【連載小説】ノイズ(仮) 第六回

あの男だった。大人の男の手を持つ男。
投げつけられた塊はほぐれ、憶えのある声になった。微かな腐臭が漂うほど熟れすぎた果物を思わせる、甘苦く低い響き。その引力に引き寄せられたオレに男は、
「お手伝い、必要ないですか?」と言った。


三.ボウズ頭になったオレだったけれどアタラシクナリタイは遠い


 庭の草刈りも母さんに言われた畑部分、「宝の山」を除いてすべて終わった。経年劣化や積年の手垢、ほこりで汚れていた家具も、ひとつひとつ丁寧に、分解ができるものはばらして、隅々まで磨き、またもとに組み直した。やかましい音楽を聴きながら淡々と。
 壊して更地になるのを待つばかりだった家は、家具をもと通り配置した居間だけ見れば、いまでも健全に暮しが営まれているようだった。
 成果の実感は次の作業の糧になる。
 ばあちゃんが亡くなりいっさいがっさい当時のままほうっておかれていた家のなかで台所は一番の難所だった。(ちなみに一番腰が引けていた便所はきれいだった。ばあちゃんが老人ホームに入った直後に母さんが掃除を済ませていた。「これだけはね」と、母さんは言っていた。)特に冷蔵庫はいやな存在感を放っていた。電気が通ってからもコンセントは入れていなかった。
 いざ、冷蔵庫の扉を開けてみる。
 ほとんどの食材は原型をなくし、すでに液状化を通り越して干からびて、なんだかよくわからない茶色い塊が入ったビニール袋がいくつかあった。端っこをつまみあげると、染み出た粘液が乾いたのがこびりついていて、べりべり剥がれた。
 食材の屍たちが横たわる冷蔵庫内をおそるおそる検分しつつ、そのまま捨てられそうなものは、三重にしたゴミ袋に入れていく。分別に迷ったら燃えているところを想像できるかどうかで決めた。調味料などの中身も袋にどろどろ流し入れた。結果、四五リットルゴミ袋満々の恐ろしい袋詰ができあがった。これらが巨大なゴミ焼却炉で燃えてゆくところは想像できるけど、かつて摂取すれば体内の工場でカロリーに変換される食物であったことは、もう想像できなかった。
 天気予報の通り昼近くには今年一番の暑さになった。気温の上昇に比例してキツイ匂いもますます立ち昇ってきた。匂いと暑さとの戦いだったが、ゴミ袋を外へ出してしまうと開け放した窓から通る風がだいぶ匂いを流してくれた。
 空になった冷蔵庫は磨きあげても染みついた匂いが残った。冷やすことで匂いが薄まるのを期待しつつコンセントをプラグに差すと、ウゥーンと息を吹き返した。
 ぴかぴかに蘇生した冷蔵庫の横には、がびがびいろんなものがこびりついている流し台。かがんで下の収納部の引き戸を開くと、暗がりに大小の瓶詰が並んでいた。べたべたの床に四つん這いになってよく見ると、それは手作りの保存食や果実酒だった。果実酒の瓶は納屋や二階でも見かけた。ばあちゃんは生前、ひとりでどんだけ漬けこんでいたのか。もはや目的は保存ではなく作ることだったのだろう。
 保存食の仕込みをするばあちゃん。縁側に新聞紙を敷いて、山菜やら山の果物やら野草やらを拡げ、皮を剥いたり洗ったりしていた、静かな背中。
 食卓に瓶詰を並べてみた。天板を占拠してもまだ余る量で、大きな瓶の果実酒などは床に並べた。
 昼食の握り飯を食べながらひとつひとつ取り上げて見ていると、ガムテープのラベルに油性ペンで記した二年前の日付と「三升漬」の文字を発見した。
 蓋を捻ると、ぽんっと密封が解かれ記憶にある辛い空気が漂った。鼻を近づける。キケンは感じない。漬け汁に浸した箸の先を舐めてみた。うまい。飴色に漬かった具を箸で掬って握り飯に載せ、頬張った。咀嚼するたび飯と甘辛い三升漬の具が絡まって旨みが増し、三升漬と飯を交互に口に運ぶのが止まらなくなった。と、猛烈な辛さが時間差でやってきた。流しのシンクに屈みこんで水道水をがぶ飲みした。辛さに舌を噛むように息をしていると、CDラジカセから耳に心地いい不思議な旋律が流れてきた。世界一有名なバンドのCDだった。やはりジャケットに惹かれてレンタルしたのだった。耳に残る旋律が気に入って、リピートボタンを押した。
 さすがの天才四人組……。四人? 四人だよな? 思い出そうとしても中学のときの音楽の教科書に載っていた写真すらおぼろげだった。不気味な印象なのにやけにキャッチーなその曲に、癖になる心地好さに、最初ほんの鼻歌だったのがいつのまにかでたらめな英語をあわせ歌っていた。
 あ~るくおーざっろんりーぴーぽー!
 あ~るくおーざっろんりーぴーぽー!
 ……えりなりぐびにゃにゃにゃにゃーにゃー、
「ごめんください!」
 重く固い塊のような声に背中を打たれ飛びあがった。あわててラジカセを止めると、開け放した縁側の額装されたような庭の緑のなか、男は申しわけなさそうな顔をして立っていた。
 あの男だった。大人の男の手を持つ男。
 オレは流し台に寄りかかり、ばくばくいっている心臓を押さえた。なに驚かしてんだよっ! 舌打ちしたいのをおさえ、「なんなんスかっ?」と口に出るまま言った。
 男は縁側に両手をついて家のなかを覗きこみ、
「おー、頑張ってるね」
 なにが「頑張ってるね」だ、馴れ馴れしいヤツめ。思いながら、やはりその腕が気にかかった。見ていると苛立ちが不思議と鎮まっていく。
「良かったらなんだけど、全然、都合とかあると思うし、こっちが趣味で言いだしただけだから、気を遣わないで断ってもらっていいんだけど」
 投げつけられた塊はほぐれ、憶えのある声になった。微かな腐臭が漂うほど熟れすぎた果物を思わせる、甘苦く低い響き。その引力に縁側へ引き寄せられたオレに男は、
「お手伝い、必要ないですか?」と言った。
「おてつだい?」
「早季さんには、親戚がお世話になったし、良かったら、なんだけど」
 男はそれしか言わなかったが、どうやら、オレがいまやっているこの作業、ばあちゃんちの掃除に、協力したいと申し出ているようだった。
 はっきり言ってない。母さんでさえあんだけウザかったのにありえない。
「えーと……」オレはそれでもいちおう考えるふりをした。
「どうも、ありがとうございます。でも、いいです」言いながらダルくなる。断るのも面倒くさいんだからそんな申し出すんなよな。
 男は視線だけ下に向けなにか考えているようだった。汗で束になった髪の毛に滴が一粒伝っていた。なにぼーっとしてんだよ、帰れよ。なぜか突っ立ったまま動かない男に微かな恐ろしさを感じた。さっさとこの時間から逃れたくて、オレは男が立ち去るのを待たず、「じゃ」と小さくつぶやき背を向けた。
 ああ、さっきの曲はなんていうんだろう? あ~るくおーざっろんりーぴーぽー! 
「これ、良かったらどうぞ」
 振り返ると、男は持っていたものを縁側に置いた。
「ミルクプリン。うちで使ってる余りモノで悪いんだけど……」
 オレは足もとに置かれた白い小箱を見た。目の前の男は、縁側に立ったオレと同じくらいの目線になったせいか、前に対峙したときよりも若く見えた。プリン……? 余りモノ……?
「なに屋さん……レストラン?」オレが訊くと、男は少し笑って、
「会社で不動産扱ってて、そのプリンはうちで管理してるホテルのウェルカムスイーツ」
「ホテル……」
「ちょっと前にリニューアルした『Z』ってラブホテル」
 Zと書いて「ズィー」と読む。行ったことがあると吹聴しているヤツから聞いたことがあった。ラブホテル。現実味がないくせにやたら生臭いその単語は、男の声、甘苦く低い響きにいやに似合って臭みが増すようだった。その生臭さへのリアクションを知らないオレは、返す言葉もない。
「じゃ、それだけなんで」男は軽く会釈して縁側を離れた。
 あっ名前……、思ったが、追いかけて訊くことはしなかった。男の車が遠くなるのを、縁側に立って見ていた。
 どっと疲れた。オレは縁側に座りこむと、小箱を乱暴に開けた。透明のプラスチック容器。白いプリンふたつ。
 食器棚からガラスの皿とスプーンを出して洗い、皿にプリンを移した。つやつやの白い円錐台をスプーンで崩そうとしたところで、思いついた。
 リュックから小さなタッパーを取り出し、なかの赤いどろっとしたものをプリンにかけた。「宝の山」に生っていた苺を半殺しにつぶして砂糖をまぶし、一晩寝かせたもの。母さん直伝のすっぱい苺をおいしくいただく方法だった。出がけに母さんが「デザート」と、タッパーに入れて持たせてくれたのだった。ひとさじ口に入れると、甘酸っぱい苺が淡白なミルクプリンと溶けあった。
 小さな後悔。
 ぽつぽつ白髪の交じった髪に汗の滴が伝っていたあの男にも、食わせたかった。
 オレはまた、再び現れた男のことを誰にも言わなかった。

 いろんな色の花びらにくっついてはしたたる水の粒は透明な粘液のよう。
オレは庭の隅にあるベンチに座って、花たちが粘液をからませきらきらしているのを見ていた。母さんがホースのシャワーヘッドから散水していた。薄暮のオレンジの光を反射する飛沫に包まれる母さんの横顔。託している、横顔。母さんが花にのめりこむようになったのは、姉ちゃんがいなくなってからだ。五年前のオレは、いない姉ちゃんに母さんを奪われ続けているようなさみしさを感じていた。
「ごはんできたよ」
 姉ちゃんが庭に出てきた。
 母さんは軍手や帽子を脱ぎながら、
「カズが夕飯作ってくれたから、今日は集中して作業できたわ」と、オレの隣に腰をおろした。
「母さん、こんなに花好きだったっけ?」と姉ちゃんが言った。
 弟が当時の孤独を思い出していたことなどわからないだろうが、せめて母さんが花に託している気持ちを想像するくらいできないのか?
 しらけたオレを見返す姉ちゃんの顔には、なんのわだかまりもなかった。そのままベンチに座ると、母と姉に挟まれ居心地悪いオレの顔を覗きこみ、
「あんた太った?」
「まじで?」だしぬけに言われ、オレは自分の身体をまさぐった。
「ぜんぜん太ってないよ。むしろシュッとしたんじゃない?」
 逆に痩せたのでは? という母さんの意見に、姉ちゃんは、「ああ、そっか」と得心し「たくましくなったんだ」と言った。
 たった一週間ほどの作業で、たしかにオレの身体は陽に焼けて艶を帯び、皮下脂肪が薄くなって筋肉がついたようだった。
「え~超やなんだけど~」オレはえらく辱められたような気がした。すると姉ちゃんは面白がって「気をつけなよ~。父さんのほうのじいちゃん、いかにも土方って感じのゴツイ身体してたけど、腹も出てたし肥満も入ってたじゃん。隔世遺伝ってあるからね」
 父方の祖父母の記憶は、まだ幼稚園児の頃のひどくおぼろげなものだったけど、それでも、力士のような固太りのシルエットは憶えている。
「やだなー。あんなん豚じゃん」とオレ。
「また、そういう言い方しないの!」と母さん。
「ぎゃはは!」と姉ちゃん。
「花の色が東京より濃いでしょ。昼と夜の寒暖の差が、花を濃く咲かせるんだよ」と母さん。
「ふーん」と姉ちゃん。
 花を眺めながら、夏のたびにこうしていたような錯覚。
 ありえない。
 姉ちゃんはついこの間までいなかったのだから。

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