【連載小説】ノイズ(仮) 第一回
鏡に映ったオレのはだか。右手に工作用のはさみを握っている。がりがりに痩せて儚い身体の中心にぶらさがっている。色素の薄い陰毛の紅茶色から淡いピンクのグラデーション。グラデちんこ。オレは十六歳で、胸の奥で膨張し続ける怒りの球体をぶちまけたかった。
第一部「少年ラック」
*
久野 早季 様
前略
不躾ながら突然のお手紙お許し下さい。
私、明石多果夫、平成九年六月二十日に傷害で逮捕され、岩見沢署に勾留、七月二日、勾留延長となりました。七月十二日起訴され、弁護人選任に関する通知書が届き、金が無く困って居りましたので、国選弁護人の請求を致しました。
勾置所に移送され、第一回の公判まで約一カ月、判決までは更に一、二週間掛かるとの事です。
この様な訳で、現在私の名義でお借りしているアパートの部屋へ、暫く帰る事が出来ません。
家賃の方は、妻の明石エナを通してしっかりお支払い致しますので、どうか部屋はそのままの状態で今まで通り私の名義で借りたままにしておく様、宜しくお願い致します。
仕事で関係がある佐々と言う男が時々掃除などで出入りすると思いますが、その際はご挨拶に伺わせますので、そちらの方も、宜しくお願い致します。
重ね重ね厚かましいお願いですが、どうかご温情下さいます様、こうしてお手紙させて頂いた次第です。
又、何かありましたら、妻か、佐々にでも伝言を預けて頂ければ有難く思います。
草々
平成九年七月十四日
明石多果夫
*
一.そんな手紙知らねーオレはとりあえず鏡の前に立っていた
鏡に映ったオレのはだか。右手に工作用のはさみを握っている。がりがりに痩せて儚い身体の中心にぶらさがっている。色素の薄い陰毛の紅茶色から淡いピンクのグラデーション。グラデちんこ。
もうすぐ夏休みの夜。オレは風呂場で視界を遮る前髪をひとつかみすると、根もとからはさみで断ち切った。
鏡の顔。性差も曖昧な童顔。女みてーな。にらみながら、また髪をつかむ。切る。床に黒い猫っ毛の素描。
オレは十六歳で、胸の奥で膨張し続ける怒りの球体をぶちまけたかった。
風呂場から出てきた息子を見た父さんと母さんがなにか言うまえに、オレは言った。
「前髪切ってたら失敗しただけだから」
前髪をグシャッとつかんで根もとで切る。それを四、五回繰り返した。生え際から頭の中央にかけて雑な丸い空き地。ところどころ透けている青ざめた頭皮。空き地の周りは耳にかかる長さの猫っ毛のままなので、皿からまだらに毛が生えた河童のようだった。
学校での反応は様々。
変態した珍しい虫のようにじろじろ見られ、訝しがられ、冷たい顔で笑われた。
思い知った。ヒトを批評するのに、見た目って、髪型って、こんなに大事なんだ。
華奢でそこらの女子より背も低く中性的な顔立ちはそれまでも「かわいー」なんつって女子にイジられてた。要はナメられてゆるキャラ扱いされていた。そんなオレが「メンヘラくん」「河童」あげく「しりこだま」などと呼ばれ、根も葉もない噂や悪口の的になってしまうのは一瞬だった。
クラスの女子が非難がましい声色でつぶやいていた。
「落ち武者かよ」
一番気が利いていた。
まげを切られたざんばら頭の月代に見立てたのだろう。「いつも眠そう」と言われる覇気のないなまっちろいオレの顔は打ち首で数日さらされた生首みたいだしちょうどいい。
男友達らは好奇心と心配を半々に理由を訊きたがった。
「鏡見ねーで前髪切ったら失敗したさ」
両親に言うよりいくぶんおどけたつもりだったけどヤツらの反応は引き潮で返す波はなかった。ヤツらにしてみれば好奇心は満たされないし、心配して損した! そんなところだろう。
オレの周りには誰もいなくなった。
それでも椎名だけはふたりきりのときに「ほんとうはなんしたのさ?」と食いさがってきたが、そんな椎名にもオレは「失敗した。ダリぃ」としか答えなかった。
髪を切った理由を説明するのは難しい。
理由はある。なのに言語化しようとすると頭のなかにもやもや靄が立ちこめて言葉は隠れてしまう。
強引に靄のなかから言葉をつまみあげたところで、伝わるなんて信じられない。それが悲しいことがまた、面倒くさい。そういうこと。
ベッドに仰向けになり振りまわしていた腕が、慣性のまま宙に浮いていた。天井が青白い。明け方だ。食いしばっていた口を大きく開きやっと呼吸する。
わずかに開いたドアの隙間から母さんがこちらを見ていた。かわいそうなリーガン。その目は悪魔憑きの娘でも見ているようだった。
昼間あんなに眠いのに夜になるとまったく眠れない。一晩中いらいらしたあげく朝方やっとまどろんだ頃、オレはベッドの上、唸り声をあげ腕をぶんぶん振りまわしのけ反ったり転がったりしているらしい。
オレにその記憶はない。たださっきのように目覚めた視界に腕があり、食いしばり過ぎた歯茎の痺れるような痛みがあるだけだ。夢を見ていた感覚もあるけど、起きたときには忘れている。
そんなふうに朝方癇癪を起こしたように暴れうなされているオレを、母さんは何度も見ているのだった。
「なにか心配ごとがあるんじゃないの? なにか、学校で……」母さんが皆まで言う前に、「なにもないよ。いじめとか、オレあってねぇし」そこだけははっきりさせておきたかった。オレは別にいじめにあってるわけではない。これはオレだけの問題だ。
それなのに母さんは担任教師から呼び出された。
学期末の試験で学年の中間層からいっきに最下層へ成績順位を落とし、突然珍奇な頭髪で現れ、クラスどころか校内でも浮いた存在になってしまった息子(オレ)について。進路指導室で、オレと母さんに担任が言った。
「どうでしょう? お母さん、楽美くんも。学校と提携している小児心療内科の病院があるので、そちらで一度診てもらうというのは?」
オレを憑きものに侵された娘のように見ていた母さんも、まさか悪魔祓いのメリン神父を呼ぶわけにいかないのだった。
そしてオレは病院の待ち合い廊下の椅子に座っている。
「沢木楽美さん」
呼ばれた診察室で対峙したのは若い女医だった。ベリーショートに化粧気のない顔がすっきりしていてかっこよかった。女医の質問に、オレは「はあ」「うーん」とか言って脂下がるしかない。心の裡を掘りさげられるのが恥ずかしいことだとは知らなかった。だいたい「思春期外来」っつー名称からして面映ゆい。
「どうしてそんな髪にしちゃったの?」
「いや、わかんないす」へらへらしてしまう。
「突発的に自分で髪を切っちゃうってことは、いままでなかったのね?」
へらへらうなずいた。
「これはほんとうに大事なことなんだけど……」女医は端正な顔をさらにきりっとさせ、
「はさみで髪を切っているとき、自分の身体を傷つけようとか、死にたいとか考えていたことはなかった?」
ほんとうに驚いてしまって、すぐに言葉がでなかった。女医にじっと見据えられ、
「そんなこと……考えたこともないです。オレ、死にたくないもん。自分で自分のからだを切るとか、そんな、気持ち悪い。ってか、こわいっす」本音がでた。そんなシリアスなこといきなり言わないで欲しい。
「じゃあ、たぶん、そんなに心配するようなことじゃないかもしれない。もっと小さな頃から自分でも説明のつかない深刻な症状があるなら、もっと大変な、治るのにずーっと時間がかかったり、もしかしたら治らなかったりする病気も考えられるけど、楽美くんのはそれとは違うみたい。一時的に罹ってしまう、心の風邪のようなものだと思うの」
「心の風邪……」
また、へらへらしてしまった。
風邪に喩えた女医はそれになぞらえ、薬をちゃんと飲んでよく休めば、時間とともに治まってくると説明を続けた。
女医の勧めで外に出るときは帽子を被ることにした。それこそ「落ち武者」の月代を隠すため。
それでもオレはふつうの高一男子には戻れなかった。
クラスメイトに話しかけると、にやにや顔で無視されるか、過剰な拒否反応を示された。携帯電話に着歴はなくLINEもブロックされたようだった。もともと読む専門だったツイッターも友達の不快な文言が流れてくるのを見たくないので、アカウントを削除してやめてしまった。これはいじめなのか? 思うときもあるけど多分違うだろう。そう結論づけるオレにいまの状況は清々しいくらいだった。オレにはなにもない。ひとりだけの時間を自分のためだけに使う。
いきなり真夏がやってきた。六月生まれのオレは母さんに「あんたはほんとうにいい季節に生まれてきたのよ」なんて言われてたけど、近年はエゾ梅雨とかいってじめじめ湿度の高い毎日で、この北国の田舎にもさわやかな初夏なんてなかった。
そこへきて今日の暴力的な太陽の陽射し。世界が眩しく照らされて白飛びしている。オレは庭の隅にある木のベンチに体育座りしていた。父さんと母さんが花壇にブロックを設置している。ゼネコン会社の設立記念でたまたま休業日だった父さんがふだんの習い性で現場監督よろしく母さんに指図しているが、庭仕事をヒトに仕切られるのが嫌いな母さんはうっとおしそうだった。
「思春期外来」で処方された安定剤のせいで頭がぼーっとする。今日は薬の初日で大事をとって学校を休んだのだけど、明後日から始まる夏休みも、きっと一日中こうやって過ごすのだろうな、これはオレの夏休みの鋳型だな、そう考えていた。
と、母さんはなにも言わずにオレの頭からニットキャップを取り、つばの広い麦わら帽子を載っけてきた。直射日光が遮られた視界に、いまが盛りを迎えようと漲らせている花たち。ノウゼンカズラ、ゼルフィニウム、ジギタリス、ホリホックらが咲き乱れて、周囲にフロックスの、バニラに清涼感を加えたような香りが漂っている。
五年前、庭仕事は母さんの生き甲斐になった。
小学生だったオレは土運びなど簡単な庭仕事を手伝ううち、花の名前に詳しくなってしまった。母さんが作りあげた芸術作品、母さんの小宇宙とも言える庭を眺めるのがオレは好きだ。
田舎のここは住宅地と言っても隣家が密接しているわけでなし、家の前のだだっ広い通りだって車はもとより人の行き来もそんなにない。庭の花たちと木々の葉擦れや鳥のさえずり、風の音、作業中の両親の会話。オレを脅かすものはなにもなかった。そこへ、ごろごろごろごろごろ……。聞き慣れない音がした。
転がるような音はしだいに大きくなって近づいてくると、通りからの眼隠しになっている繁茂した薔薇の向こうで止まった。
淡いピンクの花びらと緑の葉のモザイクに、音の主の断片が覗いていた。女だった。咲き乱れる花々に目を奪われ、足を止め庭先を覗きこんでいる。そんなところだろう。
うちの庭は小規模ながら母さんの丹精による見事なもので、時折、まったくの他人、たいていは同じように園芸を愛好しているおばさんとかが、見事に咲かせたボニカやバレリーナという薔薇の秘訣を訊ねたり、人家の庭に植わっていることが珍しい山野草のシコタンハコベやヤナギランなどを目ざとく見つけ、同じ趣味人の気安さでもって一時の交流を交わしたりすることもよくあった。
すると、
「かずみ」
母さんは持っていたスコップを抛り、長靴を鳴らしながら薔薇の茂みの向こうに走り出た。
「びっくりしたー! 入んなさい! いいから入んなさい!」
母さんの嬌声にオレと父さんは顔を見合わせた。
オレはベンチから立ちあがり母さんの嬌声を追いかけた。玄関ドアを開くと、陽にさらされていたせいでいきなり薄暗くなった視界に、ハイヒールを脱いでいる女が現れた。
困ったように脂下がっているその若い女は、この家のひとり娘であり、オレにとっては姉ちゃん。十八歳で家出した姉ちゃんの、五年ぶりの帰宅だった。
リビングに通されお客さん然とソファに座っている姉ちゃんは、ふつうの若い娘みたいだった。
ほんとうにこれが、あの姉ちゃん?
この陽気では暑かったろうトレンチコートを簡単に畳んでソファの肘掛に置いた「姉ちゃん」。クリーム色のブラウスのノースリーブからまっ白な細い腕が伸びている「姉ちゃん」。黒いスカートの細かいプリーツがソファのくぼみに沿って膨らみそこから伸びた艶のあるパンストの足を斜めに揃えている「姉ちゃん」。
こういうのは、オレの知ってる姉ちゃんじゃない。
ついついガン見していると、姉ちゃんが言った。
「ラック。大きくなったねえ」
ラックとはオレことだ。名前の楽美からきている、小さな頃からの愛称だった。不思議と通りがいいようで高校生になったいまだに友達にもそう呼ばれていた。
「てか、その頭どうしたの?」
姉ちゃんに言われて頭頂部に手をやると、麦わら帽子がなくなっていた。ベンチから移動している途中に落としたらしい。「河童」の皿、「落ち武者」の月代が露出していた。オレはニットキャップを被りながら、「姉ちゃんも……」と言いかけやめた。いまは噤んだほうがよさそうな気がした。
母さんが庭のハーブを煮出したお茶を淹れると、姉ちゃんはカップを受け取り「ありがとう」とのたまった。
不安に襲われた。まるで「善良のコスプレをしている姉ちゃん」というコントだ。便乗しようものなら「調子乗ってんじゃねぇ」と冷たいボディブローを食らわされそうな……。
いつの間にかリビングの隅に父さんが突っ立っていた。やはり、不気味なものを見るような目を娘に向けていた。
姉ちゃんがバッグから紙袋を取り出し、
「こういうの、好きかどうかわからないけど……」
受け取った母さんがはしゃいだ声を出した。
「あらあ、かわいい! ねえ、お父さんも、こっちに座ってちょっとお茶しよ。みんなでいただきましょ」
マカロンだった。透明のプラスチック箱に淡いカラフルな色が並んでいる。
まじで誰この女。かわいいお土産持ってきてなにしてんの? 知らねえっ……! こんな女知らねえ!
唐突に、
「と ま と」
父さんの滑舌のいい発音。
「トマトに水やんなきゃ!」父さんは踵を返し、「萎れるべや!」捨て台詞とともにどたどた玄関から庭へ出て行ってしまった。
あ! ズリィ逃げた! オレだってこの場から立ち去りたいのに!
そわそわしている男どもなどよそに、母さんはマカロンに手を伸ばした。次いで姉ちゃんも。
「これ、なんの味なの? おいしいけど、わからないわ」
「それは、塩マカロンだって」
「そうなの? ものすごい青い色。和美の緑のは、なに味?」
「あたしのはピスタチオだって」
オレが個包装を手に取ると、母さんはすかざす、
「ラックのは、赤い、いちご味?」
「……たぶん」
「ラックのはね、たしかラズベリーだったと思うよ」
「ラズベリーっていえば、ほら、和美がまだちっちゃくて、ラックも赤ちゃんだった頃、野苺つみに行ったの憶えてる? いっぱいとって、ジャムにしたじゃない?」
「あたし憶えてる。あの河原まだあるの?」
「あるよ。ただもう何年も行ってないから、野苺はどうかねえ……」
小さなマカロンをねちねち食べながらなされるどうでもいい会話。ただ肝心の、
どうして、いま、なにがあって、ここに帰ってきたの?
という質問は、母さんも、もちろんオレもできないでいた。もっとも、まだそれを訊く段ではない。母さんを見ればわかる。いま、五年ぶりに娘が帰ってきた。それだけがすべてみたいだった。
姉ちゃんが食べかけのマカロンを見つめながら言った。
「なんだか、申しわけない。母さんもラックも、気を遣わせて、ごめんね」
さっきの「ありがとう」といい、この女の口から「申しわけない」だの「ごめんね」だのが飛び出してくるとは!
オレは心で叫びながら、真顔で歯に絡みついた甘酸っぱいマカロンを舌で舐めとっていた。驚き過ぎて表情が感情に追いつかない。
姉ちゃんは窓の外に目をやり、父さんがホースでトマトに向けて派手に放水しているのを眺めながら言った。
「ただちょっと帰ってきたかっただけなの」
嘘だね。オレは黒眼だけを「姉ちゃん」に向けた。
七歳上の姉ちゃんは、オレが物心ついた頃にはすでに「不良」とか「ヤンキー」とか(それってなに? オレは見たことないけど、大人にはそう)呼ばれる類の娘になっていた。可愛がってもらうどころかまともに会話した記憶すらない。
オレは姉ちゃんがこわかった。
姉ちゃんはいつも禍々しい磁気を放出していた。幼いオレは敏感に磁気を感知すると、当時与えられたばかりの自分の部屋に逃げこんだ。家族のなか一番幼く脆い存在だったオレの、消極的な護身術だった。
それでも否応なく磁場に引きずりこまれる。
小学校にあがったばかりだった。
当時のオレにとって帰宅後の数時間は家でのびのびできる貴重な時間だった。オレはいつものように「ただいま!」と玄関から奥のリビングに向けて声をかけた。
その日、母さんからの「おかえり」はなかった。鍵を掛けないで買いものにでも行っているのかな……。
みょん、と磁場の狂いを感知した。
玄関の三和土に無造作に脱ぎ捨ててあった。
バカでかい薄汚れたデッキシューズのようなの。同じように転がっていたのは姉ちゃんのローファーだった。やっぱり姉ちゃんがいる! どうして! こんな早い時間に家にいるんだよ! 玄関の三和土に散乱している二組の靴。つまり、いま家のなかには、姉ちゃんと、姉ちゃんと同じ属性の男がいる、ということだ。
幼いオレはその男と姉ちゃんが発している磁気に三半規管をやられ、くらくらした。一縷望みで「ただいま!」ともう一度叫んだ。返事はなかった。母さんはいない。逃げようと玄関ドアのノブに手をかけたときだった。
頭の上から変な声が降ってきた。いたいけな少年ラックの耳にはたしかに「にゃあ」「にゃあうん」と聞こえた。猫カナ? 大きな猫なのカナ? だって鳴き声が大きいもの。甘えるような声だから、大きな仔猫なのカナ?
少年ラックは大きな仔猫があげる鳴き声にまとわりつかれ、その場から動くことができなくなっていた。それはつまり姉ちゃんと男の睦み声だったのだけど、当時のオレには幻獣の鳴き声としか理解が及ばなかった。
玄関で突っ立っていた少年ラックは、事を終えて階下におりてきた姉ちゃんにあっさり見つかったのであった。
「帰って来たなら言えよガキが」
姉ちゃんは困惑している幼い弟の頭を平手で打った。少年ラックはすすり泣いた。大声で泣くともっとひどい目にあわされることを知っていた。声を殺して泣く日々だった。
少年ラックの悲劇は続いた。
その日も、姉ちゃんは家にいないと思いこんでいた。
「うるせえっ! ころすぞ!」ドアを蹴破らんばかりに乱入した姉ちゃんは、悲鳴をあげて逃げ惑う少年たちとそこらのものをめちゃくちゃに蹴散らした。少年ラックと友達は興じていたプレステ3のバイオハザードの世界を現実が凌駕するのを見た。弟だろうがその友達だろうが姉ちゃんには関係なかった。
以来、「ラックの姉ちゃんこわいからラックんちで遊びたくない」と、友達はうちに遊びに来なくなった。
そんなふうに幼いオレは、姉ちゃんに理不尽とはどういうものか嫌というほど教わった。
オレは当たり前に姉ちゃんを嫌悪していった。
だから姉ちゃんが高校を卒業したら家を出ると言い出したとき、小五になっていたオレは「ヤッター」と無邪気に喜んだ。もちろん姉ちゃんのいないところで。
けれども姉ちゃんは高三の春の時点で進学も就職も決まっていないどころか、単位が足りず卒業すらあやしかった。
この頃から父さんVS姉ちゃんの攻防は日常になった。オレはふたりが家のなか接近する気配を感じれば、すぐ自室に逃げこんだ。ドアごしに、父さんと姉ちゃんの怒鳴り合う声、ときには参戦したり懸命に仲裁したりする母さんの声、なにか固いものが崩れたり倒れたり叩きつけられたりして破壊される音が聞こえた。少年ラックにとって、シェルターの外の爆撃音だった。
いま、オレが思い出すそのビジョンは暗い。喧々諤々どんがらがっしゃんを自室のベッドの上、布団に潜りこんで聞いていたのだから。
夏になり姉ちゃんは頻繁に外泊するようになり帰ってこない日が増えた。両親は姉ちゃんの高校に呼び出され卒業は絶望的だと伝えられていた。このままでは退学処分も有り得るとも。
秋には姉ちゃんはほとんど家に寄りつかなくなった。父さんも母さんも探しまわることをやめていた。
父さんが爆発した。
三週間ぶりに帰宅した制服姿の姉ちゃんは、ふつうに朝学校へ行って帰ってきたような顔で玄関から堂々と入ってきた。
いつもなら父さんの「どこへ行っていた」から、金切声と怒声の応酬がはじまるはずだった。オレはそれを機に巣穴に逃げこむ脱兎のごとく自室に向かう。ところが、
姉ちゃんが浮いていた。
どすん!
オレの目の前に落下した姉ちゃんは頬をおさえ父さんを見あげていた。可愛げさえあるきょとん顔。オレも同じような表情をしていたと思う。
父さんが姉ちゃんの頬を張り飛ばしたのだった。
匂いがした。香水が立ち昇り、そのかげから煙草やアルコールの匂いが交じって、さらに彼方から、甘ったるい匂いがした。それは体育で女子が着替えをしたあとの教室に漂う匂いと同じだった。
オレがそういった匂いを感知している間、姉ちゃんは野獣のように叫び声をあげてもがいていた。
それをおさえつける父さんは無表情のまま娘の口にタオルを詰めると、ぐるり後頭部からガムテープを巻いて口に封をした。びちびち暴れ続ける娘を床にうつ伏せにすると、背中に馬乗りになりタオルでうしろ手に縛ったさらに上から、ビニール紐できつく縛る。両足首も同じようにする。タオルやガムテープ、ビニール紐、それらを切るはさみなどは、あらかじめ玄関の上り框に用意してあった。一連を淡々とこなす父さんの様子は、大きな荷物を運搬に具合よく梱包しているようだった。
立ち尽くしていたオレは、いつの間にか母さんに頭を抱かれていた。
口を塞がれ身動きの取れない仕様にされた姉ちゃんは、くぐもった声を洩らしていた。ガムテープに巻きこまれて、顔に髪の毛がぐちゃぐちゃに絡みついている。髪の毛の隙間から覗く真っ赤に充血して見開かれた目は、母さんに助けを求めているようだった。母さんは目の周りの髪の毛を掻き分けてやっただけで、緊縛を解こうとはしなかった。
父さんが縛られた姉ちゃんを仰向けにして両脇を抱えあげた。
「そっち持て」
言われて両足を抱えあげた母さんは泣いていた。
半地下のガレージに続くドアを開けると、姉ちゃんを抱えた父さんと母さんは慎重に階段をおりて行った。
オレは、それを、ただ、見ていた。
姉ちゃんが発散した匂いだけが残っていた。
ガレージのシャッターが開く音。車のエンジンがかかる音。やがてエンジン音が遠ざかる。
父さんは、姉ちゃんを殺してしまうのだろうか?
それなのに心の裡はやけに静かで、誰もいない家のなかうっすらと安堵したのだけは憶えている。
やっと記憶が繋がるのは翌朝自室のベッドで目覚めたところからだった。
一階におりると、いつもの朝の光景があった。キッチンのテーブルに用意された朝食と、出勤の支度を終えリビングのソファで新聞を読む父さん。流し台に立っていた母さんが振り返り、「おはよう」と言った。
オレは「姉ちゃんは……?」と訊いた。
母さんは背中で「部屋で寝てる」とだけ答えた。
姉ちゃんは変わった。
絶望的だと言われていた卒業も、それ以来真面目に高校に通い、冬休みを返上して行われた補習授業でなんとかかなうこととなった。
冬の間、姉ちゃんは自室に籠り続けた。たまに家のなかで出くわしても、避けるようにすぐ自室に戻ってしまう。まるで立場が逆転したようだった。あるときオレは勇気を出して、それでも消え入るような声で「おはよう」と言ってみた。洗面台に立っていた姉ちゃんと鏡ごしに目が合った。姉ちゃんはうつろな目のまま濡れた顔をタオルで拭っただけだった。
そして高校の卒業式を終えたその足で、姉ちゃんはどこかへ行ってしまった。
姉ちゃんの部屋の机の上に、携帯電話が置かれていた。姉ちゃんの家出に家族は慣れていたが、これは戻る気のない、永遠のお別れであるという意志表明だとわかった。
雪がとけて遅い春が来ても、父さんは捜索願を出さなかった。母さんは霜の混じっている庭の土を耕しはじめた。
それから姉ちゃんは、五年間、消えた。
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