刑を食らったのを知っているくせ、それを黙っているのだから。借りてる部屋が盗品の保管場所だという事もとっくに気付いてるはずだ。

 値の張る椎茸の苗木を盗木しに山に入った話をしたとき、いつかご相伴にあずかりたいとか言って笑っていたが、もう佐々あたりがどこかで金に換えているだろうから残念だったな。
 けど、俺があの山で手に入れたあれだけは違う。金に換えられるような代物じゃない。
 とにかくあんたは、俺が戻るまであれをきちっと預かってくれるだけでいい。血縁や恩も関係ないただの共犯者なのだから、自分のためにもきっちり保管しておけ。

 いいか、光るあれは、とにかく守れ。

   **

 雨が屋根を打つ音が強くなっていた。
最後の手紙を読み終えたオレはしばらく動けなかった。
 佐々と過ごした昨夜、都合の良すぎる展開に不安になった。それは正しい直感だった。
 全部猿芝居だった。
 縁側でのままごとにつきあいながら佐々は言った。「なんか、楽しいな」 そのうえ、うまそうに食う佐々を見て、幸せだ、なんて思っていたオレはまんまと乗せられたエテ公だ。
 オレの手伝いなんてうそだった。
 佐々はオレをだまして利用した!
 家に帰って夕食を食べ風呂に入ってベッドに横になるまで、いくら考えてもひとつの答えにしか行きつかなかった。
 あの手紙と写真はばあちゃんちに置いておくべきではない。
 父さんと母さんに相談することも頭を掠めたけど、ばあちゃんがなぜ着物の畳紙の間にしまいこんでおいたかを思うと、そんなことできない。
 消印の日付順に読んだ手紙は、でたらめな女名前だったり差出人のないものもあったが、全部「明石多果夫」からのものだろう。
 最後のほう、心の叫びややり場のない怒りをただ書きなぐっただけのような文面には、ばあちゃんを侮辱する言葉や、あきらかな脅迫があった。
 あんな手紙この世に存在すべきではない。どうしてオレは読んですぐ処分しなかったんだ。ばあちゃんちの庭で燃やすなり、せめて持って帰ってくるべきだった。なにかの拍子に父さんか母さんが見つけるかもしれないし、佐々がもう来ないとも限らない。いままさに佐々がばあちゃんちの家探しをしているかもしれない!
 オレはベッドから飛び起きた。
 もうすぐ十一時。廊下に出て父さんと母さんの寝室のドア下から灯りが漏れてないのを確認した。オレは家着のTシャツとハーフパンツにランニング用のスニーカーをつっかけ家を出た。自転車はガレージのシャッターを開ける音で父さんや母さんが目を覚ますかもしれないのであきらめた。雨上がりのむっとした夜へ、オレは走り出した。
 幹線道路沿いのいつものランニングコースと違い、舗装されてない砂利道は走り辛いし街灯も少ない。
 夏休みになってから毎日行き来している道は夜中だというだけでまったく知らない貌を見せる。途中、道を挟む広大な農地はトウキビ畑になる。昼は眩しい緑をうならせているのに、いまは鋭利な葉の茂った茎がみっしり並ぶ間に、なにか、想像もしたくないものを見てしまいそうだ。湧いてくる恐ろしげな妄想を払いたくて頭を振った。
「ひっ!」
 蜘蛛の糸が手首にひっかかった。極やさしく「ちょっと寄って行きませんか?」なんて呼びこまれたようだった。「ひっ!」なんつって、女の腐ったのみたい。だいたい、男というは腐った女のことなのかもしれない。乳房は腐ってただれ落ち、肥大したクリトリスがペニスに、陰唇が陰嚢になるのではないだろうか。
 走りながら妄想を押しこめるべくとりとめもないことを考えた。橋を渡ればすぐそこはばあちゃんちというところまで来て、足が止まった。
 庭に続く雑木林の奥に、灯りが見えた。
 まさか……。オレは音を立てないよう砂利を避け、昼間の雨か夜露か、濡れた下生えを踏み、静かに近づいて行った。草叢にかがんで窺うと、果たしてそれは佐々の車だった。
 オレは四つん這いで後方に近づいた。
「そりゃあんたにとったら、楽な相手だったろうよ」
 佐々の声だった。そして、
「お互いにね」
 女の声がした。はっきりと聞こえた。助手席の窓を開けているのかもしれない。オレの胸の奥、怒りの球体が膨張した。ここに知らない女をつれてきた佐々を憎んだ。
 盗み聞きしてやる。オレはテールランプの後ろに這いつくばった。
「だから、別にこのままでいいじゃない。結婚したいとか、こどもが欲しいとか、わたし、一回でも言ったことあった?」
「ない」
「じゃあいいじゃん。家族なんていらないんでしょ? わたしも、べつに家族になりたいとは思わないもん」
「よくない」
「なんでよ」
 間。魔の刻がおり、煙草の煙が流れてきた。
「めんどくせ~……」佐々のうめき声。「じゃあ言うけどよ、あんたがこんなとこまで追いかけてきたのがいや」
 固く冷たい声に、ちんこが縮み身体に埋没した。昼間の甘苦く低い響きはどこへ行ったのか? もしかしてそこに乗っているのは知らない男ではないのか? 
「音信不通の彼氏、心配しちゃいけないの? てか、それ、どうしたの? 殴られたの? すっごい腫れてるけど……」
「気色悪いから、もう関係ないのに勝手に心配しないでくれる?」
「なんでそんな言い方するの……」
 女のすすり泣きが聞こえてきた。ひでぇな。オレは思いながら痛快だった。
「いまは別れたくないからいいように言ってるけど、絶対結婚したがるよ。そういうタイプだもん、君」佐々の声には笑いが交じっていた。
「決めつけんな」女はしゃくりあげていた。
「このままつきあってたら、きっといつか後悔する。だから別れる。もう決めた」
「別れたことを後悔はしないの?」
「する、かもしれない。でも、取り返しのつかないことにはならないと思う。あんたまだ二十八でしょ? 全然、平気だよ」
「平気じゃないよ。いま別れたら、わたしは取り返しがつかないくらい後悔する」
「それこそ関係ないよ。あんたの後悔でしょ?」
「冷たい」
 再び魔の刻がおり、オレは待った。佐々と女がどう終わるのか知りたかった。そばだてた耳の穴に、幽かな、粘液をかき回す音が流れこんできた。
「いてえ……。口んなか切れてんだよ」
「キス、できないね」女は笑ったようだった。
「舌入れるなよ」
「歯、舐めるの好きなのに……。目をつぶってても誰とキスしてるかよくわかるがちゃがちゃの歯並び、わたし好きよ」
「だからだよ」
「え?」
「だから、自分で殴ってやったんだよ」
 自分で殴った? 
「歯並びが悪いのは、父親に似ちまったからなんだってよ。この家の掃除やってるガキがいるって話したろ? そのガキくらいの頃に、お袋から聞かされた話よ」
 ガキ。耳に入った言葉を取り出したかった。
「いちいち舌に引っかかる並びの悪いガチャ歯の感触がよ、突然気持ち悪くなってよ。剥きだした前歯を殴りつけてやった。知らねー親父に似てる歯並びなんて気色悪くて、殴るのを止められなくなってよ……」
 佐々の節くれだった指が浮かんだ。ぬるぬると鉄くさい油が絡みついていた。赤黒い、血だった。
「だからさ、もう、やめた方がいいよ。こんなヤツと一緒にいても、ろくなことに」
「そんなこと知ってるよ」女が佐々の言葉を遮った。
「なんと言われようと、なにされようと」佐々の声が途切れた。
カチャカチャと軽い金属音がして、
「だいたいねえ、いま、この状況で……」
 ため息のような呼吸。幽かなうめき声。
 状況を飲みこんだ。咥えられてる佐々を思うと、埋没していたちんこは硬くなって躍り出た。
 車体が軋み出した。
 オレは夢中でしごいていた。
「どうしてそんなにこだわるのよお……。いま、わたしと幸せならいいじゃない……」女の泣くような声。
 車体の軋みが激しくなっていき、オレの右手も早さを増した。
 急な車体の静止と同時に射精した。
 弾む息を殺していると、顔に熱風が吹きつけられた。エンジンをかけたのだ。点灯したランプの光を避け、オレは必死でそばの茂みに身を投げた。
 行ってしまった車の音が完全に聞こえなくなっても、オレは冷たい草叢から動けなかった。下腹部が余韻で痺れていた。
 あたりはすっかり静まり、聞こえるのはさざ波のような葉擦れの音と虫の声。自分を包む緑と飛び散った精液の匂いに鼻の奥がつーんとした。

 目覚まし時計のアラームが鳴っている。
 オレはベッドで布団にくるまっていた。身体が動かない。起きあがれない。耳障りな電子音のなかでじっとしている。
 なにもかもが面倒くさい。けど、ほうっておけば母さんが起こしに来る。そのとき平気なふりをするほうがはるかに面倒くさい。満身の力をこめて身体を布団から剥がした。トリモチシートに捕らえられた虫の気分。
 アラームを止めると階下から朝の支度の音が聞こえてきた。身体を起こしても、ベッドから立ちあがる気力が湧かない。
 オレは昨夜なにもせず帰って来たのだった。射精して来た道を戻っただけ。
 胸の奥の怒りの球体が膨らんで破裂しそうで息苦しい。逃げられない、追ってくる容赦のないもの。髪を切る前に戻ったみたいだ。
「あんた、具合悪いんじゃないの? 今日は休んだら?」
 母さんに言われたのは、補習へ行くため制服に着替えたあとだった。「休んだら?」って気軽に言うけど、通学鞄を持って部屋に戻って着替えて寝るなんて、段取りを思うだけで面倒くさくて疲れる。それにいつまでも眠れなかったら? オレはベッドでなにをして過ごすと思う? 
 このまま学校に行くほうが何倍も楽だ。それに、今日の試験に合格すれば、オレの補習単位は終わる。明日から再びなにもない夏休みに戻れる。ばあちゃんちの掃除だけに集中できる。
「なにこれ」と母さんがオレの頭頂部から草の破片をつまみとった。
 うずくまっていた草叢でボウズ頭に刺さったのだろう。
「知らね」オレは答えて玄関へ向かった。
「そんな顔色悪いのに、ほんとうに行くの?……ちょっと、朝ご飯は?」
「いらね」
 コンバースをつっかけて玄関を出た。

 表向きの体裁として、「教え合うなよー」などと言い残し教師が教室を出ると、皆は体裁に応えるべく一斉に声を潜めて顔を寄せ合った。
 答案用紙を叩くシャープペンシルの音とひそひそ声で充満する教室で、これが終われば、今日をたえれば、オレはそれだけを念じていた。一刻も早くやかましい音楽で頭のなかをいっぱいにしたかった。そうしないと余計なものが流れこんできておかしくなりそうだった。早くこの場をやり過ごさないと、もう……。
「マリちゃんて、憶えてるでしょ?」
 答案用紙に覆いかぶさっていたオレの腕を、隣の席の椎名がシャープペンシルの先で突いた。オレが胸の奥に破裂しそうなものを抱えているなんて知らない椎名は、まったく気楽な感じで続けた。
「LINEブロックしただろ。ひでーよなー。それでもラックのこと気にしてんだって。また、オレとショウちゃんも一緒に、四人でどっか遊びにいかないかって」
 怒りの球体に亀裂が入った。
 とどめを刺したのはやはり椎名だった。
「あ? なに?」椎名が耳を寄せた。
「おまえらの頭んなかにはセックスのことしかねえのかよ……」
 怒りの球体が……破裂した!
 弾かれた拳は裏拳となり椎名の鼻頭にヒットした。
「いでぇっ!」オレと椎名は同時に叫んだ。椎名は鼻をおさえ、オレは自分の拳をおさえていた。皆から一斉に注目を浴びる。
 喧嘩の心得などないオレはただただ握った拳をぶんぶん振りまわし、椎名は「なに? は? はあ?」と逃げ惑うだけだったが、オレの吐いた唾が顔射よろしく椎名の眉間にキマったのをきっかけに一転した。
 白濁した粘液を拭った椎名は打って変わって反撃してきた。
 が、心得のないのは同じだった。オレと椎名はぐだぐだ揉み合い周りの机をなぎ倒し床を転がった。グーにした手をなんとかぶつけ合うぶざまな殴り合い。
 女子どもが奇声をあげ廊下に躍り出ていった。男子どもが止めに入り、オレと椎名を引き剥がした。オレは叫んだ。
「死ね!」

「ご飯は?」ドアごしの母さんの声。
 オレは得意技をきめていた。制服のままベッドにもぐりこみ丸まっていた。
 ほんとうは、やけに早く帰るなり自室に籠城した息子に言いたいことは山ほどあるはずだ。
 わかってる! わかってるけど、いまはなんにも誰にも触られたくないんだ! 椎名に死ねなんて思ってない! でも、オレと同じくらいあいつだって苦しむべきだ!
 オレは机の抽斗から眠剤の入った袋を出し、リュックから青い瓶を出した。瓶のなか、赤黒く映る液体がちゃぽんと小さな波を打った。佐々が、うん、とうなずいて飲んだワイン。眠剤をラムネ菓子のようにガリガリ噛み砕き、ワインをラッパ飲みした。むせて吐き出しそうになりながら、むりやり流しこんだ。
 苦しめ苦しめショウちゃんと別れろ苦しめ苦しめ別れろ……。
 呪詛を繰り返しながら、とにかく眠りたかった。寝逃げしたかった。再びベッドに横になり、
 かっとまぶたを開くともう夜だ! 
 皺になった制服を脱ぎ捨てTシャツとジーパンに着替え階下におりるとリビングにはブラインドの隙間から月明かりが射していた。父さんも母さんもすでに眠っているようだった。壁掛け時計にビビった。午前〇時を回っていた。十二時間以上、夢も見ないで眠っていたのか!
 心は軽く活力が漲りじりじりしていた。焦燥のじりじりではなく、楽、とにかく気持ちが楽だった。
 身体は別だった。あちこち痛い。初体験のせい、ぶざまな殴り合いのせい。それを思い出したってオレは楽だった。
 家を出て暗い住宅地を走った。ばあちゃんちへ続く砂利道を走った。リュックにはノートパソコンと眠剤。昼間の初体験なんてどうでもよくなるほど楽なのは、寝逃げに処方より多く飲んだ眠剤のおかげかもしれない。
 昨夜はあんなにこわかった道中も、両側のトウキビ畑がなんだってんだ。バカ。太陽の光がないだけじゃねえか。どこまでだって行ける全能感がオレを走らせた。
 ハンパない息切れと流れる汗の量。だけど楽。じりじり楽。
 ばあちゃんちに着くと、台所の灯りを点けた。床下から梅酒や他の果実酒の瓶を出した。ばあちゃん手製の果実酒の瓶は全て、オレがここにしまいこんだ。他にも、お歳暮やお中元でもらったまま熨斗も取らずにあった高級そうなブランデーなんかも、ここに入れておいた。
 広口瓶を傾けてグラスに注ぐ。赤い液体が盛大に溢れた。磨きあげた床に真っ赤な液体が滴って広がり、血だまりができた。瓶のラベルには手書きで『グスベリ酒』とあった。
 数錠の眠剤を口に放りこみ、甘ったるくとろみのあるグスベリの血を呷った。
 早く全身の細胞に染みわたれ。楽なままでいたい。もう戻りたくない。
『イキった黒ギャルを時を止める能力を得たニートがイジリまくってイカせまくる勇者となった件』を持ってきたノートパソコンにセットして、食卓に置いた。オレは立ったまましごいた。
 いつまでもコシのないちんこを握りながら数種の果実酒を次々グラスに注いでは飲み干した。理解した。喉から胃が焼ける感覚。人間は一本の管。流しこみ続けると、パソコン画面から聞こえるグジュグジュとシズル感のある音に交じって声が聞こえてきた。
 飲め飲め全部飲んじまえ。
 オレの声か? いや、ただ頭で考えているだけかもしれない。止まない声は、一本の管を通る赤や黄や茶色く濁ったような液体と、オレの裡に流れこんで溢れた。
 オレは「色」を知ったんだ。
 直接ではなく間接……。空気で……ムードで……。世界にある色を見つけること……。好きな色を知ること……。あいつがいなければ……、オレはモノクロの世界で生きていた……。自分を包む世界の色を知らずに……。
 奔流する声はどこからくるのかオレがしゃべっているのか? まったくわからない。
 わかったところでなんだってんだ……。
 足は縺れ、階段から転がり落ちた。身体の痛みなんかどうでも良かった。四足歩行の動物になり階段をのぼり二階へ。
 暗いなか和箪笥の抽斗を開け、畳紙の包みを引き抜いた。
 灯りを点けて畳紙の紐を解く。現れた着物を両手に持ち、広げる。藍色の薔薇が、視界一面に咲き乱れた。
 クリームがかった白地に、母さんが丹精して咲かせたような見事な薔薇。その薔薇は薄く明るい藍色で、世界にそういう薔薇が狂い咲いて、ずっと遠くまできれいで……。
 狂い咲く薔薇のなか、佐々が立っていた。
 座っているオレを見おろす佐々の喫っている紫煙の向こう、目はまっ黒で瞳孔が開き、よだれで濡れた黒糖飴のようにつやつやだ。なんてきれいなんだろう。その目も、煙草を挟む指も腕も肩も、大人の男の身体は、なんてきれいなんだろう。
 すると、口のなかに甘い液体が溢れて端から漏れた。グスベリの血に似た舌が痺れるような甘さ。
 そうか、精液って甘いんだ。
 大人の男の精液がこんなにも甘いなんて、知らなければよかった。
 オレは急に悲しくなり、泣いていた。
 知ってしまったら、もう、戻れない……。

 あんなに美しかった薔薇は、精彩を欠いたただの水色の薔薇模様に戻っていた。
 居間の天井が見えた。開け放した縁側から月明かりが射していた。
 オレは着物を着て居間に仰臥していた。
 Tシャツとジーパンが脱ぎ捨てられていた。はだかの素肌に、薔薇模様のすべすべした生地を感じた。
 どうして居間にいるのか、どうして着物を着ているのか、なにも思い出せなかった。
 酒に酔って記憶を失くすってこういうことか? それとも薬のせい? いや、両方か……。
 やっとそこまで考えられるようになると、さっき見た断片が浮かんだ。
 オレは夢でセックスしたかもしれない。
 うっすらと生えている胸毛、細い腰、尾てい骨のあたりにも、乳輪の周りにも、産毛が渦を巻いていた。
 そうか、だからか。
 着物の他にたった一枚着けていたパンツが、粘液で濡れていた。

三.光よりオレは欲しかった欲しくて欲しくて欲しかった


 Tシャツとジーパンに戻ったオレは、パンツを台所で洗い、縁側の軒下に引っかけて干した。
 着物は畳み方がわからないのでハンガーに吊るした。
 パソコンを居間の低いテーブルに置いて起動すると、月明かりの青みが消え、暗闇の宇宙のなか四角く切りとられた画面が現れた。絡み合う裸体、男の息と女の嬌声。眩しい画面に顔を照らされながら、観察した。
 オレが椎名を殴りつけたことと似ている。怒りと性欲の発散は他人に見せてはいけないんだ。こんなに見苦しい、恥ずかしい行為……。
 じわり、行為の音声とはあきらかに違う気配に、オレはゆっくりと縁側を見た。いきなり光に目を射され、
「うあああ!」オレの悲鳴に、
「うおおお!」低く呼応するような声と、
「イクぞイクぞっ。あーっあっあー!」挑みあう男女の声が重なった。
 あわててノートパソコンを閉じると、すべての声は消失した。
 そして、間。間は、魔。魔の刻。
 懐中電灯の光が縁側の床板に幾重かの光の輪を映している。その反射をたよりに浮かびあがったシルエット。
 佐々だった。
 これは夢か? どこかぼんやりするようなのは夢の続きだから?
 佐々は居間のなかを懐中電灯でひと巡り照らした。
「誰かと一緒?」
「いや……」オレが答えると、
「ふーん」佐々はビーチサンダルを脱いであがりこみ、居間の電燈の紐を引っぱった。
 白く明るくなった部屋の隅、薔薇模様の着物がハンガーに吊るしてある。オレはそっちのほうを見ないようにした。
 佐々は台所の床に並ぶ酒の瓶を見て「おお、いいもの飲んでんじゃん」と、食器棚からグラスを出し、酒を注いだ。
「勝手なことするな……」オレは佐々をにらみつけた。
「床下にもっといい酒あるだろ。けちけちすんなよ」
「なんで……」知ってるの? 
 床にこぼれている赤い酒の血だまりに、佐々の裸足が浸かっていた。気にならないのだろうか? オレはぼうっとする頭で考えていた。
「こないだ、だいぶ捨てちゃったけどよ、もっと良く見たほうがいいぞ? 納屋の奥のほうに、ブランドもんのヴィンテージあったからよ」言いながら、佐々は赤い液体を口に含んだ。
 オレは、佐々がなにを言っているのかわからなかった。ただ、グスベリ酒が喉を滑るたびにひくつく佐々の喉仏を見ていた。口のなかにさっき夢で味わった舌が痺れる甘さが蘇った。
 佐々がふっと笑った。
「おばけでも見たような顔してんな」
「ここに出るおばけなら、ばあちゃんかじいちゃんだろ……」
 佐々が爆笑した。グラスを食卓に置いて、本格的に腹を抱えている。そんなに? と見ていたオレに、
「ほんと、かわいいよな、おまえ……」佐々は笑いを引きずりながら、「ひとのカーセックス聞きながらセンズリこいてたろ」
 腹のなか、内臓だけがおりる感覚。
「サイドミラーにばっちり映ってたっ……」佐々は笑いで震える声で言いながら、「別にヤるつもりなかったんだけど、おまえいたから、ちょっとしたサービスだよ」目の端の涙を拭っていた。
 オレの目にも涙が滲んだ。ぞくぞく寒気がするのに、頬から耳にかけてストーブであぶられたように熱い。自分が真っ赤になっているのがわかった。
「あの女に言われたよ。『ひとんち巻きこむようなことしてまで、知りたいの?』って……」
 いま、わたしと幸せならいいじゃない……。
 昨夜、あの女が泣くような声で言ったのを、オレもコキながら聞いていた。
 佐々は宙を見つめ、
「たしかにな……。一緒になったってよかったかもな。もうメスとしては見れねえけど、気心知れたどうし、家族になってもよかったのかも……」
 まるで誰かもうひとりいるかのように話すと、いま気づいたというふうにオレを見た。
「実はよ、おまえのばあちゃんに、会ったことあんのよ」
 異様なことを言い出した。オレの目の前に、異様なことを言う、異様な人間が現れた。
「去年の春、ここに来たんだよ。そんときも、夜だった」

 訪ねた佐々を、ばあちゃんは「多果夫さん」と呼んだ。
 通された家の荒れ様を見た佐々は表札にあった名で「早季さん」と呼んでみた。直感したのだ。目の前の老女は、ここにいないのかもしれない、と。
するとばあちゃんは、「あんたの大切にしてたもの、ちゃんと取ってあるから」と言った。
「心配して、手紙くれていたでしょ。ちゃんと隠しておいたから、だいじょうぶ」
 佐々は逸るのをおさえ訊ねた。
「早季さん、ありがとう。それで、いま、どこにあるの?」
「あー……」
 ばあちゃんは声を洩らすと、
「こんな雪残ってちゃ、とけるまでせんないねえ」
 話にならないほどぼけているのか? 佐々は焦れた。
「早季さん、なにを預かってもらってたんだっけ?」
 ばあちゃんはひょっと驚いた顔をすると、おかしそうに言った。
「なに言ってんのあんた、あれだべさ」
「あれ?」
「あんたがどっかの山から盗んできたって言ってたべさ」
 そう言ってばあちゃんは両手を肩のあたりに持ってきて、ぴろぴろ羽ばたくようなジェスチャーをした。
 にこにこしながらそうしているばあちゃんを見て、佐々はおののいた。
「ちゃんとおしろいあげて、かわいがってたら、ずいぶん増えて、もう桐の箱に入りきらないから、桐箪笥の抽斗ひとつあげたべさ」
「ちがうでしょ? 預けたもの、よく思い出して!」
 佐々はばあちゃんの肩をつかんで覗きこんだ。
すると老女は突然真顔になり、みるみる顔をこわばらせ、
「あんただれっ? 多果夫さんじゃないね!」
 出て行けーっ! 出て行けーっ! 
 ばあちゃんは叫び続け、佐々は逃げた。

「出て行けーっ!……。鬼ババみてえな顔で、そこらのゴミ投げつけてきて……」
 と、佐々はゆっくりと首を巡らせた。縁側から居間、そして台所。
「えらいもんだな」
 佐々は「去年の春」と言った。佐々の話がほんとうだとしら、ばあちゃんが自分から老人ホームに入れてくれと言い出したのは……。
 この男を殺したい。握った拳が震えた。ばあちゃんの代わりにオレがボコってやる。
 オレの怒りの瘴気など、佐々には障らないようだった。
「おまえ、えらいよ。あんときの家とは思えねえもの。関心するわ。なんつうか、家が、生き返ったみたいだもんな」
 佐々はグラスに、新たに広口瓶から赤い果実酒を注いだ。
「おまえが生き返らせたんだよ」
 まるで祝福するようにグラスを掲げた佐々を、オレはにらみつけた。
「もう、来ないでください……」絞り出した声が掠れた。
「そのつもりだったんだけどよ」佐々の声は、ゆうべ聞いた、知らない男のようだった。
「探してるもんがあるんだよ。それがどうやら、おまえのばあさんが管理してたアパートにあるかもしれねえってとこまではわかったんだけど、来て見たらアパートはなくなってるし、ばあさん、ぼけちゃってるし、諦めようかと思ったんだけどよ」
 いきなり佐々は崩れた歯並びを剥きだした。笑顔なのかもしれない。
「ずっと見てたんだぞ」壊れた笑顔が言った。
「ずっと、この家を探ってたんだよ。消えたんだよ。父親が消えたんだ。ここを最後に消えたんだ。おまえのばあさんになにかを預けて消えたんだ。それがわからないと、どこにも行けないんだよ。父親が消えたんだよ。わかるか?」
 オレがわかったのはただひとつ。目の前の男は、「明石多果夫」の息子なのだ。
 「明石多果夫」が堕胎を望んだこどもを「エナ」は産み「佐々」と逃げた。そのこどもがいま目の前にいる佐々ならば、まだ二十二かそこらのはずだ。
「佐々さんが探してたもの、知ってるよ」
 佐々の目の色が変わった。夢で見たまっ黒に開いた瞳孔、よだれで濡れた黒糖飴のつやを帯びた目は、現実ではただ恐ろしいだけだった。
 オレは佐々から目を逸らさないまま屈み、台所の床下収納を開いた。上半身を床下に突っこんだ。床上に突き出たままの尻に佐々の視線を感じた。瓶を掻き分けた奥から書類封筒を取り出した。
 魅入られたように手を伸ばした佐々に、オレは吸い込んだ息が止まりそうになった。
 震えながら受け取ったのは、いまにも泣き出しそうな少年だった。
 オレは少年が封筒から数枚の写真を出すのを見ていた。
 けれども少年は写真をめくり繰り返し見続けるうち、すぐノイズ交じりの男に戻っていった。ほんとうは見た目よりずっと若い青年であるはずの、老いた目をした男。
「それだろ? 佐々さんが探してたの」
 佐々は写真から目を離さなかった。
「もう、いいだろ? もう、出てってよ」
「ああ……」
 そう言っただけで、佐々はまったく動こうとしなかった。そしてまた書類封筒に手を入れると、手紙の束を出した。
「おまえ、これ読んだんだろ? どんなことが書いてあった?」
 答える代わりにオレは叫んだ。
「出てけよっ! もう来るなっ! 母さんと父さん呼ぶぞっ!」
 背中をもろに打ち、喘いだ。オレは足払いひとつで床に倒されたのだった。腹の上に馬乗りになった佐々が、両足でオレの両腕を踏みつけおさえていた。
「母さんと父さん呼んでどうすんだよ? それから?」
「警察呼んでやる……」オレはうめいた。
 佐々は手紙の束を封筒に戻し、ゆっくりとテーブルに置いた。
「それじゃあ、お別れだな」
 佐々はオレをおさえつけたまま、床に並ぶ果実酒の広口瓶をひとつ抱え、蓋を開けた。両頬を爪がくいこむほどつかまれ、こじ開けられたオレの口に甘い酒が流れこんできた。
 ほとんど顔にぶっかけられるようだった。苦しさに喘ぐたびに、焼けるような感覚が喉を通った。どろっと底に溜まっていた果実の澱が、鼻の穴と喉に詰まり息ができない。必死でむせながらわずかな空気を吸いこむ。赤い液体が染みてぼやけた視界に歪んで見えたのは、怒りではち切れそうな貌をした青年だった。
「なんで三十代に見えるか教えてやるよ!」
 佐々は違う瓶の蓋を開けた。高く掲げいっきにひっくり返した。
「誕生日も戸籍もないんだよ!」
 オレは顔に浴びせかけられ溺れながら、梅酒だ! と舌で感じていた。
「おまえぐらいのガキのときには車乗り回してたんだよ!」
 ぼとぼと落ちる梅の実がオレの顔を打った。
「生きていくためだ!」
 梅酒で顔を洗われ、やっと息ができた。
「なにも知らねえくせにっ!」オレは叫んだ。
 なにも知らないくせに! オレだって抱えている。抱えてるんだ! 
 顎をつかまれ次の酒を注がれそうになり、きつく目を閉じた。
 と、佐々の動きが止まった。おそるおそる目を開くと、佐々はずいっと顔を近づけてきた。そして、「変態め」と言った。
「ちんこ勃ってんじゃん」
 オレは勃起していた。ジーパンが固く張りだすほどの充血をぶりっとつかまれ、おさえきれなくなった。
 おぎゃあああ!
 あぁーーーん!
 うぇーーーん!
 うぇんうぇん!
 汚い声をあげ泣いているオレを、佐々はしばらく馬乗りのまま見おろしていた。
 佐々が立ち解放されても、オレは仰向けのまま泣いていた。
 佐々は煙草に火を点け喫いあげると、煙を吐きながら、
「幸せそうでうらやましいわ……」と言った。
 オレはしゃくりあげながら、
「自分ばっかり不幸だと思うんじゃねーよ」
 自分でもよく言えんな、と思った。でも、いまこの世界で、佐々に言えるのはオレだけだ!
「やって欲しいか?」
 佐々は言った。
 泣くことも、息することも奪われた。
 もう一度、佐々は言った。
「ゆうべの女みたいに、して欲しいか?」
 オレは仰向けになったまま、答えることができなかった。さっきまでの痛いほどの充血さえ奪われていく。それなのにオレは欲しかった。欲しい。欲しい欲しい欲しい。その腕が、大人の男の手が、欲しい。
 オレは起きあがると、ハンガーに吊るしてある青い薔薇模様の着物の前へと立った。どうしてだかわからない。佐々の言葉にさせられているのかもしれない。佐々を見た。オレはいま、どんな顔をしているんだろう? 静かにオレを見つめ煙草を喫っている佐々の顔からは、なにも読みとることができなかった。
 佐々は煙草を挟んだ指をこちらに向けると、
「それ着て、二階の寝室で待ってろよ」
 そしてまた煙草を喫いあげ、煙を吐きながら言った。
「すぐ行くからよ」
 ハンガーに吊るした着物に手をかけると、すべすべした生地はするりと落ちて腕に引っかかった。そのまま、オレは二階へ階段をのぼって行った。

 朝がくる頃一階に戻ると、佐々はいなくなっていた。
 こうなることを知っていた。でも、オレには酒に濡れたはだかに着物を羽織って、二階で待っていることしかできなかった。
 そのとき、オレは見たのだった。
 ふと、あの閃光が目の端に映った。なぜだか、オレは佐々が来てくれたのかと仰ぎ見た。
 目の前を、綿毛のような光が浮遊していた。
 まだ薄水色の早朝の部屋のなか、光はオレにまとわりつくようだった。
 すいっとオレを離れた光に導かれて行くと、四畳半の和箪笥の周りを、いくつかの同じ光が舞っていた。
 抽斗を開けてみて。そう、光たちが言った。オレは和箪笥の抽斗の取っ手に手をかけた。初めて開けるその段を引くと、
 ぶわっと舞いあがり目が眩んだ。
 羽毛のような綿毛のような無数の光がオレのまわりをくるくると舞った。自由に舞っていた光は徐々にひとかたまりになり、四畳半の天井を覆う光の雲になった。光は規則性を得たようにそのまま部屋を出ると、階段を滑り一階へおりてゆく。
 追いかけて一階の居間に出たときには、光の雲はまた散り散りになり、開け放した縁側から外へ流れ出ていた。
 縁側に立ち見あげると、空へ吸いこまれるように上昇してゆっくり溶けて消えていった。
 空を仰ぐオレのそばに、ひとつ、まだ浮遊している光があった。
 そっとそれを両手で包んだ。指の間から漏れる光が弱まり消えてゆく。
 これだったのか。男が守りたかったもの。男の息子が探していたもの。金はおろか、なにものにもかえがたいもの。
 再び手を開くと、もう、なくなっていた。
 いま、縁側に立ち、広がる農地の地平線から昇る朝陽を見ている。陽を浴びながら、一縷望みを持ったことを後悔しない、希望に似た気持ち。
 オレは、こういう朝を何度も迎えたい。何度だってこういう朝を迎えたい。
 羽虫のような音にリュックから携帯電話を出すと、バイブしている携帯の画面に家の番号があった。
「どこにいるのっ?」半狂乱の叫びが耳に刺さった。
 怒鳴り続ける母さんの声を聞きながら、オレは、
「すぐ帰る」と言った。

四.ひと夏の経験なんてアタラシクなったオレにはもうどうでもいい


 夏休み最後の日、オレはひとりで「まだ知らぬ生臭さ」を訪ねた。初めて入るラブホテルで、エントランスの受付に嵌る曇りガラスの窓に向かって「佐々さんいますか?」と訊ねた。
「サササン?」年配の女性らしき声が聞こえた。
 窓の下のほう、片手が入るくらいの四角い穴から、佐々にもらった名刺を見せた。
「たしかにうちの会社の名前だけど、うちの名刺ではないね。これ、どこで……」窓の穴から伸びた指が名刺を捕らえるすんでのところで、オレは走って逃げた。
 自転車に飛び乗ったオレは、図太くなりたい、図太く、図太く、とペダルを漕いだ。
 あの朝、酒まみれで身体中べたべたのまま帰ったオレを見て、母さんは諦めたように言ったのだった。
「あんたのこと、自由にさせてやれってカズが言ったのよ。ラックは大丈夫だから、そんなに心配いらないって。なんでか知らないけど自信満々に言うから、それに賭けるわ。そっちのほうが楽だからね」
 そして母さんはこう継いだ。
「カズを見なさいよ。全部ここに置いて、いま、幸せそうじゃない。それでわたしたちまで幸せにしてくれてるんだから、図太いことは悪くないのよ。あんたも図太くなんなさい」
 図太くならなければ。容赦のないものがやってきてまた怒りの球体が膨らんできたら、ぶっつぶすまでよ。だってそればかりにかまけてるなんてつまんねーだろ? まじで!

 新学期がはじまった。
 椎名とは、オレが素直に謝っただけで簡単にもとに戻れた。
 夏休みになんの連絡もくれなかったヤツらとも、なにもなかったようにつるんでいる。もとに戻っただけなのか、新しくはじまったのか、知らない。オレと椎名がぶざまな殴り合いをしたとき、ヤツらは止めに入ってくれた。その事実があるだけで、いい。
 体育の授業後、更衣室で椎名はまず携帯電話をチェックする。ショウちゃんからの履歴があれば即レスしないとヘソを曲げるらしい。
 いつまでも携帯をいじっている後ろから覗きこんでも、椎名は気にしない。どころか、ショウちゃんの新作写真を見せてくる。オレはその度どうでもいい態度で無視するのだけど、
 あれ? と、今日に限って、見入ってしまった。この女、こんなにかわいかったっけ? まっすぐこちらへ花が咲いたみたいな笑顔。
「あんま見んじゃねーよ」
椎名が画面をロックした。
「見てねーし」
 オレは目を剥いて吐き捨てるように言ってやったが、体操服から制服に着替えながら、
「いいな」
 口をついて出た。ふたりの世界、みたいなもの。あれは椎名だけに見せる笑顔なんだ。きっと椎名も、ショウちゃんだけに見せる顔があるんだろう。
「ついに目覚めたか」と、椎名は着替え途中ではだかの上半身の腕を、オレの肩にまわしてきた。脇から微かにネギのような匂い。
「どんなんが好みなんだよ」
 相変わらず罪のない無邪気な顔で、なにをカン違いしているのか。
「バカめ」
オレは心臓のあたりにぽやぽや生えている毛をむしり取ってやった。
「なにすんだてめえ!」痛がる椎名を見て、周りは爆笑している。
「ショウちゃんにも、胸毛キモいから剃れとか言われてよ」
「そこだけ剃っても無駄だろ。全体的に濃いんだからよ」オレが言うと、
「うわっ。ケツ毛ボーボー! 引くわー」と、誰かにパンツをつかまれ、椎名が尻をさらされている。
「まじで傷つくからやめて」
 椎名が言い、皆が笑っている。オレも笑っている。あの夜、夢で見たのは、椎名の胸毛だった。
 大人の男の手は、腕は、薄情に映るほど毛が薄かった。
 きれいな空をTシャツにしてお揃いで着たいと思ったのは、椎名だった。
 そういう感情を抱えて生きると決めたのだ。

 喪服の人々の足もとを縫って黒いワンピースがよたよた駆けて行く。
「こらこら、待ちなさーい」
 追いついたオレは抱き上げた。
 あの夏、姉ちゃんの胎のなかにいたものは二歳の女の子になった。
 今日、やっとばあちゃんのお骨が帰ってくる。
 遺体を医学部の検体に捧げた人々の遺族が集まる合同葬儀。大学の講堂は喪服を着た学生たちもあわさり、まっ黒にひしめいていた。
 葬儀が終わり、黒い喪服が吐き出されていく光景は、時代がかった石造りの建物を聖堂たらしめていた。
 姪っ子が小さな身体をぴちぴちさせてむずがるので、すぐに姉ちゃんに抱き移した。母親に抱かれ、いつまでも落ちない涙の粒を目の端にくっつけている。かわゆくてしょうがなかった。あんなに禍々しかったものが胎から出ると愛しい生き物になるなんて、そんなこと、十六歳だったオレは知らなかった。
 周りを行き過ぎる喪服が振り返りこちらを見ていた。人々は、オレと姉ちゃんのやりとりを見て、心許ない表情をしている。
 高校の制服ではなく黒のスリムスーツを着ていたオレを、背の高い女だと思っていたのだろう。
 この二年、自分の変化を見てきた。頬の肉が減り、少し面長になった顔は、伸びた髪で半分ほど隠れているときなど特に、二十代の女性に間違われた。アタラシクナリタイ。を求めていた少年に届いた返書は美しさだった。ただ、いまの過程は本意ではない。美しさと女性的であることは関係無いから。
 だからオレは、わざと周りに知らしめるよう声をあげる。どんどん野太く低くなっていく声に愛着があるから。
 周囲はオレと姉ちゃんへ、ああ、よく似たこのふたりは姉妹ではなく姉弟なのか、と珍しいものを見るような目を向けていたのだった。
もう慣れっこのそういう反応を受け流していると、
 面影を見つけた。
 オレはそれを見かけるたび目を凝らす。どこかにいるかもしれない男のために笑いかける。見て。アタラシクなったオレを見て。自分の美しさを覚え、図太くなった男を見て。床にひっくり返って泣きわめいていた少年はもういないよ。
 黒い群衆のなか、オレを見ていた男が――。
「やっぱり叔父ちゃんがいいって」
 姉ちゃんに言われ姪っ子を抱き受けた。
 視線を戻すと、背を向けた黒い群れがあるだけだった。
 ほんとうのところ面影はあいまいで、あの夏焦がれた大人の男の手で柔らかい生き物を包む俺にとって、もうどうでもいいことだった。

   ⁂⁂⁂

 最後の手紙です。
 私はもう死んだものと、忘れてください。
 どうか、この手紙は読んだら捨ててください。
 勝手な手紙を送りつけていたことを後悔しています。
 許されるならお会いして謝りたい。
 けれど私はもうこの世にいません。
 自ら命を断つという意味ではけっしてありません。
 私は、新しく生まれ変わった人間として生きていきます。
 都合のいいことを、とお思いでしょう。
 そういうふうにしか生きられなかった。
 私は妄執に囚われていました。
 彼女に一目会ったときから惹きつけられ、ほうっておくことができなかった。それなのに、大切にする方法がわからなかった。
 居場所をつきとめた私は、遠くから見ることしかできませんでした。声をかけることも、近寄ることさえできなかったのです。
 たよりない足で歩く小さな息子を抱き上げた彼女は、知らない女になっていました。そこには、地に足のついた生活をしている強い女がいたのです。
 もう、私など必要なくなってしまったのです。
 私が苦労して守ろうとしていたあれのことも、きっと忘れているでしょう。
 息子の名前も知らないままですが、私はそれでいいのです。
 息子には息子の人生がある。私には私の。それだけです。
 ただ何度だって新しくなればいい。
 そんなふうに願うだけです。

   ⁂⁂⁂

                                     〈了〉

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